Case7 連鎖誘発者
ある日エヴァが出勤してくると、支部には誰もおらず、仕事の支度をしていると来客があった。長身で、長い金髪の、三十歳くらいの女性だ。美人だが疲れた顔をしており、眉間に皺が寄っている。
「ごめんください。ラドクリフ隊長はいらっしゃるかしら?」
「いえ、どうやらいないようです」
「いない?」相手の眉間の皺が深くなった。「それじゃ困るわ。前々から今日、視察に来ると言っていたのにあの男は。ああ、お初にお目にかかります、わたくしはこの地区の指揮官、ルイーズ・プリンス大隊長です」
「指揮官? そうですか、私はエヴァ・ライムと言います。そんな偉い方がどうして自ら視察に?」
「がんばってひどい任務やひどい上司、ひどい部下の対処をして得たこの地位、その実ただの雑用処理係だったのよ。しかも給料はそんなに高くない。辞めたい」
プリンス大隊長が愚痴を言い始めたのと同時に電話が鳴った。エヴァが出るとラドクリフ隊長だった。
「ああ、エヴァ。今金髪の女が来てるか、大隊長と名乗る不機嫌そうな」
「はい、いらしてますが」
「代わってくれ」
大隊長に代わると彼女は詰問と罵倒を延々繰り返し、最後は受話器を放り投げようとして「いやこれは我が社の備品よね」と何とか堪えた。
「どうしたんですか?」
「ラドクリフはイドラの拡散によってこちらに到達できない状態にあるそうよ。だけどあいつは拡散制御の技術を持っているはずだから――ああ拡散っていうのは自分の固有のイドラが外部に広がることなのだけど、それで道路の繋がりが変な風になって、望んだように進むことができなくなっていると言ってるわ。普段は食物においてのみ適用されるイドラが空間に作用しているそうだけど、たぶんわたしに会いたくないからずる休みよ。それで、他の朝勤も今日は軒並み休むって話、スワン巡邏官は肉が多量に落ちてくる恐れがあるので、スウィフト巡邏官は急な発熱、ハンコック巡邏官は駅を〈番人〉が塞いでて入れないから……などと皆何らかの理由で休むそうよ。あなたに伝えてほしいと」
「そうですか、じゃあ私も帰るしかなさそうですね」
「いえ、この支部はただでさえ仕事が溜まり気味なので働いてもらいますよ」非情に大隊長は言う。
「しかし、私はイドラ感知の能力がないので、仕事にならないのですけど」
「わたくしが同行いたします。今日はもともと技術指導を兼ねた視察だったので、あなたにだけでも我が妙技を体得してもらいます。嫌だとは言わせないわ。さあ最初の現場へ向かいましょう、さあ」
「ああ、はい」
最初の現場はドブ川の怪物の除去だった。水のほとんどない三メートルほどの深さの、コンクリートで固められた川底に、三匹の凶暴そうな虎がうろついている。上に登ってこないとも限らないので、早急に駆除してほしいということだった。
現場は支部からさらに坂を下った暗い路地の奥で、たどり着くと虎たちは鋭い眼光で、エヴァと大隊長を見上げている。もちろんそいつらは本物の虎ではなく、その姿を借りているだけなので、うかつに近づくと本物の虎より恐ろしい何かをしかけてくる恐れがある――口から毒液や火炎を放射したり、体内の自爆装置を起動させたり。
「それで、エヴァ・ライム」大隊長が質問する。「普段だったらあなたはスウィフトと組んでいるのね? 彼女はどう感知を行うの?」
「ええと、普通に目を光らせますけど。そのあと何か分けのわからないことを言ったり、身近な人を罵倒し始めたり、目に見えない何かを切りつけたり暴れたり、それで、私はそんな彼女をどうにか連れて支部に帰ります」
「ずいぶん適合率が低いのね。今日はそんなことにはならないから安心していいのよ。わたくしがこの地位に到達できたのもこの有り余る才能のおかげ、我が力を活用すれば中心点を探す必要がないのよ」
「ないっていうのは?」
大隊長は演説でもするかのような調子で語り始めた。
「我が一撃を対象に叩き込めば、その原因となる中心点へイドラを遡行させて破壊することができるのよ。猟兵社を創設した人もこの力の使い手だったというわね。だけど今日その子孫たちは『中心点を探さない』という点だけを真似てしまっているようだけれど。さて、わたくしの勇姿をじっくり見ておくがいいわ」
大隊長は川底に飛び降りるとものすごい速さで虎たちに斬り付け、緑色の閃光とともにそいつらを吹き飛ばしてしまった。その力強くしかし雑然とした様子は、確かに猟兵たちの戦闘によく似ていた。妙技を体得させるとか言っていたけど、これをどうやって自分の技術とすればいいのかよく分からなかったが、下手に口を挟まないほうがいい相手に思えたのでエヴァは「お見事でした」と言うに留めた。
大隊長はドブ川の臭う汚水を浴びてはいたが機嫌がよさそうだった。恐らく普段、仕事に相当な不満があるのだろう。今日は少しでもいい気分になってもらおうとエヴァは彼女をひたすら褒めようと思った。
続いて、多量の廃車がいきなり家の前に積まれていて邪魔なので除去してほしいという依頼。これに対してもプリンスは、五台の錆びた車に全力で切り付けた。彼女の大剣型アダマントは、同僚のウォルターが肉を吹き飛ばすのと同じように、車を粉砕し、紙切れのように遥か彼方へ飛び散らせる。エヴァはまた「すごいですね」と褒めた。
その近くでちょうど、銀炎師団が巨大な蛹の浄化を行っていて、彼らは長ったるい儀礼的な詠唱をしているところだった。彼らを押しのけ、大隊長は蛹をぶった切り、中から粘液とともに飛び出した巨大な蝶をも切り捨てる。不満を口にする師団員を突き飛ばすなど、高揚した彼女はしらふにもかかわらず、変性意識状態のレイチェル並みの大暴れだった。
「今日も都市のためにわたくしは大いなる活躍。ラドクリフやほかの馬鹿どもなんてもう必要ないというのがまったく理解できる展開でしょう?」
「おっしゃる通りです」
「次へ向かいましょう。目標は?」
「ええと、金融街にすごくおいしいパイの店があって、どんどん客が太っていくのでこれはイドラの怪異ではないかという通報です。例えば近所の会社で秘書をやってる女性などは今月だけで五キロ太ったとか」
「それはよくないわね。さっそく排除しなくてはならないわ。来なさい」
大隊長は大股でどんどん進んでいくのでエヴァは付いて行くのがやっとだった。金融街は昼前、大勢の人で溢れている。問題のパイ屋は行列ができていた。大隊長は、「大いにイドラの気配を感じるわ。さっそく排除に移ります!」と叫び、店に突撃するとパイを売っていた店主を両断した。すると、並んでいた客、店内で食事していた客、店そのものと周囲を通行していた人たちがすべて緑色の閃光に包まれ、吹き飛んだ。
「大隊長、やりすぎではないのですか」さすがに不安になってエヴァが問うが、
「完全なる仕事だったわ。今日の仕事はこれで終わりかしら?」
「ええ、そうですけど」
「ならば解散しましょう。今後とも励むように……」
と大隊長が言いかけたとき、周囲に倒れていた客たちの屍が立ち上がった。両目を緑色に輝かせ、うめきながら迫ってくる。
「どうなってるんですか、みんなゾンビになってしまったようですけど」
「これは、イドラ連鎖ね。中心点を破壊したのはいいけれど、イドラが去った空白に新しい怪異が宿るというケースだわ。しかし問題はないのです。すべてまた吹き飛ばせばいいだけの話。あなたは巻き込まれないように遠くへ行きなさい」
「はい。ご武運を」
エヴァは全速力でその場を後にした。金融街を出たころ、背後からすさまじい閃光が発せられ、そのまま区画そのものが消し飛んだ。
翌日、ラドクリフ隊長や他の皆は通常通り出勤していたので、昨日あったできごとを隊長に話すと「ああ、またやったのか」という答え。
「あの人はストレスが溜まるとそうやって大暴れするんだよ。でも本人はなぜかすぐ無傷で戻ってくるから心配ないがな。前は沿岸の小島を一個消してるし、スクランブル交差点の歩行者全員をドロドロした怪生物に変えたこともある。本人が一番厄介な怪異なんだよ。次にあの人が視察に来ることになったらお前にも知らせてやるよ、誰か他の新人が入ったらだけどな」
そのとき初めてエヴァ・ライムは、自分が前日、大隊長への生け贄にされたのだと分かった。
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