Case10 火と知の導き手
枢機司祭は厳粛な気持ちで螺旋階段を登っていた。最高司祭デズモンドに呼ばれていたからだ。彼はもはや長くはない。老いさらばえ、痩せ衰え、そろそろ後継者を任命するときだ。そして、それが自分であることを彼女は知っていた。
ヒルアイル聖堂の塔の上からはニューノールの混沌とした、乱雑な、猥雑な市外が一望できた。湾口を跨いで、デレク王の巨像がこちらを睨んでいる。松明を掲げた腕は根元から折れ、反対側の手に持った剣も刃がなかった。
「猊下」
白い髭を生やした老人は赤い祭服に身を包み、堂々と立っている。弱ったその体で杖も突かず、この場所まで登ってきたのかと枢機司祭は意外に思った。
「来たか。今日は君に、大切な話があってここへ呼んだのだ。おおよそ想像はつくだろうが、わたしが亡き後、君に最高司祭の地位に就いてもらうためだ」
その台詞に後継者は驚愕した。話している内容にではなく、一切の儀礼的・慣例的用語を排した点にだ。本来なら今の台詞の内容を伝えるだけで、五分ほどを要していただろう。ローギル派のやりとりとは、蓄積された過去の神聖とされる要素のぶつけ合いだ。その最高司祭ともなれば、生半可な神聖度であってはならなかった。しかし、目の前の老人はそのすべてを省略し、簡潔に話している。
「君にはジュリエットの名が与えられる。誇り高き、最初の最高司祭の名だ。ジュリエット四世ということになるだろう」
「ありがたき幸せ、さながら老サミュエルの言うところの……」
「やめたまえ」最高司祭は手を上げ、制した。「ここには私と君しかいないのだ、枢機司祭、いや、ジュリエット。余計な言葉はなしにしようではないか。これまでの人生で、儀礼的神聖さに身をおいてきた男と、これからその責を負うものの会話だ。今くらいは簡潔に話したまえ。さもなくば、日が暮れてしまうだろう」
本筋と関係のない儀礼的やり取りが多すぎて、会話の途中で日没を迎えるのは、ローギル派にとってもっとも神聖とされることのひとつだった。しかし、最高司祭がそれを自ら否定したために、ジュリエットは決意した。
「畏まりました」
「ああ、それでよいのだ。君が我が後任に選ばれたのは、我らが神聖とするものを内心無駄と蔑み、しかしそれでいて慣習的儀式の数々を愚直にこなす、その資質があったからだ。それこそがローギルの信徒にとって最も重要な資質だ。今後もそれさえあれば、最高司祭としての責務を果たすことはできるだろう。この話に関しては今後、無駄に長ったるく華々しい祭典で、君への最高司祭任命があるから、このくらいに留めておこう。本題に移ろうか」
今のが本題ではなかったのかと思うジュリエットを前に、しばしデズモンドは沈黙した。今から話すことの重大さに躊躇しているようでもあったし、そのくだらなさに呆れているようでもあった。
「……ローギルという神について知っていることは? 信者が必要とする儀礼についてではなく、神そのものについて知っていることだ」
「火と知の神、そしてあまたの顔を持つ神です」
「他には?」
それ以上答えることがないことに気づき、今度は枢機司祭が沈黙した。
「単刀直入に言おう、すでに知っているかもしれないが、ローギルとはイドラによってもたらされた怪異であり、その中でも極めて強いもののひとつだ」
ローギル派が誕生したのは三百年前に大陸を襲った大衝突の時点だ。だから、ローギルそのものをイドラの怪異と扱う学派や宗派は古くからあったが、それは冒涜だという意見と、神の解明は神聖だという意見に分かれ、決着は付かないままだった。
「強大ゆえに、ヒムに匹敵する信徒を獲得するに至ったのですね」
「獲得ではなく簒奪したのだ」最高司祭の声は冷淡だった。「ローギルとは、寄生生物に他ならない。それは宿主の肉体ではなく、信仰に寄生する存在なのだ。伝説に、神話に、そして神そのものに宿る存在なのだ」
最高司祭はかつてこの地で起こった真実について語り始めた。
イドラ界より飛来したローギルは最初に、この地において崇拝された、今では名も残っていない火と知の神に宿った――その姿は、角と翼の生えた巨人であった。そうしてかの怪異は実体を得ると、ヒルアイル島に巨大な掛け金を打ち込み、この地との繋がりを確立させ、主神であるヒムとその信仰に食い込もうとした。
時の教皇、アレクサンダー五世が神託に目覚めたのもその影響だ。そして結果的に、ローギルは天空神ヒムと合祀されるに至った。
「しかし、これはローギルの計画が失敗に終わったことを意味している」デズモンドは眼下の聖堂を指し示して言う。「簒奪するならば、すべてを奪わなくてはならない。今日もデレキアにはヒムの大聖堂が鎮座し、ローギルは天空教会における第二の神という位置づけだ。失敗したのは〈赫奕の英雄〉の奮闘があったからだ」
「赫奕の英雄?」
「知るまい、ジュリエット。かの英雄が敗れたが故にな。彼の物語は、千五百年前にも遡る。ラプタニアより渡りしデレク大王がこの地を治めるよりも、はるか以前に存在した王だ。国土を襲った悪しき怪物を打ち倒したと、古代リンダル人の伝承にはある」
「それは侵略者を退けた指導者という、ありふれたモチーフに聞こえますが」枢機司祭の台詞にデズモンドは頷いて、
「左様、実際に起こったことはそんなところだろう。しかし、伝承の中では違う。彼は紛れもない英雄だった。そしてローギルを倒したのも、その伝説だったのだ」
しばしの思案ののちにジュリエットは、「……ローギルという怪異が宿ることによって実体と化した〈赫奕の英雄〉が、ローギル自身と戦ったのだと?」
デズモンドは頷き、「伝説の通りにな。しかし、ローギルは強大だった。英雄的な戦いは痛み分けに終わった。英雄は力を失い、伝承は消え、怪物は野放しになった。しかし、ローギルもまた弱り、最も強大なヒムの神性に手を伸ばしたが、その信仰をすべて支配するには至らなかったのだ。もしもあの英雄にここまでの苦戦を強いられていなければ、今頃天空教会ではなくローギル教会が我が国の国教となり、この地にさらなる大聖堂を築き上げていただろう。そうなれば私はデズモンド教皇であり、君もジュリエット聖下であったろうな」皮肉に最高司祭は笑った。
「ええ、残念です。そしてかの神が真に今日支配するのは、我々のような怠惰で日和見で、保守的な信徒というわけですか」
「火と知ではなく、な。私が伝えたいのは、そんなところだ。なぜすべてがこうして伝わっていると思う? 初代最高司祭のジュリエット一世が、神託により英雄とローギルの戦いを見ていたからだ。それは代々最高司祭に受け継がれ、何十年かあとに、君も後継者に伝えることになるだろう」
しばし二人は空を見ていた。他領域のものである月の一つが、蜃気楼のようにぼんやりと、昼前の空に浮かんでいる。都市は猥雑にその下にある。今後、神と、冗長な儀礼的挙動がそれらに安楽をもたらすことを――決してあり得ないと知りながら――祈り、二人の信徒は呟いた。
「白炎の祝福があらんことを。オーラム」
大聖堂に詰め掛けた信徒たちの前で、デズモンドからジュリエットへ、聖遺物〈聖火〉が手渡された。赤く光る長大なそれは、ローギルの打ち込んだ掛け金の断片だった。続いて、かつてジュリエット一世が教皇アレクサンダーより託された宝冠が授与され、正式に彼女は最高司祭としての任務を受け継ぐこととなった。
始めの仕事は就任演説だった。
ジュリエット四世は神聖なる太陽への賛美を表す、真上を仰ぐポーズを取り、続いて「どうも手前の皆さん、向こうの皆さん。私は六億歳、確定的にしたいんですけど。驟雨の寄せ手を遠ざけたまえ、太陽の火よ。ちょっと終末的に、今夜は最速でいきたいと思います。あの鶴、鳥の鶴が、来てるというね。もう私はそういうの関係なくなってるから。本当君は、もっと自信持ったほうがいいよ。それすらも、ウェスタンゼルスではね、日常なんで。ちょっと土管じみていますよね。動きが悪いっつーのよ。今宵は最高司祭就任ということでまずはレモン汁を……」
と、過去三百年で蓄積された神聖語句を連発し、信徒を唸らせた。
小手調べに十分ほど、挨拶をしたあとで質疑応答へ入った。
「猊下はまだ十九歳とのことで、最年少での最高司祭就任となりますが、残りの人生をローギル派の最高権力者として過ごすのはどういった気持ちですか?」
「だるいですね」ジュリエットは簡潔に答えた。「辞退したい気持ちはあります」
「今の気持ちを誰に伝えたいですか?」新聞記者が聞いた。
「あなた」
「私以外で」
「じゃあその隣の人かな。次の質問どうぞ」
「アーチボルト教皇とはどういった関係を築いて行きたいですか?」
「友達以上恋人未満といったところですね」
「同教会における異宗派の長同士の関係、という意味で質問したのですが?」
「邪教徒だ!」(記者が信徒たちに殴打される)
「次、どうぞ」
「我が国におけるイドラ怪異について……」
「銀炎師団をはじめとして、浄化組織の皆さん、よくやってくれています。嫌ならラプタニアに引っ越せばいいんです。三百年こうなんだから」
「最近、王都で豚肉の産地偽装問題が発生しましたが、どう思いますか」
「豚なんてどこのも一緒ですよ」
「信者一同へ一言お願いします」
「氷河期、もう氷河期ですよね……ラプタニア野郎はトマトでも食ってりゃいいんだ」
この一言に一同は歓声を上げた。前最高司祭デズモンドは、やはり彼女こそが後継者にふさわしかった、と再認した。すべての聖句が、オリジナルの発信者と同じイントネーションを保ち、極めて神聖であった。同時に、記者たちの質問を選ぶセンスもかなりのものだった。特に、「友達以上恋人未満」の冗談と、そのあと真剣に指摘した記者のやり取り、さらに彼への信者たちの暴行は、第二次銀炎師団西方遠征の際のケイル師団長の冗談演説と、猟兵者の聖人〈遅咲きのアーヴァイン〉の殉死の両方を再現し、そのあまりの神聖さに失神する信徒も続出したほどだ。
演説は夜通し続いた。暑さや興奮で信徒たちは尋常の精神状態ではなく、幻視を見てそれに話しかける者も多く現れた。八時間ほどの式典で六つの怪異が聖堂内に発生し、すべてが浄化された。
夜明けに近づくにつれ、誰もがあるイベントに期待した。これまでジュリエットの名で呼ばれた三人の最高司祭は、就任式の最後にステンドグラスをぶち破って退場し、そのまま海で泳ぎ、朝日が昇るころ新鮮な魚を捕獲して朝食としていたのだった。これはデレク大王の孫であるレイモンド漁師王のエピソードに基づく神聖挙動と思われる。
しかし、ジュリエット四世はそれをせず、予めドラム缶に用意していた、謎の液体を聖堂の床にぶちまけて、それが妙な、塩辛いような、磯臭いような液体で、魚醤? と皆は思ったけどどうも違うようで、不吉に赤黒く、そのあともなかなか床から落ちることはなく、奇怪な蟲が湧いたりした。結局、聖堂はそれからあまり使われることがなくなり、礼拝はヒルアイル島の砂浜で、海を前にして行われることが多くなった。これを切欠に、〈海神のローギル〉の存在がにわかに大きく育つこととなり、ジュリエット四世は後年、かの神の第一の使途として扱われるようになった。
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