10.過去と今

 呆然とした状態から最初に抜けだしたのは女だった。

「……言いたいことはそれだけかしら?」

 やれやれ(うんざり、かもしれない)、といった素振りで言う。

「貴女、ご両親とあまり仲が宜しくないの?」

「えっ?」

 唐突なマリカの質問に虚を突かれたのか、素の表情が現れる。

 マリカは小馬鹿にしたような口調で続けた。

「ああ……それとも。両親の言うことは何でも聞く、お人形さんだったのかしら?」

 途端、女の頭に血が上ったのが傍目からでも分かった。顔が一気に赤みを増す。

「黙って聞いてればこのガキ!」

「貴女は多分知らないのだろうから、教えてあげるわ」

 汚い言葉で声を荒げた女を涼しい顔で躱し、マリカは言った。

「愛娘はパパに甘えてもいいのよ」

 ……何を言ってるんだこいつは。

 堂々と、したり顔で告げるマリカに、俺を含め大人たちは再び呆然とさせられた。

「くっ……はは、ははははは!」

 沈黙を破ったのは親父さんの笑い声だった。

「全く……祖父に引けをとらない破茶目茶な娘だ」


「自分のことばかりだったのだな、私は」

 しばらくの間笑い続けた親父さんは、溜息とともに囁くように溢した。

 そして場の視線を一身に受けながら、親父さんはポツリ、ポツリと語り出した。

「私は婿養子なんだ」

 唐突な発言に面食らったが、ここは話を繋いだほうが良さそうだ。

「いわゆるその……政略結婚ってやつか?」

 俺の質問に、僅かに微笑みながらかぶりを振る。

「私の実家は一般的なサラリーマン家庭だった。妻とはこれでも恋愛結婚だったんだ。学生時代の同級生だった」

「これだけの大企業、しかも業績がガンガン伸びている全盛期の頃に湧いた娘の結婚話だろ? 俺には世界が違いすぎてよく分からねえんだが、普通はデカい会社の御曹司とか、国のお偉いさんの息子とかに嫁がせるモンじゃねえのかい?」

 意外だった。思わず聞いていた。

 俺の質問に、微笑みを崩さないまま親父さんは答えた。

「そういったケースは少なくないだろう。だが義父は型破りを絵に描いたような人物だからね。実は彼がHiRAGIの代表取締役だったことは、結婚の挨拶の時初めて知ったんだ」

 ひええ、マジか。俺だったら即、トンズラしてるかもしれねえ。

「当時私は、しがないデザイナーの卵としてなんとか生計を立てていた。当然怖気づいたし、全てを捨てて逃げ出してしまおうかとも思った。だがそれでも私は、彼女との結婚を認めて欲しかったんだ」

 微笑みを保ったままの親父さんの瞳に、小さな火が灯るのが分かった。

「義父は頭を下げる私に尋ねた。『君は、何ができる?』と。それが娘になのか、HiRAGIになのか分からなかった。だから私はこう言ったんだ」

 一瞬だが、瞳の炎が大きく燃え上がるのが確かに見えた。

「『金銭的にも、そして勿論精神的にも、娘さんに不自由な思いはさせません。私は貴方の会社を見違えるくらい格好良くしてみせます。私を一従業員として雇って下さい』とね」

 やはり親子だ。俺はそう感じた。他でもなく、マリカは確かにこの人の娘だ。

 気付けばまた穏やかな表情に戻った親父さんは口を開く。

「義父に啖呵を切って入社してからは大変だったよ。右も左も分からない新人の私は、デザイン部門に配属された。そこからはもうがむしゃらに、デザインに関わるものなら何でもやったんだ。そうしているうちに、あっという間に月日は経ち、茉莉花が生まれ、私は統括部長なんて仰々しいポストに就いていた」

 そこで親父さんは微笑みを崩し、ふっと自虐的な笑みを浮かべた。

「デザイナーはある種の技術者だ。現場にいてこそ真価を発揮するのだと思う。上座の椅子にふんぞり返ってする仕事なんて私には向いていないのだよ。そして私はある時思った。私はがむしゃらに進んできたつもりだったが、全ては後継者を育てようとする義父の掌の上だったのではないか、とね。使い古された陳腐な言い回しだが、私は義父の敷いたレールの上を走っていただけなのではないかと思ってしまったんだ」

「そりゃ違うんじゃねえか」

 俺は思わず口を挟んでいた。

「嫁さんと結婚できたのも、それに今のポストだって、あんたが認められたからこそだろ? ヘッドハンティングだって、あんたの才能を見込まれたからこそじゃないか」

「……そうかもしれない。だが、そうじゃないかもしれない。私は、他人も、自分自身さえも信じられなくなっていたんだ。私はHiRAGI社長の娘婿としてしか価値がなく、ただ利用されているだけなのではないか、とね」

 その時、女の眉がピクリと僅かに動いたのを、俺は見逃さなかった。

「だが、娘の、茉莉花の一喝で目が覚めたよ。私は社長との、義父との約束を破るとこだったのだな」

 静かに言った親父さんは、憑き物が落ちたような顔をしていた。

「それじゃ、パパ」

「……ああ、心を入れ替えたつもりで、もうここで一度頑張ってみるよ」

 困ったように微笑む親父さんに、マリカの顔がぱあっと音が聞こえそうなほど明るくなった。

「な、何を言って」

「おっと、感動の親子の対面を邪魔するなんて無粋なマネはさせねえぜ」

 気色ばんで一歩前に出た女の進路を塞ぐように立つ。やはり、コイツ。

「手ぶらで帰るわけにはいかないのよ」

 突然の事態に、柊親子は一歩も動けぬまま固まっていた。女は俺から目線を外さぬまま、スーツの中に手を入れた。奴さん、何か持ってやがるな。

「バカな真似を」

 すかさず俺も内ポケットに手を入れ、のずしりとした重みを確かめる。相手も俺がエモノを握ったことに気付いたようだ。

 そのまま睨み合いながらも、互いに一歩も動かない。じりじりとした空気が肌を焦がす。

 冷や汗が俺の頬を伝い、顎先から床に落ちた。瞬間、女の肩が微かに揺れる。僅かに出遅れた俺は、当て身の姿勢で床を蹴った。同時に、懐に入れられた女の右手が抜かれ――

「そこまで!!」

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