黎明のイドラ

澁谷晴

Case1 虚数キマイラ

 早朝の街は霧に沈んでいた。太陽はまだ昇っていない。エヴァ・ライムは冷えた空気の中、陸橋を渡っていた。橋は底の見えない大穴に架かっている。得体の知れない獣の鳴き声が、穴の底から聞こえてくるというので先月調査隊が降りて行ったが、帰って来ず、続報もない。

 陸橋には老人がいて、靴を脱いで綺麗に揃え、ずっと下を見ている。自殺者かも知れないと思ったがエヴァは話しかけるのを躊躇った。あるいは、自殺者に見せかけて、通りがかった者を代わりに突き落とす、悪質な犯罪者あるいは妖怪変化もしくは災禍イドラの可能性があった。現在いる十三番街の災禍イドラの発生確率は、数字の上ではそれほど高いわけではない。しかし、それも市当局が浄化法人の発表を鵜呑みにして伝えているだけで、実際には人体発火現象やラップ現象や球雷現象、一部地域のみの異常気象、一部地域のみの野球中継途中終了、意図せぬテレポーテーション、アポーテーション、異領域からの来訪者との摩擦、など今月だけで数多くの問題が発生しているのだった。

 だからエヴァは油断しないで爺さんを注視し、そのあと流行歌を裏声で絶叫しながら彼が飛び降りた後も上空や背後に視線をやりながら、益体のないニューノールの街を注意ぶかく進んだ。遺棄された死体や生ゴミ、使用済みの注射器やアンプル、触手がたくさんある魚介類などを跨いでいると質問者がいた。質問者は汚れた外套を纏った、顔のない人型のイドラ体で、幽霊、妖怪というカテゴリに入れられるであろう厄介者だ。ただ質問をしてくるだけだが、急いでいるときなどはとてつもなく鬱陶しい。殴ろうとしても質問者に実体はなく、カーテンを殴打するような羽目になるので無視するのが最良だったが、予定の時間までまだ少しあったので質問者に挑むことにした。

「あんたは誰?」質問者の声は少年じみていた。「どこへ行くの?」

「私はエヴァ・ライム。これから向こうの浄化法人支部へ行く」エヴァは相手の顔がある辺りを見据えて答えた。質問者は二メートル半くらいあるので、小柄な彼女としてはかなり見上げる形になった。

「何をしに?」質問者はまだ理性的なほうだった。

「面接」

「浄化法人で働くの?」

「うん、大学に合格が決定したのでそれを機に」

「今朝なに食べた?」

「なにも食べていない」

「今日の天気は?」

「きっと晴れ」

「じゃあ明日は?」

「明日も、きっと」

「どこに住んでるの?」

「ニューノール十三番街東地区」

「どの領域の?」

「第三領域」

「好きな食べ物は?」

「クロワッサン」

「好きな工具は?」

 エヴァはもはや飽きていた。質問者によっては「三十五日前にロバーツさんに対してどうしてあんなことを言ったの?」「例えば虫眼鏡が六個あって、使いたい人が七十人いるときどうやって決める?」「昨今のリンダリア王国における実体経済の悪化についてイドラ抑制派の観点から述べよ」などという複雑なものを投げかけてくる場合もある。それに対して真面目に答えるのも馬鹿馬鹿しいが、このような短い問いかけの繰り返しが、特別に面白いというわけではなかった。

「ニブラ」

 答えるとエヴァは再び歩き出した。乱立する高層ビル群の上空には、肉薄する第二領域に漂う浮遊大陸の欠片が見える。その向こうから太陽が昇ってくる。今日の天気はきっと晴れ、とエヴァは誰に言うでもなく呟いた。


 虚数キマイラが青い羽を揺らして霧の中を飛行するのを見ながら、エヴァは坂を下った。大衝突の際に大きく沈み込んで以来この地区は坂の街となった。場所によっては四十度近い傾斜のものもある。エヴァはこの坂は確かオレンジ坂という名前だな、と思い出した。ここをオレンジの入った紙袋を持って通ると必ず破れ、転がっていくという怪異が由来で、百年ほど前に王都猟兵社の英雄〈逆手のジェラルド〉によって浄化されるまで、数多のオレンジが転がり、そのまま腐って、幾本ものオレンジの木が坂の下に繁茂した。ちょっとした林ができるほどだったので、市当局がオレンジ所持禁止令をこの付近一帯に出したが、効果はなかった。人はオレンジを入れた紙袋を持って坂を通りたがるのだ。

 しかし、仮にまだ怪異が健在でも今の自分なら、紙袋が破れることはないのではないか、とエヴァは思った。さっきライオンの頭のある虚数キマイラを見たからだ。だから自分は今日一日は少なくても幸運で、オレンジを限界まで詰め込んだ紙袋も決して破けることはないだろう。伝説ではジェラルドがこの場所を浄化できたとき、彼は「ツイてたのさ」とだけ言ったそうだ。きっと今日は彼と同じくらいツイている。そう思ったときもう一匹の、ライオンの頭の虚数キマイラが、翼を大きくはためかせながら上空を飛んでいった。これで今日の幸運は二倍、というふうに判断してもおかしくはないが、エヴァはそうしなかった。今ので最初のキマイラの分の幸運を使ってしまったのだ。そう解釈し、エヴァは、今日も普通の一日なのだな、と認識を新たにした。


 浄化法人支部に付くころ、既に日は昇っていたが、都市の深い場所に陽光は届かず、薄暗かった。恐らく真昼の短い時間のみしかこの場所が照らされることはなさそうだ。建物は古めかしい石造りのものが多く、礼拝堂も多かったが、それらの殆どは寂れて、長い間人が入った様子がなかった。広めの噴水広場に到達すると、一人の男がいた。煤けたような灰色の外套を着て、腰に細身の雑種刃バスタードを下げた、三十歳くらいの人物だ。どうやら猟兵社の人間らしい。

「すみません、道を聞きたいんですが」

「なんだ。今朝の質問者には顔があるのか。こっちの領域じゃそうなのか?」

 質問者に質問を返すのは好ましくないことだ。相手はそれを攻撃と認識し、高揚の挙句なかなか離れなくなってしまう。だから、これは猟兵の冗談らしいとエヴァは判断した。

「浄化法人の支部に行きたいんですけど」

「緊急の依頼か? 怪異は時間を選ばないからな」

「いえ、面接です」

「そうか。まあ賢明な選択ではあるよな。うちよりもカネはいいし安全だ。汚れ仕事もそれほどやんなくて済むしな」

「ええ、一番大きい会社なので。最初は曙光連の支部が近いのでそっちにしようとしたんですけど」

「あのマッドサイエンティストどもに混じって働くのを考えると、そうしなかったのもかなり賢明だ。まあどの会社で働いても結構だが、ダルい仕事だよこいつは。終わりがない。意味もない。どんどん疲れていく。誰も褒めちゃくれないしな。それでもいいのか、お嬢さん」

「しかし」エヴァは言った。「それは全部の仕事に言えることなんじゃないですか」

「ああ、確かに」男は後ろの道を指差して、「浄化法人の支部はあっちだ。隊長のラドクリフって野郎は嫌味な男だが、まあ腕はいいし、隣のレストランはまずいが安くて早い。たぶん名前を言うだけで採用してくれると思うから、気楽にやることだな」

「ありがとうございます」

 噴水広場には男の他に猫が三匹いた。すべてが黒猫だった。男は所在なさげに、その一匹の背中を撫で始めた。猫は嫌そうに男を見ていた。


 支部はごく古い三階建ての建物で、どうやらかつてはここも礼拝堂だったようだ。中に入ると狭い応接室で、無精髭を生やした灰色の髪の男が、仏頂面でドーナツを食べていた。

 エヴァが挨拶する前に男は「ああ、エヴァ・ライムか?」と聞いた。

「そうです。おはようございます、本日はよろしくお願い……」

「話はあとだ、ドーナツは好きか?」

「え? ああ、好きです」

「そうか。なら食べるといい」相手はほとんど手のついていないドーナツの箱を差し出した。イチゴ味のものをエヴァが食べ始めると、男はまくし立てるように言う。

「新しい店を開拓しようなんて、思うべきじゃないってことだな。味が予想してたのとまったく違っていやがった。その差異ときたらもう、許容範囲をとうに越えているぜ。いつもの店よりひどい――そこも予想と異なる味を毎回提供してくる不躾な店だが、それでも度合いでいったら今回の店よりずっと良心的だよ。客に対する誠意が足りねえんだ。客の予想、期待、それを裏切らない商品を安定的に供給するのがまず第一だろ、飲食店っていうのは。あんたもそう思うだろ?」

「毎回予想と違うんですか」

「そうだ。実際に食べて差異をフィードバックしても、次に買うとまた違っている。もちろん俺がそういう固有イドラに取り付かれているという背景はあるにしてもだ」

「なら、店側に責任はないのじゃありませんか」

「おいおい、あんたまでそんなことを言うのか? 俺は一生ドーナツを食わずに生きていかなくてはいけないってのか? まるで刑罰だ。そうだろ? そんなひどい都市で生きていかなくてはいけないなんて、最悪だぜ。そうでなくてもここはどうしようもない場所なんだ。ガキどもは薬やって犯罪に走るし、失業率は高いままだし、政治家は腐敗、建設業界も腐敗、市民は愚鈍、デリバリーピザはのろい、おまけに味は期待してたのと違う。カネを騙し取ろうとするろくでもない女ども、偉そうに説教しようとする年長者、安い給料の会社、質の悪いポルノ、常に泥で詰まってるドブ……キリがねえな、ああそうだ、面接だったな、やるか。ええと、エヴァ・ライム、履歴書と診断書は持ってきたのか?」

「はい、これです」

「なるほど……イドラ耐性と適合率はかなりいいな。まあ採用は決定だ。犯罪歴もないな? 組織内部にドラッグを広めようっていう覆面売人じゃねえよな? あるいはライバル企業のスパイでもないな? だとしても優秀なら目こぼしをするけどな。じゃあ明日から来てくれ。早朝勤で週三希望だったな? そんなに来れるか?」

「来れます」

「そりゃいい。サボるときは事前に連絡しろ。明日は相棒の感知係を紹介する。まあ当たり外れで言えばたぶん外れだと思うけどいいやつだから。手を抜くにしても市民から抗議が来ない程度にしてくれよ? 残りのドーナツも全部持って帰っていい。目の前にあっても俺が将来に絶望しちまうだけだ」

 帰り際、相手の名前をまだ聞いてないことに気づいて尋ねると、

「忘れてたよ、名前は大事だ、役職もな。俺はルーク・ラドクリフ、ここの支部隊長だ。また明日会おう。あんたがバックれないならな」


 翌日は天気は良かったがイドラ嵐が吹き荒れ、断片化したニューノール市はやや構造に変化があった。見たことのない島が空に浮かんでいたのだ。それは数年前に消失した市庁舎付近の一帯だった。エヴァにとって僥倖だったのは自宅の近所にコンビニと映画館が出現したことだ。しかし映画館の前に行くと、中からは何かが腐ったような臭いと、じゅるじゅるという液体を含んだものが蠢く音がして、浄化されるまでだいぶ時間がかかりそうだな、という気がした。

 イドラ嵐が止んだ七時ごろにエヴァは支部へ向かった。オレンジ坂は昨日よりゆるやかになった気がした。霊柩車が三台続けて坂を登っていく。葬列がそれに続いて通って行ったが全員無表情で人形じみていた。愛する人を亡くしたからか、最初からそうだったのか。空に刻まれた第二領域との境目を、半透明の鳥の群れが、消えたり現れたりしながら横切っていく。

 坂の中腹にはちょっとした広場があって、そこにヌードル屋の屋台が止まっており、昨日の猟兵がスープを啜っていた。

 エヴァが挨拶すると相変わらず眠そうなその男は、「ああ」と言って、昨日は名乗るのを忘れたが自分は〈夙興のジュリアス〉だと自己紹介した。猟兵社の役目は浄化法人と同じくイドラによる怪異の駆除だが、住民の認識の違いで、かなり汚れ仕事が多いそうだ。特にこの都市においてはその傾向が強いらしい。

「そもそもがならず者の寄り合いだからな。しかたのない話だが」

「例えば」エヴァはやや不躾かもしれないと思いながら言った。「それで浄化法人へ移ろうとか考えることはないんですか」

「今のところはないな。しんどいこともあるが。結局これが合っているのかも知れないな」

「汚い仕事というのはどういうことをやるんですか?」

「ああ、それはな」

 話していると、ジュリアスの隣で食事していたスーツ姿の男が勘定を済ませた。立ち去ろうとしたその男に、猟兵は腰にぶら下げていた雑種刃を突き立てた。波打つような紋様の剣は抵抗もないかのように男に刺さり、相手はその場に倒れた。血は出ておらず、何か甘い匂いのするどろっとした液体が胸から出ていた。

「こういうことを。こいつは人間じゃない。ストロベリーシェイクが血管を流れている生物だ。だけど人の姿をしているから、躊躇するだろ? それでオレたちにお鉢が回ってくるわけだよ。君もこういう仕事を依頼されたら嫌だろ?」

「いえ、仕事ならやるしかないんじゃないですか」

「そうか。ならこっちに入るべきだったかもな。ただ、毎回ストロベリーシェイクならいいが、泥水やタール、酢が噴き出す場合もあるから楽じゃないけどな。じゃあ、仕事頑張ってな」

「はい」

 ジュリアスが去ってからもスーツ姿の男からはストロベリーシェイクがあふれ出て、その量は体内がすべてからっぽだったとしても、到底収まりきるものではなさそうだった。ヌードル屋の店主は店の前がドロドロになったので、不満そうに屋台を引いて坂を下っていった。


 支部に入っていくと、背の高い女性がソファでまどろんでいた。声をかけないようにエヴァが奥に入っていくと、また昨日と同じような不満げな顔で、ラドクリフ隊長がチキンを食べていた。

「ずいぶん遅かったな。イドラ嵐のせいか? お前の耐性度なら身体に症状が出ることはないはずだが」

「嵐で道が変わって少し迷ったんです」

「そんなに影響があったのか? まあ、いいだろ。お前が遅れたおかげでレイが睡眠を取れたんだからな。やつはいつも睡眠不足で力不足だ。一番不足してるのはやる気と常識だけどな」

 応接室へ行って隊長はレイと呼ばれた女性を起こした。エヴァよりも頭一つぶん背が高い。痩せていて、切れ長の目はすぐそこにいる相手ではなく、遥か遠くのなにかを見ているように虚ろ――感知係の特徴だ。                  「エヴァ、そいつはレイチェル・スウィフト、お前に組んでもらう相手だ。大学生……いや違うな、中退したんだった。そうだろ、レイ」

「そうです、先週ね。よろしく頼みますよ、エヴァ・ライムだっけ? エヴァ王女と同じ名前か、縁起いいのか悪いのか。あの人頭おかしかったし」レイは甲高い声で言った。

「いきなり失礼なことを言うなよ、それにエヴァ・ダリヴァーは我らの始祖、英雄だ。確かにちょいとイカれてたけどな。それよりさっさと仕事へ行ってもらうぞ。遊んでる暇はないからな。まずエヴァはこれを着ろ」

 最初に手渡されたのは浄化法人の制服である、黒い革のジャケットだった。続いてアダマントの短剣と乖離抑制剤の入ったスプレー缶、地下鉄の定期券、社員証とチョコレート三箱。

「このチョコは補給品ですか、それともまた味が予想と違ったものですか」エヴァが聞くと隊長はうんざりした顔で、

「後者を理由とした前者だ。チョコレート屋すらが俺を拒むとは、この都市はいよいよもって終末的、地獄的なありさまだよ。ほら、早く行くんだ、仕事の内容はレイが知っている。いつものくだらん仕事を、思うがままにこなせよ。俺はまだしばらく、ショックに打ちひしがれているからな」


 レイは地下鉄に乗ると、三駅離れた場所を目指すと言い、続いて今日の仕事について説明し始めた。十三番街南区のほうで小規模な怪異の報告があり、その駆除だという。しかし今向かっている方向は南区とは反対ですよ、とエヴァが言うと、レイは、そこがうちと王都猟兵社の違いだよ、と言った。

「やつらはさあ、直接怪異に対して雑種刃を打ち込むしかなすすべがないんだ。それが伝統なんだよ。そういう解決法が向いてるものもあるけど、後で再発生したり、別の異変を誘発したりする、乱暴、一時的な処理法なんだよねえ。依頼する側もそれでいいって思ってる人が多くて、だから料金は安いんだ。我々はそうはしない、じゃあどうする? っていうと、怪異の中心点を発見して、そこを突くんだ。そうすれば一発で、安全に、駆除することができるんだよ」

「こんなに遠くなんですか?」

「イドラ界を経由してるから、こっち側での距離は関係ないことが多いんだ。あたしたち感知係はそのリンクを辿っていく。乱雑にだけど正確だ。生まれ持った知覚だよ。断じて銀炎師団のやつらの言う、神の導きじゃないぜ」

 大聖堂前の駅で二人は降りた。入れ替わりに体の透けた乗客が何人か乗り込む。死後も労働を続けなくてはいけないしんどい霊体だ。他には犬を抱いた婦人、デレキア警備隊の古めかしい軍服の男、シャツに血の付いた若者などが入ってきた。ホームを電車が去っていくとき、婦人の犬が逃げ出し、車内を走り回るのが見えた。

 地上に出ると、小高い丘の上に礼拝堂が聳え、信徒たちが手を合わせて、空を拝んでいるところだった。あちこちに火と知の神ローギルの像が並んでいる。ローギルは王国全土で違った姿で崇拝されているから、肖像や偶像も大抵その数だけある。角と翼を生やした姿を筆頭として、長い髭の老人、女、少年、道化、司書、鬣の燃えるライオン、竜頭の亜人、単なる火の玉、そしてそれらには「ここにある全ての像は誤りである」という、無形派の貼り紙があった。ローギルの崇拝者も、褐色の僧衣や西方派の臙脂のローブ、王都で主流の白いローブ、原色のどぎついファッションの者や、ぼろぼろにすりきれた服の者もいた。神々の像の前には小銭や林檎、酒、フォーク、栓抜き、薔薇の花、すみれの花、名も知れぬ野草、百科事典、電話帳などが供えられていた。少年の姿のローギルの前に、チョコレートがいくつも置かれているのを見たエヴァは、隊長にもらったものを一つ供えた。外れのほうに天空教会の主神ヒムの像もあったが、これは人気がなく、枯れた花がいくつか供えられているだけだった。

 レイは自信に満ちた足取りで、どんどん進んでいく。時折こめかみの辺りを手で押さえながら、路地の中に入り込んでいく。ここは第六領域の色が濃い場所だった。他の領域では過去の大火で消滅している時計塔が遥か彼方に見えていたし、道に桃がいくつも転がっている。オレンジ坂のように誰かが落としたわけではなく、最初からそこにある。そういう怪異だ。東区のほうではこの桃は最初から落ちていない。大きな袋を背負った得体の知れない人物が、一つ一つ地面に置いていくとか、上空から落ちてきてぐしゃりと地面で潰れる、といった怪異になるはずだ。

「今回の仕事について詳しく説明するのを忘れていたね。支部の近くに必ず時計が狂うってお宅があるんだ。そこのおっさんは毎朝テレビのニュースで表示される時計に合わせて、全部の時計を合わせてたんだけど、このたびその表示すら狂うようになっちまったんだ。おまけに来客が持ってる腕時計とかも、家に入った時点で逆回転するってとこまで悪化したんだよね。これはかなわんっていうんで、遅ればせながらあたしたちに依頼してきた。あたしがおっさんの家を調べて、リンクを辿ろうとしたけど、人手が足んなくて処理係がいないとどうにもなんなかったんだよね。あたしの適合率じゃ単独駆除は無理なんだけど、それについて隊長から聞いてない?」

「いえ、特には」

「まあ大したことじゃないけど、結局あんたたちの仕事ってのはあたしたちのおもりだよ。個人差はあるけど副作用出るから」

「副作用?」

「ああ、もうじきさ。中心点に行ってあたしは左目が光る。光ったらあんたに浄化方法を教える。そしたらすごく使い物にならなくなるさ。だから、あんたが代わりに処理して、そんで終わったらあたしを支部まで連れてってくれ」

 最初はエヴァにはよく意味が分からなかったが、とにかく指示に従えばいいらしいというのは理解できたので、頷いた。

 やがて二人は路地の奥に到達した。そこには、熊のぬいぐるみと、三つのウイスキーの大瓶、手首のミイラがあった――手枷がはめられたままになっている。

「いかにもこの地区らしい配置だな、じゃあやるか」

 レイは深く息を吸い込んでから吐き、精神を統一する。路地裏の暗がりは一瞬、緑色に輝いた。レイの左目が閃光を放っている。彼女は虚ろな様子で、これまでの甲高く、間延びしたのとは違う、呟くような喋り方で淡々と話し始めた。

「中心点。真ん中のウイスキーの瓶を破壊。次に右のウイスキーを破壊。その順番。肝心なのは、その順番。構想。深い構想。破壊。妥当なる妙案、腐敗。処理。エヴァ・ライムの公的所為。処理を要求、処理を要求します。妥当で安寧な処理、恒久的処理を浄化法人の権限に基づいて行うことを。破壊。ありがとうございます」

 エヴァは困惑したまま、隊長に渡されたアダマントの刃で、言われたとおり真ん中と右のウイスキーの瓶を叩き割った。辺りがアルコール臭くなった。しかし同時に、何かが弾ける感覚があった。ウイスキーの飛沫以外にも、周囲に涼しい空気が広がったような気がした。恐らく、イドラの中心点が破壊され、怪異がこの領域から離れていったのだろう。これで時計が狂うという異変も終了したはずだ。

「やりましたけど」

「あー。破壊ね。破壊を成し遂げたんだね。そーか。蛸……蛸が……」

 レイはやや普段の調子に戻ったようだが、相変わらずぼんやりとして、何事かをぶつぶつと呟いていた。どうやらこれが副作用のようだ。どうしていいか分からなかったが、支部まで連れて行ってくれと事前に言われていたので、帰ろうとしたが、周囲の路地は複雑で、レイにどう来たのかと尋ねようとしても、要領を得ず、以前に金物屋の店主の頭部が蛸に変貌して困惑した話を延々聞かせてくるのだった。ただ、質問者との接触のときのような辟易はなく、一仕事終えたのだという充実感はあった。

 長い時間をかけて支部まで帰ると、隊長は宅配ピザを食べていた。彼は新しい目的に挑戦しようとしていた。調味料で違和感を征するのだと言い、タバスコを大量に振りかけている。

「ずいぶん遅かったな? いつもそうだ。部下も食い物も、俺の思い通りになんかなりはしない。だけど人間はまだ、仕事が終われば家に帰るぶんましだ。食い物はこちらで動かさないといけないからな、食うか生ゴミとして捨てるかだ。さて、このシーフードピザを屈服させるさまをお前らに見せてやろう」

 隊長はタバスコ塗れのピザを食べて汗を流しながら、「予想より辛い!」と悪態をついた。具材の蛸が零れ落ちる。レイはようやく回復しつつあったがそれを見て、また「蛸、おやじの顔が蛸なんだよ、比喩じゃなく。切り取って魚屋に持っていこうとしたけどさすがにそれは初対面の相手に失礼だから……」と、最初から同じ話をし始めた。


 仕事を終え、帰路に付いたエヴァはジュリアスに会った。人間が入っているような大きさの袋を担いでいる。中からは何か土臭い液体が滴っているようだった。

「一仕事終えたのか? お疲れ。続けていけそうか?」

「たぶん」

「それは良かった。まあ、飽きたらやめればいいさ。オレもそう考えて毎日やってるよ。恐らく皆そうなんだ。悩みがあったら先送り。あとは早寝早起きしてれば健康に生きられるってことだよ。どの領域においても言えることだ」

「はい」

「じゃあオレはこれを今から燃やさないといけないんでな。また会おう」

「ええ、それじゃ」

 オレンジ坂を登るとき、既に日は傾きつつあった。都市の断片が浮遊する空を見ると、虚数キマイラがまた飛んでいた。

 そいつの頭部は蛸だった。

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