希望が鎖す、夜の別称:26




 ソキが花舞に出発できたのは、その日の夕方も終わりかけている頃だった。目標は夕方、早ければお昼過ぎと告げられているものが、お昼ごはんゆっくり食べていいよになり、お昼寝してきても大丈夫だからになり、おやつ食べていてになり、ソキはすっかり出発する気をなくしていたので。いざ、となってから盛大にごねたのが、遅延理由の一因である。

 元々の予定が夕方を目処にしていたとはいえ、いつでも出発できるように、とのことであったのだ。ソキは朝からロゼアにぺっとりとして、行ってきますの準備をしていたのに、まだ、まだ、もうちょっと待ってて、と言われ続けて機嫌を損ねたのである。『扉』を使う術式を記したスケッチブックをぎゅっとばかり抱きしめ、今日はもうだめだもん、明日にするもん、ソキもうお風呂へ行くんだもん、と主張するソキをロゼアが強くは咎めなかったこともあり、説得は難航を極めた。

 最終的にはシディの羽根を掴んだ妖精が、ロゼアやることは分かってんだろうなもぐぞ、と本気の目で脅しをかけたおかげで、ロゼアは気乗りしない声で、ソキに行ってらっしゃいしような、と告げた。案内妖精を守る魔術師の友情に、見守っていた誰もがほろりと目元を拭ったが、ニーアとルノンは言葉もなく、その一幕を見守っていた。妖精が本当の本当に本気だと分かっていたからである。

 しかも、ロゼアが即座に決断しなければ実行していたくらいの本気である。シディは灰色の目をして無抵抗にぶら下がりながら、あの、いくら鉱石妖精の羽根がまた生えるからと言っても痛いですし生えてくるまでしばらくかかりますし元に戻るまでは飛べませんしと訴えたのだが、知ってるわよそれがなんなの、という苛々しきった声で、秒で却下された。

 かくして出発となったソキと妖精、ナリアン、リトリアとツフィアは、出発前後の騒ぎを考えなければ、実に順調に花舞へと転移した。『扉』を使用したのとなんら遜色ない移動にツフィアは感心した目をソキに向け、リトリアとナリアンはすごいねすごいね、私も出来るようにならなくちゃ、と言葉を交わし合い。ソキは投網を警戒して、するどい目で周囲をきょろきょろ見渡した。

 妖精が大丈夫よ安心なさいと苦笑して、ようやく納得の頷きを見せたソキとその一行は、そこから一目散に女王の執務室を目指した。部屋が近くなるとリトリアは早足になり、小走りになり、その途中であえて目と髪にかけた魔術の隠蔽を取り払うと、最後は全力で廊下を駆け抜け女王の執務室へ、失礼しますの一言もなく、唐突に、音高く飛び込んだ。

 ぎょっとするいくつもの視線をものともせず、リトリアはきっと怒りのこもった眼差しで、花舞の女王陛下を睨みつける。

「お姉さまっ! ソキちゃんからぜーんぶ! 聞きましたよ!」

「リ……リトリア? どうやってここまで……いや、その姿は、昔の……?」

「お姉さまが私の話を聞いてくれるように、いまだけ分かりやすくしてきました! そんなことより、お姉さま! 砂漠に対して、どうとかこうとか、ソキちゃんから聞きましたけど……!」

 そのあたりでようやく、追いかけようとして転んでぴすぴすしながら息切れをしていたソキと、置いていく訳にも行かずに同行してくれたツフィアと、ナリアンが戸口に顔を覗かせる。魔術師と王、ではなく。初激の衝撃で、一気に身内の喧嘩にまでもつれ込ませたリトリアに、ツフィアは苦笑しながらおてんばね、と呟き、しかし後は静聴の構えで見守っている。

 引率者がそうであるので、ソキも目をきらきらと好奇心に輝かせながら成り行きを見守った。いや、リトリア、はなしを、としどろもどろに訴えてくる女王に、聞きませんっ、と年下の身内にだけ許された、暴虐めいた声できっぱりと言い放ち。リトリアは楽音の王が予想し、砂漠の王が期待した通りの言葉を、なんのためらいなく言い放った。

「そんなひどいことする、お姉さまなんてだいっきらいっ! しばらくは話したくもないし顔も見たくありません! 反省なさって!」

「り……リトリア、それは!」

「フィオーレは『学園』で元気に反省しているし、ロリエスさんはこれから準備を整えて迎えに行こうとしてるの! 余計なことしないで邪魔しないでお姉さまのばかっ! わからずや! はんせーして、はんせいっ! 分かりましたか分かっていただけたなら私はもう帰りますお邪魔しましたさようならっ!」

 すたたたたっ、と戸口までかけてきたリトリアは、唖然とする花舞の者たちにわたしになにか文句でもあるのと言わんばかり、尊大な態度で、その血統を示す二色ゆらめく髪と瞳を見せびらかすように、高慢に顔をあげて周囲を睥睨したのち。ばたーんっ、とばかり勢いよく、引き止める言葉を全無視して、扉を閉めてしまった。

 さっ、帰りましょ、とにっこり笑うリトリアに、ソキは思わずきょとんとした目で、ぱちくり瞬きをしてしまった。目まぐるしくて、なにが起きていたのかもよく分からない。唯一、リトリアがやることを予想はしていたツフィアだけが、苦笑しながらおてんばさん、とやんわり窘めたくらいである。

 ふふ、とくすぐったそうに笑ったリトリアは、あ、と思い出した風を装って体を反転させ、よいしょ、と言いながら再度執務室の扉を開く。

「あっ、そうそう。お姉さま? 言い忘れていました」

「な、な……なにかな?」

 動揺を立て直しきれていない女王に、にこっと愛らしく笑いかけて。リトリアは美しい仕草で、ごきげんよう、と囁き一礼した。

「そういう訳ですから、どうぞ大人しくしていてくださいね、お姉さま? このことは、シアちゃ……こほん。砂漠の陛下にも、白雪の陛下にも、星降の陛下にも。もちろん、お兄さまにも、ちゃんと伝えておきますから!」

 それでは続報をお待ちくださいな、隠れてなにかしたらもうお姉さまと口をきいてあげませんからっ、と最後まで年下の身内全開で言い放ち、リトリアは引き止める声を再度無視して、ぱたんと扉を閉めてしまった。清々しい、ソキによく似たぴっかりとした笑顔で、リトリアはよし、と頷く。

「これでもう大丈夫!」

「リトリアちゃん、すごぉーい! すごぉーい!」

「ふふ。お姉さまに言うことを聞いてもらうにはね、最初から話をさせないのが肝心なのよ。お姉さま、あれで、強引に来られるのに弱いの」

 リトリアの他、誰もそんな風に来ないからである。加えて、それを許してくれる身内の甘さが通じたので、今回はこれで収まるだろう。さっ、撤収しちゃいましょうね、追いかけてくると面倒くさいもの、とさらりと言い放ち、リトリアはさっと己の髪に指をからめ、まぶたの上から手を押し当てて、そこに再度魔術を展開させた。

 見慣れた花の、藤色だけが戻ってくる。ソキはそれをじーっと見つめ、どっちもとっても綺麗で可愛いですぅ、とご機嫌の声でにこにこと感想を告げた。ふふ、と照れくさそうにリトリアが笑う。それから少女はもじもじと手を擦り合わせ、ちいさな声で、ツフィアはどっちが、好き、と囁いた。気になっていたらしい。

 言葉魔術師は苦笑してリトリアに手を伸ばし、くしゃんと乱れた前髪を指先で整えてから、目を合わせてゆっくりと言った。

「どちらも、あなたに似合うし、可愛いわ。……ただ、陛下にあまりおてんばなことはしないのよ、リトリア。いつまでも許して頂けるとも限らないことなのだから……。分かったわね?」

「はぁい。……ふふ。どっちも好き? ふふふ!」

 頬を両手で押さえてこの上なく幸せそうに笑い、リトリアは弾む足取りで『扉』に向かって歩き出した。その背を追いながら、ナリアンは緊張の解けた息を吐く。『扉』を起動させたソキ、役目を果たしてみせたリトリアが、ひとつ間違えれば崩壊する緊張を、見守るツフィアの視線と存在で保っていたことを知っている。ナリアンだけ、まるでなにもしていない。

 転んだソキと手を繋いで歩いたくらいである。リトリアが走り出したのに動揺して、ソキを転ばせないことすらできなかった。身の危険を感じること以外では、と魔術の発動を禁じられていた為だった。俺、来る意味あったのかな、と落ち込むナリアンの手をきゅむっと握りながら、とてちて帰り道を歩くソキが、もちろんですぅ、と頷いた。

「ロゼアちゃんがね、なにかあったら、ナリアンを頼るんだぞってソキに言ったです。なんにもなかったらね、それが一番なんだけどね、でもね、ナリアンが一緒だから、ロゼアちゃんはソキがいなくて寂しいですけど、ふにゃあぁんさびしいんですけどぉー! えへ、えへへ、でもね、ナリアンくんが一緒だからね、安心してソキが帰ってくるの待ってるなって、言ってたです」

『誇りなさいよ、ナリアン。アンタ、信頼されてるってことよ。おかげで、ソキを見送るロゼアの不機嫌が、予想より三割減だったわ。どうもありがとう』

 珍しい妖精からのとりなしに、ナリアンはおずおずと頷いた。そうよナリちゃん、元気を出して、と囁くニーアにも頷いていると、先を歩いていたツフィアが笑いながら振り返った。

「あなた、そんなことを気にしていたの? ……いえ、悩みに対してそんなこと、はないわね。ごめんなさい。でも、気にしなくてもいいのよ。私や寮長、レディが、あなたかメーシャを、と言ったのは本当の緊急事態を想定してのことだもの。なにもなく戻れたなら、あなたはそれはそれで、役目を果たしているのよ。だから大丈夫」

「……役目?」

「もしも戦闘になった場合、言葉魔術師たる私だけでは、ソキとリトリアを守りきれない。案内妖精が力を貸してくれたとしても、かなり難しい防衛戦になるでしょう。ナリアン、あなたとメーシャに期待されたのは、なにかあった時にソキや、リトリアを連れて『学園』に駆け戻り、すぐに助けを連れてくることよ。あるいは、私がそうするまでの、足止め。先読みに長けた占星術師なら、もしくは、攻撃性の高い黒魔術師なら、それが可能だからよ」

 そうだったのっ、とびっくりした顔をして、予知魔術師たちが顔を見合わせる。この子達だけは敵の手に落とさせるわけにはいかない、分かるわね、と囁かれて、ナリアンは真剣な顔で頷いた。予知魔術師としても、リトリアとソキという個人としても、かけがえのない大切な少女たちである。

 なら、よかった、とほっとして呟くナリアンに、ソキはまじめな顔で、リトリアはぷぅっと頬を膨らませて言った。

「もう、ツフィアったら。私だって戦えるわ。『学園』を卒業した、一人前の魔術師だもの。いざ、と言う時の戦いの訓練だって、授業でちゃんとやったもの。……ソキちゃんは、まだ、だものね。私が守ってあげるからね!」

「ソキ、ちゃあんと守られるぅー!」

『……そこで、ソキにだってできるですうー、とか立ち向かっていこうとしないのが、良いところよね。ソキ』

 妖精に苦笑されて、ソキは自信たっぷりのふくふくとした顔で、そうでしょうそうでしょうと頷いた。

「守ってくれるっていう時はぁ、ちゃあんと守ってもらうです。あのね、戦わないといけない時とね、守ってもらわないといけない時はね、違うの。ナリアンくんがいるなら、ソキはアスルを投げなくてもいいの。だからね、アスルはお留守番なんですよ。きっとぉ、帰ったらぁ、ロゼアちゃんのいい匂いがいっぱい染みしみしてるにちぁいないですううううきゃああんきゃあん!」

「……見習ってもいいのよ? リトリア?」

「う、ううぅ……」

 戦わないといけない時は、ソキだって逃げずに、ちゃんとできることをするのである。特大の呪いをこれでもかとこめた、アスルをけんめいに投げるだとか。リトリアは今ひとつ納得していない顔で指先を突き合わせ、あ、と唐突に声をあげた。『扉』を目前にした事だった。

「ソキちゃん、ナリアンくん。先に戻っていてくれる? ツフィア、お兄さまの所にも行きたいの。ついてきてくれる?」

「リトリア。楽音の陛下、でしょう? ……長くならないなら、いいけど。なんの用なの?」

 もう、あとは『扉』を伝って帰るだけである。一度ソキが起動したことで、リトリアも『扉』を使う術を学んでいる。術式も頭に入っているのだった。目的は無事達成したので良いだろう、とするツフィアの疑問に、リトリアはふふっと楽しそうに笑う。

「大丈夫だから、次の会議でいじめるのは白雪の陛下だけにしてあげてねって。今のうちから止めておかないと、お兄さま……えっと、あの、あのね、楽音の陛下ったら、絶対にあれやこれや弱味を楽しく握っていくと思うの」

「白雪の、陛下は……いいの?」

「……あのね、楽音の陛下ったら、好きな子をいじめるのがだいすきなの……。花舞の陛下に対するみたいな、兄妹喧嘩とはね、違うから……しかたがな……くはないんだけど……」

 これで突かれると、せっかく収まったのがまた爆発すると思うの、お兄さまったらそういう引き際が分かってるんだけどひとさまをいじめるのが好きすぎてやりかねないから、と遠い目をして息を吐くリトリアの主張はつまり、上手く行ったからこそここでもう一つ、手を打って置かなければいけない、ということであるらしい。白雪の女王には尊い犠牲になってもらう、ということでもある。

 そういうことならば、と苦笑するツフィアと共に楽音へ向かうリトリアと別れ、ソキはナリアンと共に『学園』への『扉』を開く。ロゼアちゃんロゼアちゃん、とナリアンと手を繋ぎながら、きゃっきゃとソキは足を踏みだした。『学園』に到着したソキは、ナリアンと繋いでいた手をするりと外して歩き出す。妖精が、ひとりで行かないのよ、と小言を言う。

 その声が、響き終わるより、はやく。ひとりでに。ソキの意志と関係なく起動した『扉』が、予知魔術師の姿を飲み込んだ。後にはしんと静まる空白があるばかり。え、とナリアンの手が空を切る。妖精が瞬きをして、息を、止めるように喘いだ。

『……ソキ?』

 嘲笑うように。『扉』は、予知魔術師の姿を吐き出しはしなかった。



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