希望が鎖す、夜の別称:44




 寝台に目を向けると、胸に勿忘草の本をぎゅむっとばかり抱きしめたソキが、ロゼアにぐりぐり頭を擦りつけながらうぅうーんっ、と唸っている。唐突に飛び込んできたその光景をほのぼのと見守りかけ、メーシャは浮かんだ笑顔をそのままに、部屋の扉に数歩後退した。部屋の位置と札を確かめる。メーシャの部屋である。ロゼアの部屋ではない。ええと、と戸惑いながら、もう一度室内を確認する。

 ううぅんにゃーですううう、と唸りながら、『傍付き』の膝に陣取ったソキが、うりうりぐりりとロゼアの腹に顔を擦りつけている。困ったなー、と甘く解けた囁きで、ロゼアはソキの頭を、背を、ゆっくりと撫でて愛でていた。別に不思議な光景ではない。ここがメーシャの部屋でさえなければ。それとも、もしや、メーシャの部屋はロゼアの部屋になったのだろうか。不在の間に部屋替えが行われた可能性を頭にいれながら、メーシャは戸口からそっとロゼアを呼んだ。

「ロゼア……? ソキ、ここ、俺の部屋でいいんだよね……?」

「おかえり、メーシャ。そうだよ」

「あっ、メーシャくんです! おかえりなさーいですー! あのね、あのね、ちがうの。鍵があいてたの。それでね、寮長ったら、合鍵をくれなかったです!」

 いけないことですぅ、とふんがいするソキの補足を、呆れ顔で舞い降りた妖精が囁き告げる。部屋の鍵があいていたのは本当のこと。それならば、寮長に頼んで合鍵ででも閉めてもらおうと頼んだのだが、忙しくて管理簿をつけるのがめんどくさいと断られたので、ソキがお留守を任されてあげるぅっ、という結論に至った、とのことだ。

 曰く、鍵のかからないお部屋ならソキが自由に使っていい、ということでは、とのことだ。ソキの独自解釈の成された『お屋敷』規定は、ロゼアが嗜めても妖精が叱っても、だってそうだもん、と覆ることはなく。一応、そこがメーシャの部屋であるというのは理解していることを確かめて、ロゼアと妖精は、ソキがいたずらをしないように監視をこめて、一緒にいるのだということだった。

 そうだったんですね、と苦笑するメーシャに、顔を上げたソキがぷぅっと頬をふくらませる。

「ソキ、いたずら、しなーいー。しなーいですぅー。ソキはぁ、メーシャくんにおかえりなさいを言うかかりしようと思って待ってたんだもん。メーシャくん、おかえりなさい」

「ただいま、ソキ。ロゼアも……リボンさんも、ありがとう」

「うふん。あのね、それでね、さしつかえなければ、なんですけどね。ソキはいくつか教えて欲しいことがあるです。おつかれなんでしたら、明日でも大丈夫なんてすけどぉ、そしたら、明日また行かれる前に教えて欲しいです」

 いいよ、と言いながら、メーシャは部屋の扉を閉めた。そこを閉じても、部屋に人の気配と声がすることが、知らず冷えていた心をゆるく温めていく。ほっと肩の力を抜いて。なに、と笑いながら歩み寄ってきたメーシャに、ソキはお尻の下からもぞもぞごそそとスケッチブックを取り出し、えっとお、と言いながら紙面を開いた。

「あのね、ラティさんのこと、なんですけどね。桃色なの? それとも、れもん色なの? ソキはね、桃色かなって思うんですけど、れもん色か、それとも、薄荷色かも知れないです? って思ってね、ちょっと進まなかったです」

「うー……ん……。ごめんね、ソキ。なんのこと?」

「おねむりのラティさんのね、ねむねむのね、気持ちの色なの」

 うーん、そっかぁ、とメーシャは微笑んで頷いた。説明をしてもらうと、余計に分からなくなる。ロゼアに目を向けると、申し訳なさそうに苦笑され、メーシャの印象を聞いてるんだよな、と言葉が付け加えられた。あ、と思ってメーシャは笑みを深くする。ロゼアも、すこし、調子が戻ってきたようだった。そうなんです、そうなんですぅ、と頷いて、ソキがあのね、と口を開く。

 聞きたいのは、眠るラティを見た時の印象、それを色で表すとするのなら、何色になるか、ということであるらしい。そんなこと考えたこともなかったな、と首をひねるメーシャに、ソキは諦めず、お願いおねがいですうぅ、とちたぱたした。どうしても知りたい、というか、必要なことでるらしい。

「例えばね、ソキはアスルをぎっとして眠るとひよこ色のねむねむになるですしぃ、リボンちゃんが一緒だと、きらきらの林檎色の気持ちですし、ロゼアちゃんのぎゅうだとぉ、ふにゃふにゃきゃあんの蜂蜜色なんですよ! わかる?」

「分かるような、分からないような……。そうだなぁ……」

 眠る、ラティのことを考える。顔色は良い。呼吸もしっかりしていて、病の匂いはしなかった。部屋は明るくて静かで、清潔で、寂しい。ふっと目を覚まして、すぐにでもメーシャ、と呼んでくれそうなのに、ラティはずっと眠り続けている。そこに色を見出すとすれば、桃色でも、れもん色でも、ないような気がした。ひんやりとして、どこか、かなしい。薄荷かな、とメーシャは言った。

 ソキの提示したものからではそれが一番近く、口に出してみると、殊の外しっくりと合うようだった。薄荷だ、うん、薄荷だよ、と呟くメーシャに、ソキはふむむっと頷き、紙面の端に急いでそれを書き入れていく。ところでそれ、なに、と問うメーシャに、ソキはよくぞ聞いてくれましたっ、という自慢げな顔をして、頼まれごとなんですよぉ、と言った。

 妖精が諦めた顔で首を振る。ラティの使った魔術の詳細を調べて、描いてるのよ、と告げられて、メーシャはなるほどと頷いた。

「さっきは、それで悩んでたの?」

「さっきぃ……?」

 悩んでたっけ、という顔でソキがくてりと首を傾げる。ぱちくり、まばたきをして。ソキは唐突に、あーっ、と声をあげて、手をぱっちーんと打ち合わせた。勢いが良すぎて痛かったらしく、即座に悲しげな顔でずびっと鼻をすするのを眺め、メーシャはしみじみと微笑んだ。ソキを見ていると、癒やし効果がものすごくて心が和んでいく。

 メーシャにもロゼアにも微笑んで見守られながら、ソキはあわあわちたたと慌ててなぜか左右を見回し、いやぁああんっ、とぐずった声をあげた。再び、ロゼアにぐりぐりうりりと頭をなすりつけ始めたのを見つめ、メーシャはほわりと息を吐く。

「ソキ、そんなにしたら、ロゼアのおなか擦り切れちゃうよ。どうしたの?」

「擦り切れないよ。悩み事なんだよな、ソキ。分からなくて困ってるんだよな」

「ううぅううにゃああぁあぁあ……! そうなんですううぅうう……!」

 擦り切れちゃう、という箇所だけ聞こえないようにさっとソキの耳を手で塞いだロゼアに、メーシャは安堵さえ覚えて頷いた。ずっと調子が悪かったと感じていたので。元気になってなによりである。アンタそこで判断するのやめなさいよ、と妖精から白んだ目を向けられて、でもそう思うでしょう、とメーシャは微笑んだ。

 妖精は嫌そうな顔をして、ついと天井近くに浮かび上がる。砂漠から戻ってからこちら、妖精はずっとソキの傍にいる。これからはずっと、そうなのだという。ルノンも都度、顔を出してくれるし、ここ数日は朝に夕に様子を見に来てくれるので、寂しい、とは思わないのだが。ずっと一緒、というのは、やはり嬉しいことだった。

 よかったな、と幸せな気持ちを感じながら、メーシャは視線をふたりに戻してくすくすと笑った。

「どんな悩みごと? 俺にも助けられることかな」

「ありがとうです……。でもね、でもね、ソキのね、ソキの、思い出せない悩みごとなの……」

 それは、思い出せないでいる、ということを、思い出した悩みなのだという。うん、と不思議な気持ちで問い返すメーシャに、ソキはつまり、なにかを思い出せる筈なのだ、と言った。けれども、それが、なにか、というのがまず分からないし。なんでそういう風に思うのかも分からないし。でもあとちょっとのような気がするし。でも、でも、分からなくて、困っているのだという。

 うーん、とメーシャはさらに苦笑した。分からないまでも、それは落ち着かないだろうな、と思う。助けになってあげたいのだが、それはソキ以外にはどうすることもできないことだ。なにか手がかりはないの、と訊ねるメーシャに、ソキはがっかりしきった口調で、ないの、としょんぼり呟いた。言葉には、どうしてもうまく表せないのだろう。もどかしそうに、ソキは幾度も瞬きをした。

 考えても、考えても、そこに辿りつけないのだろう。ソキはつつんとくちびるをとがらせて拗ねたあと、ぐずっ、と鼻をすすってロゼアにくっつきなおした。うやぁああぁあいやぁああんっ、と落ち着かないでいる声がほわんふわんと響いていく。ほわ、と満たされた幸せそうな笑顔で、ロゼアがぽんぽん、とソキの背を撫でていく。

「ソキ、ソキ。あんまり悩みすぎてもよくないだろ。なにか飲みに行こうか」

「うー、うぅー……。メーシャくんも、いっしょ?」

「一緒だよ。な、メーシャ」

 有無を言わさぬロゼアの笑顔に、メーシャは思わず声をあげて笑ってしまった。友人の調子が戻ってきたのは、ほんとうに幸せなことだ。ソキを抱いたまま立ち上がるロゼアに促され、メーシャは不思議な気持ちで廊下に出る。待ち構えていたように、あっ、と声がかかった。

「メーシャくん! 戻ってきたって聞いて……あの、クッキー焼くから、お茶しない? ソキちゃんとロゼアも誘ってさ」

「もちろん! ……だよね? ロゼア、ソキ」

「ナリアンくんのクッキー! ソキの! そ、そきのっ! なりあんくんのくっき、くっきー!」

 ちたぱたたたたたっ、とはしゃぐきらんきらんのソキを、ロゼアが危なげなく抱き直しながら宥めていく。あれ、と不思議な顔をして、ナリアンはひょいと扉を確認した。メーシャの部屋である。メーシャの部屋から、ロゼアとソキも出てきただけであるのだが。あれ、ロゼアなにしてたの、と問うナリアンの気持ちは、メーシャにはよく理解できた。

 御留守番、としれっと言い放つロゼアの腕の中で、そうなんですううぅう、とソキがふんぞりかえる。そっかあ、と事実関係の確認とか必要ないよねソキちゃんがそう言っているならそれが全てそれが正義つまり俺の妹は今日も最高に可愛い世界平和を感じる、と心から思っている笑顔で頷いて。ナリアンは、とりあえず調理室かな、と言って歩き出した。

「今日は、なにしてきたんだ? ナリアン」

「俺? 俺は、今日は……なにかをしてきたよ、ロゼア……。ただひとつ分かってるのは忙しかったってことかな……。立ち止まるな死ぬぞって思った……どうして俺は戦場にいるんだろう……世界は平和になったのでは……平和とは……? ってなってた。俺はなにをしてきたんだっけ……?」

「うん、うん、ナリアン。ナリアン、休もう」

 俺もクッキー作ってみたいな、今日は俺ので我慢してよ、と笑うメーシャに、教えるよ、とロゼアが同意する。ロゼアちゃんのくっきーっ、と廊下の端までふんわか響いていく大きな声で叫び、ソキは途端にそわそわと、腕の中から降りたそうにした。クッキー作りの邪魔になる気がしたからである。ロゼアのクッキーの為には、ちゃんと抱っこをがまんできるソキなのである。

 ふすふす、気合の入った鼻息で、いいこに待てる宣言をするソキに、ロゼアはやんわりと笑みを深めてみせた。抱きなおして、ぽん、ぽん、と背を撫でる。

「メーシャと一緒に作るから大丈夫だよ。ソキは作るのを見る係な。できる?」

「きゃあーん! ソキ、おてつだいするぅー! ソキ、けんめいに、みるかかりをするですううぅう!」

「ロゼア……。じゃあ、俺はソキちゃんを眺めててもいい……?」

 ひたすらソキを眺めて癒やしを得たいナリアンの気持ちは、メーシャにはよく理解できた。ロゼアはちょっとどうするか考えたあと、まあ、ナリアンなら、と言って許可を下す。ナリアンくんもソキと一緒に見る係をするです、とまたひとのはなしを半分くらいしか聞いていなかったが故の納得に、ソキはこくりと頷いた。ちたちたん、と足を揺らして、ソキはぴとんとロゼアにくっついた。

「クッキーたのしみですぅ! ね、ナリアンくん」

「そうだね。ソキちゃんかわいいね、ロゼア」

『アンタたち、せめて話しかける相手くらいは一致させなさいよ……』

 よくよく考えると、会話が成立しているのかも怪しいものがあるのだが。ナリアンもソキも、特に気にしてはいなかった。くすくす、笑って、メーシャは足取りも軽く廊下を歩いていく。『学園』に帰ってきた時の重苦しい気持ちは、思い出すことも。胸をよぎることもなく。あたたかく騒がしい休憩の隙間に、落ちて、溶けて、消えてしまった。

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