Case3 街なかの海
十四番街に住んでいる職工スタントンが、ある朝起きて安アパートの階段を降りると、目の前が海になっていた。もちろんその時点で仕事を休むことを決定した。ぼんやりと波打ち際を見ていると、朝っぱらからもうなんだか草臥れた気分になって、食事をしようという気にもならなくなった。近隣の浄化法人支部へ電話してさっそく来てもらうことにして、彼はテレビを見ながら待っていた。やっていたのは難解な映画だ。主人公の男は、自分とそっくりな人間をたびたび街で目撃する。ある日その、もう一人の自分に話しかけると、相手は単なる塵芥の塊であることに気づく。周囲の人々はしかしそれに言及することもないし、主人公は日々衰弱しながらまた歩いている塵芥でできた男の背中を追いかける……要所要所に黒い花が出てきて、これがやたら不吉な描写をされている。隣人が異様に黒い花を嫌うが、ある日廊下が黒い花束の数々で埋め尽くされていて、主人公は隣の部屋のドアが開く前になんとか片付けようと焦る。隣人がそれを見たら自殺しかねないからだ。
スタントンは映画をあまり好ましく思わなかった。こういうわけが分からないのは現実だけで十分だ。なにせ俺の家の前は海になっちまったんだ。その向こうがどこに通じているかとか、どこからその塩水が流れてきたか、とか考えてもきっとしかたがないだろう。工事中で通行止めになったんだと思えばいい。そう考えていると、浄化法人の巡邏官がやって来た。白金色の髪の中性的な少女と、背の高い女性だった。ここは昨日までは道路だったのに海になっています、とスタントンが電話でした説明をまたすると、スウィフトと名乗る女は、本当にそうだったのですか、ずっと前から海だったんじゃないですか? などと口走った。本当ですどうにかしてください、と言うと相手はまだ納得しかねた様子だったが、じゃあ今から感知に入りますね、と言い、そのあと何かぶつぶつ言い始めた。カモメがどうとか、カラスがどうとか、あるいは、平穏な日常が太陽……太陽といっても緑色のほうの……太陽から出る波動が妨害している……毒波動、とか言い始めた。こいつは――スタントンは思った。あの映画に出てくる暗示的な登場人物と同じくどうしようもない。終わったら呼んでくださいと言ってスタントンは昼寝を始めた。
数十分後にライムと名乗った少女が入ってきて、無理です、と言った。無理ってどういうことですかとスタントンが聞くと相手は、どうやら中心部位を特定することはできたが、その箇所が数キロ先で、泳いでいくのとか無理なので、引き継ぎますのでこれで帰ります、と答えた。
引き継ぐって誰に、と聞くと、デレキア警備隊の船団に出撃してもらう必要があるので、と言って、ライムは外へ出て行った。見るとスウィフトが海の中に入水自殺者よろしく走っていくところで、それを止めようとしていた。まだあの感知者はカモメがどうだとか言っている。どうしようもないのでその日は一日中、海を見ていた。
翌日、船団の司令官というホワイティングがアパートにやって来た。偉そうな口ひげを生やしていて、常に尊大な身振り手振りと口調。多数の勲章を見に付けていて、スタントンがイメージする警備隊の兵士そのものだった。司令はしきりに、ほかの団体と違って、真に都市を守ることができるのは警備隊のみだと、演説のような前口上を散々述べてから、中心部分に到達してイドラを取り除きますと力強く宣言した。かくして、イドラの海に、蜃気楼のように、銀色に輝く五隻の巨大戦艦が、どこから入ったのか、堂々と浮かんだ。船上では楽器隊がマーチを奏で、戦艦は沖合いへ出て、しばらくのちに激しい砲撃音が聞こえてきた。いったいなにを撃っているのだろうか。イドラによる怪異は、その発生物を破壊するだけでは根本的解決にならず、収束条件を探知して満たさなくてはならないとスタントンも知っていた。だから安めの猟兵社ではなく浄化法人へ依頼したのだが。あんな粗野な感じでいいのだろうか、とスタントンは疑問を覚えつつ、昼食を摂った。コンビーフ、缶のトマトスープ、ゆで卵、レーズンというメニューだった。テレビを点けると、討論番組をやっていた。なぜ我が国のバスケットボールチームは弱いのか、という話題だ。かなり運用に対して批判的な論調だった。しかしスタントンは、実際に我が国のバスケットボールチームが弱いのかどうか知らないので、真面目に見ることはせずに、いちばん偉そうな、なんとか大学の名誉教授とやらの挙動に着目していた。ホワイティング司令と同じような、権威主義者といった感じで、やたらと声はでかく、態度もでかく、他の参加者の発言を露骨に遮るので、名誉教授といいつつも、こいつのどこに名誉があるんだ、とスタントンは思った。
二時間位した後で、ホワイティング司令が戻ってきて、片付きました、と言った。外に出ると、海はなかったが、直線道路だった場所が丁字路になっていて、工場があった辺りが林になっていた。これはどうしたんですか、元通りになっていないですね、と指摘すると司令は、どうやら第五あるいは第七領域と入れ替わったようです、こちらではいかんともしがたいのでこれで完了とさせていただきます、と宣言し、帰った。仕事場に電話しようとするが、この電話番号はこの領域では使われておりませんと流れるばかり。どうしようもなくなったので、新しい就職先を探すことにした。
求人誌を読んで付近の職場をチェックすると、王都猟兵社の被服加工所で工員を募集していた。簡単な仕事で初心者歓迎、給料も悪くなかったので電話すると、今から来てくださいと言われ、スタントンはそうすることにした。加工所は、丁字路を右に曲がってしばらく行ったところにあった。中に入ると、ずらりと洗濯機が並べられ、無数の灰色の外套が吊るされていた。小石を運んでいる人が何人もいて、それを洗濯機に入れている。
作業服を着たミラー主任という人物がやって来て、その場で面接を始めた。名前と職歴を聞かれたあと、仕事内容の説明に入る――見ての通りここでは猟兵たちが着る制服を加工しているんだ例えばジーンズの染料に蛇よけの効果があったみたいに、イドラに対して耐性が増す薬液で色をつけて、そのあとダメージ加工する。これは猟兵としての心構えを表していて、泥に塗れたり化け物の体液を浴びたりとかも厭わずイドラを狩り続けよ、って初期の偉い人が言ったからだよ。それで君には延々洗濯をしてもらうことになるけどいいですか?
スタントンは、いいですよ、と答えて、その場でもう仕事が始まった。
働き始めてから一週間位して、馬鹿でかい鳥が街の上を覆った。そいつは極めて動きがのろく、羽ばたくこともほとんどしないで、飛行船のように浮遊していた。丸々と太った鳩に見た目は似ていたが、サイズは全長一キロほどありそうだった。
リンダリア王国民なら誰もが巨大な鳥獣を見た瞬間、過去の不吉な出来事を思い出す。
三百年前、初めて王国にイドラの侵食が始まったころ、巨大な犬が大陸の各都市を蹂躙し、特にニューノールを含む東海岸の都市群は、何匹もの火を吹く犬たちに破壊されつくしたのだった。浄化法人設立のきっかけとなる、エヴァ王女の奇跡によって大犬はすべて倒され、都市は復興したが、未だに大きな動物を見ただけで恐怖のあまり誰もが奇怪な行動に出てしまう。
このときも皆恐れ、惑い、哀しみ、暴れ、大笑いし、暴動を起こし、略奪を行った。スタントンは、これで仕事を休めるぞ、と幸運に思い、やることもないので、ただ外で巨大な鳥を見ながら角砂糖を食べていた。あいつがフンをしないのが好都合だ、今のところは。ただ浮かんでいるだけなら別に害はないが誰もが乱痴気騒ぎに興じている。皆結局のところ、騒ぎたいだけで、本当はなにか感じているわけではないのでは。そう思っていると、普段自分が加工している、猟兵の制服を羽織った、冷静というか冷酷そうな顔の若い男が来て、大変な騒ぎだな、と言った。確かに、周囲では放棄された車が路上に転がっていて、いくつかは火炎瓶を投げつけられ炎上している。市民が手にしたバットや角材でガラスは割られ、興奮のあまり、あるいは誰かに理由もなく殴打されて、路上に倒れている人も大勢いるし、たぶん死んでいるであろう重症を負った者も道路に横たわっている。色水やトマト、米や豆を撒き散らしている人もいる。盾を持った警官隊やデレキア警備隊、消防隊、軍隊が、人々を鎮圧しようとしているが、彼ら自身も混乱しているので、市民と同じように右往左往したり、ブレイクダンスをしたり、壁に現代アートを描いたりしている。
スタントンは男に、ああ、確かに大変だよ。だけど仕事が休めた、と率直に言った。男は、一つもらえるか、と質問し、スタントンは頷いて彼に角砂糖を渡した。
男は十三番街の辺りから来た〈不撓のカイル〉と名乗った。今日は仕事が早く終わったので、この地区にあるすごく高い牛肉弁当を売るっていう店に来るつもりだったけど、この騒ぎではどうしようもないだろう、と彼は淡々と話した。
スタントンは、その店なら知っているが、この前イドラ侵食により海になってしまって、そのあと警備隊に浄化されたけど別の領域に置き換わってしまった、だからもうないよ、と説明した。
カイルは、ああそうか。じゃあ安い普通の牛肉を食ってお茶を濁そう。と言った。やはり淡々としている。
スタントンは質問する――なあカイル、あんたはすごく落ち着いていて、何があっても動じることがないって感じだ。だから不撓って言われてるんだろうけど、本当に不撓なの、過去にはなにかひどく動揺というかビビったこととかはないの?
いやそれは――カイルは角砂糖を齧りながら答える――ないね。なぜないかっていうと、動揺というか焦り、哀しみ、驚き、そういうのは幻影っていうか無意味だとオレは思うからだよ。これはひどく非人間的考えかもと思うんだけど、つまり実際、焦ることや慌てることがあっても、それはその感情を一旦置いといて、どうにかして解決するしかないってことだよ。その解決法を考えるのに動揺は邪魔だし無意味だから。それに、もし解決する気がない、っていうなら、それもまた気にしなくていいし、どっちにしても、コトの深刻さとその焦ったりビビったりっていうリアクション・感情の動きは無関係なことが多いとオレは思う。深刻さに比例して焦りや動揺も増すと思いがちだけど、本当はもっと雑にその度合いを決めてると思うし、だったらゼロでもいいんじゃねえかなとオレは思う。だから不撓だよね。あの鳥に関しても、そのうちだれかがどうにかするし、あるいはオレがどうにかしなきゃいけないなら、その方法を考えるし、無理なら無理で、こうして角砂糖でも食いながらただ眺めときゃいいんじゃないの。
スタントンはカイルの考えを理解したり同意したわけではなかったが、この男が不撓なのは間違いないと思った。恐らくなにがあってもこういう具合に淡々と喋って、他人のタバコや角砂糖やビールをちょっともらって、普段どおりに家に帰っていくのだろうと。社会全体がそうであればいいとすら、スタントンは思った。
そのあと、警備隊の空中戦艦がこの前海を消したときみたく、ものものしくやって来て、鳥に向かってアダマントの砲弾を撃って、消滅させた。鳥は跡形もなく、ドライアイスの煙みたいに消えて、市民たちは何事もなかったかのように日常生活に戻っていったが、街じゅうに倒れている人たちや撒き散らされたゴミ、割れたガラスなどはそのままで、通りは一回り汚くなって、なんだか損をしたような感じで終わった。
この前乱暴に片付けられたせいか、海があった場所には海水が再び湧き出したりして道がたびたび使えなくなり、被服加工所のあったあたりが、ある朝マングローブの林になって、またスタントンは職を失ってしまった。装備や兵器は充実してて雰囲気はいかめしいが、警備隊は結局乱暴に雑種刃をぶち込む猟兵たちとそう変わらないのではないか、とスタントンは思うようになった。
そのあと、丁字路には異常な数の公衆電話が乱立するようになった。そこではいつも、灰色の服を着た群衆がどこかに電話をかけていた。ある日求人誌で、この電話を掃除する仕事を見つけて、スタントンはそれに就いた。灰色の服の人々がいなくなった隙にそこを掃除する。それでも後から後から灰色の人たちはやって来て、早く終わらせろって顔でスタントンをじろじろ睨んでくる。しかしカイルのように不撓でいこうと思って、気にせず掃除し続けていた。
いつの日か、あの巨大な鳥もまた何らかの形でこの領域に再発現するかもしれない。骨になって空から降ってくるかもしれないし、巨大なチキンが落ちてくるのかも。そしてまた街がお祭り騒ぎみたいになっても角砂糖を食っていようと思った。そうしたら、ここにある電話のどれでも好きなやつから猟兵社に電話して、不撓な人を呼べばいいのだ。
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