Case9 噴水広場
〈レックス〉は十時きっかりに東の空を撮影した。一隻の飛行船と山羊頭の虚数キマイラがファインダーに収まった。出てきたインスタントカメラの写真に今日の日付を書き込むと、今月の分の束に閉じ込む。二つの異なる領域の空が混じり合い、微妙に違う色の空が、ガラス窓のひび割れのように歪んだ境界線を隔ててそこにある。ちょうど南リンダリアの、異なる色の水が流れる二つの川の合流点のようだ。
大鐘楼の音が鳴り止むと、反対側の道で演説をする
ウェスト司祭は来るべき〈銀の黎明〉について述べていたが、あまりにも専門用語や引用、身内ネタが多すぎてほとんど理解できなかった。彼女の部下たちも熱心に聞き入ってはいるものの、理解できているのか怪しかったし、熱に浮かされたマチルダ・ウェスト本人もきちんと分かった上で演説しているとは思えなかった。
「あれはどうなんだよ、って話よね」と、サンドイッチを齧りながらレックスに話しかけてくる少女がいた。服装はマチルダの周囲にいるヒラの信徒たちと同じ、赤い法衣の上に簡単な鎧を着用したものだ。
「あ、ミス・クルーズ。あんたは彼女の名演説に聞き入ったりはしねえのかい」
「いや、あんなあからさまにアルバトロスな演説じゃあ、老サミュエルも日常に突入できないわよ」肩を竦めて顔見知りの師団員、グロリア・クルーズは言う。
「あー、相変わらず何を言ってるのか分からないが、あんたらにも派閥があるってことかい?」
「いかにも。ミス・ウェストはちょっと弁論第一というか雄弁さが金なのよ。〈賢人〉の派閥ね。あたしはスタンダードな〈戦士〉の方向だから」
「ああ、どう違うんだい?」
「壁と天井くらい違う、って話よ。今朝の写真見せて」
レックスはそれを提示する。クルーズは頷いて、
「境界は相当に流動的ね。ここは塞いだほうがいいかもしれない」
「ああ、むやみに近づけないから骨が折れるな。いずれ女王陛下の出番だろ」
「警備隊のガラクタをあなた方は評価してるの?」
レックスは技術者たちがこぞって、空中戦艦〈クイーン・クレア〉の機能美のなさを非難しているのをしばしば聞いていた。
「あー、少なくとも、落ちてくる恐れはなさそうだからな。上空からじかに粒子砲で大規模な修正を加えてくれれば、ちょっとは嵐が落ち着きそうだ」
「やつらよりむしろあなた方のほうが信用できそうなんだけど」
「オレ達を信用? ローギルにかけて、それだけはしちゃいけねえよ」
やがてマチルダが長い演説を終えて解散するころ、遅ればせながら〈サージョン〉がやって来た。元は浄化法人に所属していたが、上司と揉めて――到底放送できない言葉を連呼して退職し、転職してきた人物だ。愚痴が多いものの、優秀な感知能力を持っている。
「クルーズ、どうなっている? 神は俺のことが嫌いなのか?」サージョンは憤っていた。
「は? どうしたんですか。何か嫌なことでもあったの? って話ですよ」
「毎日ある。昨日のことだ、うちの隣の家で、突発性偶蹄目とイドラガスが連鎖的に発生し、お前らのところの生臭坊主が祈祷に来てたんだよ、それで朝っぱらからやかましく詠唱してたがあのまま偶蹄目が暴れたりガスが漏れてたら俺も困るから我慢してたら、坊主がうちに来て、おたくが神変の妨げになっているので一時間くらい外出してください、と勧告してきやがったんだ」
「あ、サージョン氏は反神変体質なんですか。それはしかたないでしょう」レックスは不満げな相手にそう言った。祈祷と仮想燃焼ルーンによってイドラ界からローギル(とされる存在)の干渉を誘発し、怪異を鎮圧する神変式浄化は、銀炎師団の目玉商品だ。もちろんかの神の信奉者でない人間からは、うるさい、近所迷惑、胡散臭い、効果がすぐ切れる、など評判は悪い。
「いかにもしかたない。だから俺は表を一時間きっかり歩いて戻ったら、またやつらが『あと三十分くらい追加でお願いします』と、嫌そうな顔で言いやがった。どう考えてもその顔をしていいのは俺のほうだろ? クルーズ、これはどういうことなんだよ」
「おそらくあなたが理解してる通り、ローギルも嫌そうな顔してるって話ですね」
「だと思ったぜ、もういい仕事に戻れ、そうすりゃお前を聖女と見なしてやる」
苦笑いを浮かべてクルーズは去って行った。
「お邪魔虫が去ったところで仕事だ。今日はサンプルの確保だけだから楽だろう。傷心の俺にとってはありがたいことだな」
「どこでしたっけ?」
「無限噴水広場の水を採取するのと、あと現象型の密輸業者を襲撃して宝石を奪う。その密輸業者は毎日十二時に取引を行うから、そちらを先にすべきだろうな。オズボーン聖堂の近くだ」
「あ、ではそっちへ」
曙光連はほかの団体と違い、浄化はメインの仕事ではない。対イドラ兵器の開発や、研究のためのサンプル調達の合間にこなす程度だ。武器や薬品による特許収入が多く、浄化法人の技術局と合同で開発したアダマントや、乖離促進剤などの使用料で十分、組織を維持していくことは可能だった。
レックスたちが現場にたどり着くともはや、黒服のいかにも裏稼業といった三人の男たちが、大きな鞄を受け渡している。
「あ、じゃあ、さっさとやってしまいましょうか」レックスが拳銃〈ピースモンガー〉を手にして言うが、サージョンは制止する。
「待て、あっち側の路地を塞いでる車を見ろ、やつらの仲間が潜んでるぞ。下手に近づくと援護射撃を食らっちまう。怪我したり死ぬのは嫌だ。今度再生受けたら貯金が尽きて、ドッグタグを赤くしなきゃならなくなるぜ」
痛みに対して我慢強けりゃ再生液を服用しながら突進してもいいんだが、あるいは……と話していると、後ろからひそひそ声で誰かが話しかけてきた。
「おたくら、もたついてるならわたしが先に行っちまうぞ」そこにいたのは笑ったような目をした女猟兵だ。「うちの上役もあれを必要としてるんだよ」
「何のために? まさか換金しようってんじゃないだろうな? 警備隊がすっ飛んで来るぞ」
「いやあ、わたしは係の人間に手渡すだけだ、その後のことは知らないね」
「ああ、でもそう簡単には行かないだろ? 普段と違ってやつらを浄化してはならねえんだから」
レックスの指摘に、そんなことは百も承知だと言わんばかりに相手は笑った。
「〈石火のグウェン〉の名は伊達じゃないってことを見せてやろうか、おたくら」
猟兵が腰のガンベルトから抜いた銃は陸上競技などで使う、音だけが出るものだった。
「まさかそれでやつらをびっくりさせて、その隙に奪うつもりじゃないだろうな? 自殺したいならレックスの銃を貸してやろうか?」
「わたしは長生きしたいし、実際にそうするつもりだよ」
グウェンはスターターピストルを手に、堂々と密輸業者へ歩み寄る。相手が気づくか気づかないかのところで、彼女は銃を空へ向けると、引き金を引いた。号砲とともに緑色の光が炸裂し、次の瞬間グウェンは消えていた。
密輸業者たちは手にしていた宝石入りの鞄がないのに気づき、大騒ぎになった。彼らは慌てて待機していた車に乗り込むと、どこかへ走り去った。
「いったいあいつは何をしたんだ?」サージョンが呟くと、
「時間の合間を縫って動いたんだよ」再び背後にいたグウェンが答えた。「わたしにはすべて一瞬だ。たやすいことだよ。本来あんたらから見学料を取ってもいいけど、今回は一つくれてやろうと思うよ。何か依頼があったら十番街西支部へ電話してわたしを指名してくれよ」
再び号砲と閃光、そのあとで彼女はいなかったが、サージョンの手のひらに大きなサファイアが乗っていた。
二人は噴水広場にいた。石畳、たくさんの鳩、街灯、そして角の生えた天使が水甕を持っている噴水、それらが延々と続く場所だ。無限噴水広場と呼ばれているが、実際は無限ではなく五キロ四方ほどだ。五十年前に発生して以来、特に害はないというので放棄されている。
「あんな小娘に情けをかけられるとは焼きが回ったな、そう思うだろ、レックス?」ポリタンクに噴水の水を入れながらサージョンは問いかける。
「あ、まあそうですね。だけど蜂の巣にならずに済んだ」
「あいつの固有イドラがあれば万引きし放題だな」
「ああ、だけどそれこそ警備隊にとっ捕まるでしょう。やつらの精鋭ならグウェンが引き金を引く前に腕を折るのもたやすいはずだし、時間の合間ってのに同伴するイドラの所持者もいたはずだ」
「監視官の目をごまかす親和性塗布剤をブラックマーケットで購入するんだよ。それこそ明日の十二時に、さっきの密輸業者にでも発注すべきかもな」
水を汲み終え、さあ帰ろうかというところで予期せぬ事態が発生した。質問者の到来だ。しかも第二種変異体、肉の体を持ち暴力的なタイプだった。そしてそいつが口を開くと、第四種も併発していることがわかった。まったく聞いたことがない言語で質問を連発している。もちろん、二人とも最初から答える気がないのでそれに関しては問題はなかった。
身の丈は四メートルほどある。こいつは面倒だ、とレックスは思った。
近くの観光客に襲い掛かった質問者は彼らをなぎ倒し、噴水を破壊して水柱を立たせた。
「レックス、中心点を探してからやつを潰すか? やつを潰してから中心点を探すか?」水飛沫を払いながらサージョンが問う。
「あ、探してください。オレがやつを引き付けますので」
奇怪な言語で絶叫しながら、質問者がレックスに突進してきた。サージョンがその場を離れるのを見ながら、怪物を回避する。アダマントの機構剣を背中から抜き、スイッチを入れると緑色の火花が刀身に走った。皮手袋越しに手のひらが痺れ、熱を帯びている。バッテリーが高いのでイドラ共振機能は使いたくはなかったが、再生費用に比べたらましだ。続けて、興奮剤やら活性剤やら抗イドラ剤やらの錠剤がでたらめ混ざったものを噛み砕き、目を見開き、鼻血を出しながらレックスは質問者目がけて突っ込んだ。
「これが答えだぜ」
サージョンが戻ってくると、質問者は機構刃で貫かれ、緑色の炎に包まれて消滅しつつあるところだった。レックスは鼻血で汚れた顔を噴水の水で洗っている。右腕は骨がイカれたか、筋肉が断裂したか、機能を失い、垂れ下がっていた。
「もっと賢いやりかたがあったな」サージョンはつぶやく。「今回のは潰し屋どもとそう変わらん雑な対処法だった」
「ああ、急でしたからね。なにしろあなたは神様に嫌われてるし」
「その裏づけとなる出来事だったな」砕けて水を噴き上げる天使像の残骸を見ながら白衣の学士は言う。「まあ、問題はないだろう。仕事は達成したからな」
ところが問題はあった。ローギル教会のほうから抗議が入ったのだ。この噴水地帯は彼らの聖地に指定されており、噴水に投げ込まれるコインの収入はかなり大きなものだった。だが、このたび破壊されたいくつかの噴水から水が溢れ出し、広場は湖と化してしまったのだ。
教会の偉い人が来てさんざん文句を言い、それに対してサージョンは浄化法人をやめたときと同じく、とても放送できない言葉をいくつも口走り、結果レックスも一緒にクビになってしまった。
サージョンは今度は猟兵社のほうへ移り、レックスはビルの窓掃除の仕事に就いた。それで毎朝十時には、以前より近い場所で空の写真を撮影している。
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