希望が鎖す、夜の別称:45
エノーラからの依頼の品が完成したのは、スケッチブックを受け取った翌々日のことだった。ソキはロゼアの勧めで念の為、半日ほど時間を置いてからじっくりと間違いがないかを確認し、どこも訂正することがないのを確かめてから、寮長を通じて白雪に連絡した。すぐにやってきたエノーラは、自信満々の顔をするソキから半信半疑にスケッチブックを受け取り、ぺらぺらとめくって、沈黙する。
物見遊山から瞬時に錬金術師たちのまとめ役の顔になり、エノーラは視線と意識を幾度も、描かれたそれらに集中して向けて。やがて、関心と恐れが等分になった息を吐き、ありがとう、確かに、と言ってスケッチブックを受け取った。
「……急がなくてもいい、と言ったのに。頑張ってくれちゃった?」
「ソキ、ちゃぁんと休憩しながら、けんめいに頑張ったんですよぉ? あのね、ロゼアちゃんとね、メーシャくんがね、ソキの好き好きないちごと、くらんべりーと、らずべりの、クッキーを焼いてくれたです! それでね、メーシャくんはね、ねむねむなラティさんのことをね、たくさんお話してくれたです。それでね、ナリアンくんは、花舞が戦場だからね、ロリ先生にもクッキーを持っていくです」
それでね、それでね、とあれこれ話すソキの言葉の時系列はばらばらのぐちゃぐちゃで、しかも内容も統一されていない。大人しく微笑んで聞きながら、そっかぁ、と頷き、エノーラは額に指先を押し当てて、必要な情報だけを整理して考えた。つまり、特別急いだ訳ではなくて、ちゃんと休憩だってした上で頑張ったので、褒めて、という要求らしい。この纏めで間違ってはいないだろう、とエノーラは思った。
なにせ、なにか言いたげな微笑みで、ロゼアがエノーラを見つめてくるので。恐らくはソキの褒め待ちである。あのね、あのね、それでね、と楽しくおしゃべりを続けるソキの言葉が、僅かばかり途切れた隙を逃さず。エノーラはソキの目の高さにしゃがみこんだまま、偉いね、と間違わず、その言葉を選んで差し出してやった。
「頑張ってくれたのね、どうもありがとう。とっても偉かったわね。……うーん、卒業後に白雪とか、どう? ちょっと帰ったら陛下に相談したいわこれ本当に……。え、ねえ、本当に無理しなかったの? 体調悪くとか、なっていない? 本当に?」
「ソキぃ、ずっとロゼアちゃんのお膝と、ロゼアちゃんのだっこだったんでぇ」
いいでしょおぉ、とばかりふんぞり返って自慢するソキに、エノーラはそっかぁ、とまがおで頷いた。ロゼアを確認しても、本当に体調を崩すようなことはなかったらしい。取り急ぎ帰らなければいけないことを悔やむ顔で立ち上がり、エノーラは今度またその件でおはなしさせてね、とソキに向かって囁いた。
「あと、あの、あまり頻繁にはしないと誓うから、時々こういうことを依頼してもいいかしら……? あ、もちろん、お金は払うから! いっぱい! かわいこちゃんに報酬を弾むの大好き! どうかなっ?」
「……ましゅまろーと、飴も、つけてくれるです? この間頂いたのがね、とってもとっても美味しかったんですよ」
「もちろん……! 陛下に、どの洋菓子店のをソキちゃんに口止め料で渡したのか、ちゃんと聞いておくからね……!」
やったぁああ錬金術師の発展に栄光あれーっ、と叫んで談話室を飛び出していくエノーラを見送り、ソキは定期的なましゅまろ取得の目途に、鼻息荒く頬を赤らめて喜んだ。これはロゼアちゃんに、ないしょにしないといけないですっ、とふんふん算段をつけるソキを白んだ目で見下ろし、妖精は、今誰を座椅子代わりにしているのか思い出しなさいよ、と言いかけてやめにしてやった。
成り行きを見守っていた寮長が息を吐きながら歩み寄り、お前できるのは隠しておけよって言ったろ、とソキに小言を言い始める。顔を逸らしてつつん、とくちびるを尖らせるソキは、反抗的な態度でしらないです、と耳を手で塞いだ。
「今日もおねつさんなのに起きているです。いけないひとのお話は、ソキ、聞かないです。しーらーなーい!」
「薬は飲んだから熱は出てないって言ってんだろうが……」
「薬を飲まないと熱を下げられない状態で、出歩かないでください、寮長。五国への連絡をするのに、必要でしたから頼みましたが……ナリアンからも頼まれているので、見逃してあげられません」
眠りましょうか、と微笑むロゼアに、ソキがぷぷっと頬をふくらませて寮長を睨んだ。ロゼアちゃんにお眠りをお願いされているのに、ねむらないでいるだなんて、という『花嫁』の非難いっぱいの視線に、寮長はうんざりとして天を仰ぐ。
「分かったよ、休む休む。もういくつか終わったら……おいロゼア。その、アスルを振りかぶってるソキを止めろ」
「え? どうしてですか?」
「うふふふん! ソキ、かいりょーに、よねんがないんでぇ! えいえい!」
ぽーん、と思いの外まっすぐに、アスルはよく飛んだ。咄嗟に逃げようとした寮長を妖精がさっと拘束したおかげで、まったりとした速度で飛んで来たアスルは、無事にぽよんとぶつかって落ちる。即座に意識が落ちて倒れ込む寮長の体を、副寮長がため息をつきながら抱き留めた。強く止めることができず、傍で見守っていた副寮長は、意識のない男をてきぱきと担架で運ばせた。
念の為に保健室で白魔術師に見て頂くように、と指示を出し、副寮長は視線で、このたびはなにを、とソキに問いかけた。ソキはアスルあするっ、とロゼアの腕の中からちたちたと拾って欲しいと要求しつつ、自慢げな顔でおねむりさんなの、と言った。
「元気になるまで、おねむりさんになるようにしたの」
「……回復されるまで、昏睡する、ということでよろしいでしょうか?」
「お腹がすいたら起きられるです。それでね、お腹がいっぱいになるとね、寝るの」
眠りっぱなし、という訳でもないらしい。実に精緻に調整された呪いである。関心と恐ろしさが混ざり合った複雑な視線で、副寮長は、あまり呪いをぽんぽん使わないように、とソキに注意した。そもそも原則として、学園の生徒は不意の魔術発動を禁じられているのだ。完全に使用禁止でないのは、生活に便利に使うのも精度向上に有効だからであり、日々の訓練にもなるからである。
ソキは、あまり真剣に聞いていない声ではぁーい、と返事をして、あきらめ気味の副寮長からアスルを手渡してもらった。言っておくように、とロゼアに重ねて注意が向けられる。すがる視線が妖精に向けられるのは、ロゼアがソキを甘やかすのが分かり切っているからで、説得しきれるかも不安がられているからだろう。まあ任せておきなさいな、と腕組みをして、しかし妖精は首を傾げてみせた。
『まあ、ソキの場合は、正当防衛と強硬手段として、まだ判断がついていると思うわ。今の所はいいんじゃない?』
「……それでも、規律は守るべきものです。よろしくお願いしますね……?」
『分かっているわ』
本当かな、と疑いのまなざしを向けられて、妖精は心外である、と眉を歪めて羽根を揺らめかせた。ソキのやることなすこと呪いに傾いているのは、本人の資質と性格から来るものである。妖精が普段から、ロゼアのことを呪うだのなんだの口にしているからでは、ないのである。断固として。関連性など、ない。ソキが真似っこ大好きで、すぐきゃっきゃはしゃいでやりたがるにしても。違うのである。
たまには祝福でなにかしなさい、アタシに妙な疑惑がかけられているから、というと、ソキはぱちくり瞬きをした。
「ぎわくって、なぁに?」
『まさか疑惑の説明から……? 嘘でしょ……? まさかでしょう……?』
「ぷぷ! リボンちゃんたらぁ、ソキをばかにしてるぅ! 意味を聞いたんじゃないもん! 誰にぃ、なにを疑われてるの? って、ソキ、聞いたです!」
リボンちゃんをいじめるひとは、ソキがアスルでもふりとするですっ、と気合の入った宣言に、妖精は諦めの濃い気持ちでやめなさいね、と言い聞かせた。もふり、という気の抜けた擬音に反して、その効果は猛々しく獰猛だ。寮長が声も上げず眠りに落ちた所を見ても、一件からさらに即時性が強化されたと見て間違いはないだろう。空腹になったら目が覚める、という仕様も、中々できることではない。
空腹になったら呪いとして終了し、解呪される、というものではない。そこからさらに、空腹が満たされたら、心身が回復したとみなされるまで呪いは継続されるのだ。その連続性ひとつだけ見ても、妖精にすら複雑だ、と感じさせるものである。なんでそういうトコだけ成長が早いのかしらとため息をつく妖精に、ソキはちっとも反省のない態度で、ソキったら努力家なんでぇ、と胸を張った。
「色々魔術を使うのをね、じーっと見てね、覚えてね、それで、組み合わせてね、改良したの。えへん!」
『はいはいすごいすごい偉い偉い。いいこだから、それをアタシとロゼア以外の前で口にするんじゃないわよ? 淑女でお姉さんのソキならできるわよね? もちろん、できるわよね?』
「もちろんですうううう! ソキ、淑女でぇ、おねえさん、なんでぇ!」
このちょろくてどうしようもない所も改善させなければと思うのだが。こういう時にすこぶる便利なのはどうしたものか、と妖精はため息をついた。ロゼアは、妖精がわざわざ言わなくても、その危険性を分かっているらしい。ソキ、ほんとうに内緒だからな、約束しような、と真剣な声で囁かれるのに、『花嫁』は無垢な瞳で『傍付き』を見た。じっと。言葉はなく。その意思、その気持ち、心の裏側までを見通すような眼差しで。
やがて、こくり、と素直な態度で『花嫁』は頷いた。
「分かったです。ソキ、言わない。……ロゼアちゃん、いけないことです? ソキ、いけないことをしてしまたです……?」
「いけなくはないよ。いけなくなんて、ないよ。ソキが、とっても頑張り屋さんで、いいこだよ。いいこだな、ソキ。……かわいいかわいいソキ。おいで」
しょんぼりとしたソキを抱き寄せるロゼアは、それでいて上手い言葉を見つけられないでいるようだった。溜息をついて、妖精は談話室を慎重に見回した。幸い、寮長が倒れた時から周囲の注意はそちらに向いていて、ソキの言動に注意を払っている者はないようだった。副寮長だけがその危険性を見抜いていたが、あれは口がかたい男である。相談すべきことと、秘することの大切さを知る魔術師でもある。
だからこそ。それこそ、ソキの才能が起因となる取り返しのつかない事故が起こらない限りは、その胸ひとつに秘めてくれるだろう。今の所、ソキの特異な才能は、表立った問題としては浮上してきていない。悪用されない限りは問題にならない方向性の才能でもある。それが不幸中の幸いだった。また魔術師として成長していけば変化が現れるかも知れないが、ソキにはまだ先のことだった。
なにせ、一年時の授業さえ、終了していないのである。五国も『学園』もやや落ち着きを取り戻しているとはいえ、授業は無期延期となっている。再開の目途が立ち次第、知らせが張り出されることになっているが、数日でどうなることでもない。半年以内にはなんとかなるよ、というのが、在学期間の長い生徒たちの意見だった。それくらいあれば、王宮魔術師たちも調整が終わって、また『学園』に顔を出すようになるのだという。
妖精は羽根を揺らめかせながら、しょんぼりしている、と見せかけてすでに気を持ち直し、ロゼアにくっついて甘えているソキを見下ろした。所で、と気になっていることを口にする。
『悩みは解決したの? ソキ。今日はふにゃうにゃしてないみたいだけど』
「……なや……そ、そそそそ、ソキ、淑女なんでぇ! いつ、いつも、悩みに、うにゃにゃんとしているわけじゃ、ないんですよぉ? わか、わかったぁ? ほんと、ほんとなの! 忘れちゃうんじゃないの! ちがうんですぅ!」
はいはいそうね、淑女淑女、と雑に流して、妖精はため息をついた。忘れられるような悩みであるから、別に深刻という訳でもないのだろう。ううぅ思い出したら気になってきてしまたですうううソキはなにが思い出せないんですううぅ、とロゼアにぐりぐり頭を擦り付けだすソキにため息をついて、妖精は『学園』を散歩でもしようかしら、と高く舞い上がった。
決して、なんで思い出させるんですか、というロゼアの視線から逃れたかった訳ではない。決して。違うのである。うっとおしいのは確かなことであるのだが。違うのである。今後ロゼアとはどう付き合っていくべきなのか考えながら、妖精は落ち着き始めた『学園』を、悠々と飛んだ。
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