Case2 脇道への突入

 〈脇道のクライド〉ことクライド・ソーンはひどく汚らわしい仕事に三日続けて当たった。恐らく常人が立ち会えば、十分おきに吐瀉し、二十分おきに昏倒し、三十分おきに死にたくなるような、そんなひどい任務に、運悪く連続的に従事せざるを得なかった。

 しかし彼は、無表情で無頓着だった。汚れ仕事に当たっている間も、まったく関係のない、野球のことや――贔屓のニューノール・シビリアンズのピッチャー陣がいかに無援護で不憫か――遠い昔に引っ越していった友人のことや――いや引っ越したのではなく、別の領域に流されて行方不明になったのだったか――あるいは、今度公開される映画――マッチョで型破りな警官が、ナイトクラブのオーナー、しかしその正体はギャングのボスってな悪党をぶちのめすやつだ――それを見に行きたいがどうせテレビでやるしな、なんてことを延々考えて、苦痛も喜びもなく、平坦な気分で仕事を終えた。

 外套に汚らわしい汁や肉片がこびりついていたが、他の猟兵と同じく、あまりそれを気にすることもなかった。彼らに支給されるこの制服は、前任者のものであることが多いし、新品だとしても最初から、色あせ、草臥れ、埃に塗れたようにくすんでいた。ダメージ加工のジーンズみたく小石を入れた洗濯機で洗い、廃屋かどこかに転がして埃まみれにし、この汚さを用意しているらしい。汚れ仕事をしやすいように――自分たちが、単なる王都の片隅のならず者、はぐれ者だったときのことを忘れないようにするためらしかったが、そんなことをせずとも、こんなふうにゴミ処理ばかりやらされるから、新品の服も三日で小汚く汚れていくに違いなかった。

 雑種刃バスタードにこびりついた汚れを乱雑に振り払い納めると、クライドはホースで水を撒き、コンクリートの床の散乱物を、溝に流し始めた。そこは広めの地下駐車場だった。何台か、ぼろぼろに錆び、タイヤも付いていない車が放置されていた。奥のほうから〈破戒僧アルバン〉ことアルバン・ワッツがやって来て、向こうは終わりましたよ、と告げた。

「ああ、僕のほうもあと流して終わりなんで。ガラテアはその辺にいるのかい」

「ミス・キャンベルなら上に酒を買いに行きましたよ」

「お得意の油売りか、それよりなんでまた最近の空はレモンの匂いがするのかな」

「わたしはその匂いを嗅いだことはありませんね」

「レモンの匂いを嗅いだことない?」

「いえ、空の匂いを」

「昔、雲がバラの匂いを放ってるって言っていた詩人がいて。そういうことだよ。しかし今期は肉的なイドラ怪異が多いね。肉を食べたくなってくるよ。もちろんちゃんと衛生的なやつだ。今朝は卵を食べたんだけど、それを買いに行ったスーパーが全部の電気が切れてて、店員が蝋燭を手に持ってて、って言ってももちろん直接じゃなく燭台を持ってたって意味だよ。それよりボウリングしたいな。長年やってないからさ。まずはリハビリからかな」

 ぶつぶつと言い続けるクライドの傍らから既にアルバンは去っていた。


 〈油売りのガラテア〉は二十分ほどして戻って来たが、酔っぱらっていた。〈痛飲のヴァイオレット〉ほどではないがこの赤髪の大学生も行ける口で、しばしば既に酔った状態で出勤してくる。アルバンももう仕事終わりだからと、彼女が携えていたワインを少しばかり拝借して、すぐに千鳥足になった。この男が銀炎師団にいたときから愛用している細長い金属の杭――彼らの言うところの〈掛け金〉だ――と、雑種刃の短剣がぶつかってがちゃがちゃと音を立てる。

「見ろよ、月がねえぞ」ガラテアが空を指差して言った。「それとも私が酔ってるだけか?」

「僕にも見えないね。浮遊地区の影に隠れてるだけじゃないのかな」

「昔、月が一度二つになったこともありますね」酔っ払い特有の大きめの声で〈破戒僧〉が言った。「他所に飛ばされて二度と現れない可能性もありますよ」

「これは人狼が哀しむな」クライドがつぶやく。「狼になれなくなる」

「それはいいことじゃねえのか? 人狼ってのに会ったことはないけど、呪いってことだろ」

「呪いじゃなく習性、特性、本質、そんなのだよ。それが本人にとってマイナスだとしてもそうできないのは辛いことなんだ。アイデンティティの問題だな」

「まるであんたがその人狼ってやつみたいな口ぶりだな」ガラテアはまたワインを一口喇叭飲みした。「心配しなくても月はきっと戻ってくるさ、ことによるとまた二つに増えるかもな」

「増えたら増えたで困る。適量ってものがあるんだよ。酒だってそうだろ」

「違いねえ」

 先頭を歩いていたクライドが何の前触れもなく、大通りから脇道に逸れたので、続く二人もそちらに入った。急いでいるわけではないなら、彼らは大体こうしている。猟兵社の仕事は完全歩合であるので、帰りにもう一件、簡単な怪異をおまけのように片付けるのは、別に悪い話ではない。それに、猟兵たちはイドラに塗れたニューノールの都市をさ迷うことを、本質的に嫌っているわけではなかった。

「牛がいますね」アルバンが路地の奥を覗いて言った。確かに、一頭の乳牛が尻を向けてそこにいた。その腹の黒い模様は、ニューノール半島と、海峡を挟んで浮かぶヒルアイル地区に似ていた。「刺しますか?」

「いや、あれはただの置き忘れって可能性もあるんじゃね」ガラテアが暢気な調子で言った。「持ち主に届けて謝礼をいただこう」

「いや、どうだろうな」

 クライドがそいつに近づくと、もちろんれっきとした怪異であることが明らかになった。振り返ったその頭部は牛のそれではなく、巨大な昆虫のものだった。緑色の複眼は、トンボか何かのようだ。そいつは猟兵たちに対して、テレビの砂嵐のような、不気味なノイズを発した。

「こりゃまた」

「首を切り取って持って帰りますか」

「家の壁にでも飾ろうってか?」ガラテアは剣を抜いた。「来客が吐くぞ」

 三人は怪物が一気に突進してくるのを予想していたが、そいつは口から体液を勢いよく噴射した。一番手前にいたクライドが身をかわしたので、アルバンがもろにそれを頭からかぶってしまった。クライドの雑種刃はしかし、次の瞬間、昆虫じみた顔面に突き刺さっていて、緑色と黄色の混じった液体を垂れ流しながら牛は倒れた。その肉は即座に腐り、あとにはドロドロした液体と、骨だけが残った。


 猟兵の詰め所は十二番街の小汚い路地の奥、酒場〈銀葡萄亭〉の二階を間借りしたものだった。一行が帰還すると〈不撓のカイル〉がいつもの無表情で、分厚いアルバムの写真を一枚一枚剥がしては、手で破き、テーブルの上に紙片の山を作っている。〈向こう見ずのセシリア〉は、化け物牛の体液で曇ったアルバンの眼鏡を見て、それはわざとやってんの? と問い彼に苦笑いを浮かべさせた。「修行?」とセシリアは再度問いながら、冷蔵庫から出したベーコンを、加熱させずに食べている。

 夕刻、一階では労働者や大学生たちに混じって天空教会の僧侶たちが、騒ぎ、歌い、酔いつぶれている。やつら全員が破戒僧だな、とガラテアが皮肉った。

 奥の部屋に行くとテンペスト兵長が水甕を見下ろし、ごぼごぼ言うそこに向かって、自分の指をかざしている。そして指先をナイフで切りつけ、血液を垂らす。中にいるなにかは歓喜するように飛沫を立てる。

「何しているんですか」 ガラテアが問う。「ペットですか?」

「そんなところだ」兵長は言った。髭を伸ばし放題にした大男である彼は、人々が思い描く古き猟兵像、豪快で義理堅く酒好きといったイメージにぴったりだった。

「こいつはな、魚なんだが狼なんだ。月が昇ると毛が生えてきて、尖った耳が伸びて、口が裂けてな。満月の夜なんか、暴れまわっては飛び跳ねて、大変な騒ぎだぜ。だが最近は芳しくねえな。具合が悪そうだ」

「月がなくなったからでしょうね」クライドは簡潔に答えた。

「月が? 消えたのか。どっかの領域に流れちまったか? ああ、なんてこった」

 眼鏡を洗い終えたアルバンが部屋に入って来て、「兵長、そんなのを隠し持ってるのがバレたら警備隊に怒られますよ。スタジアムのほうにでかい亀裂があって、そこが第三だか第四の領域に通じているそうです。そこからその〈狼魚〉を逃がしてやってはどうでしょう」

「止むを得ないだろうな」兵長はやや落胆したようすで血を更に落とした。人間がワインを飲むように狼魚も血を嗜むのだろうなとクライドは思った。月がなくなるなんて、きっと酔いたい気分だろうし。

「なるほどなあ」ガラテアが独り言のように言う。「クライドの言った通り、人狼も狼魚も、月がなきゃやってらんねえんだな。私やヴァイオレットが禁酒させられるようなもんか」

「それはむしろ」兵長は指の傷口を舐めながら言った。「したほうがいいだろうな、さもなきゃ下へ行って飲んできたらどうだい」

 彼女はそうした。ややしんみりとしたテンペストと対照的に、階下の酔客たちはひどく盛り上がっていた。


 夜の街を馬車が走っている。

 空を飛ぶのは鬼火の群れだ。蛍も何匹か混じっている。

 身長三メートルほどの質問者が、路面電車を待つ客に、何月何日は雪か雨かと尋ねている。

 白色の衣装の、教会関係者らしい列が、大股で道を歩く。

 住宅地のある一定の区画だけが、ごっそりと切り取られたようにジャングルと化し、ものすごい熱気が漏れている。白い虎が一頭、その茂みから顔を出して、じっとこちらを見ている。まもなく虎は、駆けつけたデレキア警備隊の一群に撃たれ、煙と化した。白煙は再び虎の姿を取ると、屋根の上に跳躍し、軽やかな盗人のように逃げ去った。警備兵たちは口々に、秩序への挑戦とか、都市機能が損なわれる重大な案件、とか、いかめしい評論家のように口走っては、虎を追いかけて走って行った。

 スタジアムからまばゆい照明が、昼間さながらに空を照らしている。観客の声援が響く中、兵長は狼魚を水甕ごと、亀裂の近くの川に放った。うっすらと緑色の光を放つ亀裂部分では、わずかに空間がずれ、そこから蛍が出たり入ったりしているのが見えた。

「あの魚は結局どこで入手したんです?」クライドが聞いた。

「地下鉄の駅で仕事帰りに知らない爺さんにもらったんだ。爺さんは退役兵と言っていたが、十分後には自分は郵便局員だとか、肉屋の店主だとか、作家とも言っていたな。かつて猟兵だったこともあったと。現代社会を批判したり、最近の若者はけしからんとか、歯がなくなって肉が食えん、とか色々言ってたよ。オレの死んだ祖父を思い出したね。ただ爺さんは顔がないのっぺらぼうで、地面の割れ目から足が木みたく生えてた。『月が大事なんじゃ、月がないとこいつは哀しむんじゃ。だがもうじき月がなくなっちまう。不憫じゃ』って言ってな。そんで何故かオレに魚の入った水甕を渡してきたんで『爺さん、月はなくなんないと思うぜ、最近はそんなこともなかったし』って言っても、『いいや、近く月が流れて行くんじゃ、若造が知った口を利くでない!』って。オレも帰らないといけなくなったんで、爺さんを雑種刃で刺したら、青二才、馬鹿野郎、ワシが若いころは、ってやたら罵倒して消えたな。そんでしかたなく魚、こっちに持ってきたけど、本当に月が消えるとは。まあそれも、自然の流れ、運命、めぐり合わせ、的なもんだ。やつには向こうで元気にやってほしいもんだ」

「ところで腹が空いたんでサンドイッチが食べたいですね。肉とか玉ねぎとかやたら入ったやつを」

「ああ、そうだな」

 テンペスト兵長とクライドは、またシビリアンズ負けるでしょうねピッチャー無援護だし、といった話をしながら、どこか食事できるところを探して歩いて行った。魚がどうなったかは分からない。月はそれから二ヶ月くらいで戻ってきたが、前のとは模様が違っていた。化け物牛がいた路地はその後、異常に花が繁茂して、しばらく立ち入り禁止になった。

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