そして、転輪は終わり、永く深い夜が明ける。

希望が鎖す、夜の別称 1/3

希望が鎖す、夜の別称:01



 目を覚ます直前にいつも、記憶できない夢を見る。意識の残響だけが、目覚めた己に残り香のようにして告げる。失ってしまった。大切なものを、大切なひとを、失ってしまった。失わせてしまった。そしてもう戻らない。戻すことができない。取り戻すことが、できないでいる。何回も、何回も、ずっと。あんなに親しく傍にいたのに。

 離れてしまうことはあったけど、こんな風に失ってしまうだなんて、消えてしまうだなんて、思ってもみなかった。考えたこともなかった。けれども失くなったことも、失ってしまったことも、消えてしまったことも、今はもう分からないでいるから。戻ってきてと手を伸ばすことさえできないでいる。残ったのは呪いだけ。呪われているという事実だけ。

 それが彼のいた証。傍にいたよすが。だからこそ、それを深く抱き込もう。砂漠の国、己の身に流れる血液、呼吸さえそれに満ちている。忘れるな。それだけは失うな。この国は呪われている。言葉魔術師に。失ってしまった親しさに。瞼を開いて、瞬きを幾度か。呼吸を二回。それだけで痛いくらい響いていたなにかの残り香が、すぅと身体から消えてしまうのを感じた。

 母の死の夢と同じく、幼少期からたびたびある夢と目覚めである。慣れた感覚にやや首を傾げながら、砂漠の王は寝台に身を起こした。なにを、と思う。今日に限って一欠片、てのひらに残った喪失感がそれを考えさせる。自分はなにを失ってしまったのだろう。大切な宝だろうか、大切な人だろうか。思い出せもしないそれは、けれども確かに大切だと思えること、もの、だった。

 消えてしまう留めておけない夢の中で、その誰かは親友のように、悪友のように、兄のように、臣下として傍にいた。家族だった。この国は、そして己の傍という場所は、彼に取っての戻るべき家だった。そうであって欲しいと願っていた。おかえりと言って、ただいまと言わせて。行ってらっしゃいと送り出して、戻ったよと声をかけられて。この世で一番安心できる所なのだという顔で、眠らせたかった。休日のゆっくりした朝に、寝ぼけた顔で起きてくるくらい。

 その願いを抱いたのは誰にだっただろう。そんな風な存在がいたことなど、一度もないのに。繰り返される夢だけが、いつまでも喪失を嘆いている。深まっていく呪いだけを、許さず許せずに握りしめながら。ふぁ、と砂漠の王はあくびをして、腕をぐぅっと上に伸ばした。許さないでいるのは、なんだったろう。許さないでいるのは、誰だったろう。

 誰も彼を救うことができなかったのだと思い知った。誰も。己も。懺悔と後悔の感情すら、朝の穏やかな空気にほろほろと溶けていく。目を覚まして五分もする頃には、そんなことを考えていたことすら、砂漠の王には残らなかった。喪失感すら拭い去られる。この世の魔力は、王たちに悪意ある影響を及ぼさない。そうであるからそれは、悪意ではなく、魔力の術でもないのだった。

 終幕世界からの残り香が、残響が、すこし響いてしまうだけのこと。留まりはしない。それだけのこと、もの、だった。

「……さて」

 ようやくすっきりとしてきた頭を動かしながら、砂漠の王は室内を見回した。最近、よく眠れるせいなのか、起きてから起動までに時間がかかる気がして仕方ない。悪い気分ではないし体調も良いのだが、動かなければならない時にいつまでもだらだらとしているのは本意ではなかった。さてどうしたものかと思いながら、砂漠の王は眉を寄せて、未練がましく室内を見回した。

 傍らの熱はすでになく、きちんと畳まれた服だけが、女がそこへいたことを示している。思えば、一度たりとも脱ぎ捨てられたまま、乱れた服が落ちている所など見たことがない。てっきり、早起きの侍女がそっと整えているものと思っていたが、この状況でもそうならば、やっていたのは本人で間違いないだろう。几帳面で真面目でしっかりしている。いいことだ。

 良い女なのである。問題があるとすれば態度だろうか。やや、結構、すごく、王に対して執着なく、さっぱりしていて、未練のひとつも見せない所は、以前ならばハレムの女として満点だった。それも気に入って、重用していたのは確かなことなのだが。以前までの話である。それが気に入らなくなってきたのは最近のことだった。

「っち……アイシェ! ……おいこら、アイシェ……!」

 呼んでも、戻ってくる足音は聞こえないままだ。聞き留めれば必ず戻ってくる相手だから、声の届かない距離にいるのだろう。なにがあるか分からないから、離れるな、と言ってあったのに。つくづく王の言うことを聞かない、思う通りにならない女である。まったく、と息を吐き適当に服を整えて、王は一晩眠った女の部屋を出た。

 朝日がまばゆいほど差し込み輝くハレムは、耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。誰の声も気配もしない。普段なら感じる、さわさわとした優しいざわめきは失われたままだった。全ては眠りに沈んでいる。砂漠の城を突如として襲った魔力そのものが、人々の意識を失わせてしまった。残ったのは砂漠の王と、アイシェだけである。

 なぜハレムの女たったひとりが魔力の影響を免れたのか、その理由から王はまだ目をそらしていた。その感情が母を死なせた。首を吊らせて死に追いやったのだ。それが、ハレムの女を殺すのだ。恋なんてものはしたくない、と思っていた。今は死んでほしくない、と思っている。アイシェに。王は静まり返ったハレムをなんの導きなく歩きながら、額に手を押し当てて深く息を吐いた。

 分かっている。これはもう認めるべきことなのだ。結果は、なぜかハレムの中でもアイシェだけが被害を免れ、今も起きてひとり出歩いていることからも明白だった。アイシェは王に連なるものとして認められ、それ故に王家と同じく守護を得た。そうしたいと思って一度だけ告げていた。お前は俺の黄金のひかりだと。

 なぁに、とアイシェははにかんで笑ったが、意味を告げることはしなかった。その言葉は、愛の誓いに一番よく似ている。リトリアも例のふたりに対して、その聖なる言葉を告げていた。魔術師であるリトリアは、すでに王家から抜けたと世界から見做されているが故に、そこまでの効力はなかっただろう。ただ思いを告げる言葉にしかならなかっただろう。

 そもそもフィオーレに魔術をかけられたり、シークになにかされた形跡がある時点で、少女の身から世界の守護が消えているのが分かる。言葉は、誓い。守護の譲渡、あるいは祝福を与えるものだ。白雪ならばそれは『折れぬ剣』と告げられる。魂の片割れを認め、言祝ぐような言葉を、王はアイシェに告げていた。殆ど衝動的なものだったから、無効かと思っていたのだが。

 それは確かにアイシェを守り抜いた。つまりは認められたのだ。王が己の心から目を逸らしたままであろうと関係なく、世界はすでに指し示している。その存在こそお前のひかり、お前の希望。愛するもの。魂の片割れであるとする程、求めた者。立ち止まって、朝日の眩しさに目を細めるついで、王は改めて深々と息を吐き出した。

 百歩譲って好きだのなんだの恋しいだの愛しいだのは認めてやらんこともないが、問題はアイシェ本人がいまひとつ王を恋しがらず、大切にせず、言うことを聞かず、今だって放置して勝手に出歩いたりしていることである。ハレムの女たちは、王の恋嫌いを知り尽くしている。だからこそ、職業的な気質を持ったものが多いのも確かなのだが。面白くない。

 俺が好きなんだからすこしくらい靡いたり恋に落ちたりしろよなんで俺だけ、と思春期の少年のようなぼやきを落として、王はのたのたとハレムを移動した。目指していたのはアイシェに下賜した庭の一角である。植物園とちいさな菜園を兼ねる場所はアイシェのお気に入りで、部屋に居なければ十中八九がそこであるから迷いなどしなかった。果たして、アイシェはそこにいた。

 なにをしているのかと距離を置いたまま見ていると、どうも水やりと草むしりをしている。朝から。王を寝台に置き去りにして。水やりと草むしり。アイシェやっぱり俺のこともっと大事にすべきだろなんで王と庭を天秤にかけて草むしりを取るんだよなんでだよ、と遠い目をしていると、ふっとアイシェが顔を上げた。うつくしい女だった。

 王がなにより気に入っているのはうっすらと潤む勝ち気な菫色の瞳だ。なぜか睨みつけられることが多いが、視線を逸らさないでいる所が好ましいと思う。投げやりかつ正直な気持ちになると、いいからもっと嬉しそうにしたり恥じらったりしろよお前ハレムの女だろつまり俺の女だろ、とは、思うのだが。

 とりあえず、珍しくも本当に驚いた様子で目を見開く顔が見られたので、今朝はそれでいいことにしてやった。王を放置して草むしりを選んだことに対しては許してなどいないのだが。

「シア! どうしたの……? あなた、いつもならまだ眠っているじゃない? ……早起き?」

「……お前まさか、普段から俺を放置して水やりだの草むしりやらに出てないだろうな?」

「だってあなた、声をかけても眠ってるじゃない。時々返事はなさるけど、覚えていらっしゃらないようだし……なぁに、そんな顔をして。私なら大丈夫よ、シア。今日も元気でいるわ。……なぜだか分からないのだけど」

 それが起きた瞬間、王は城の執務室にいた。前触れはなかったように思う。いきなり、ただ魔力がばら撒かれた。視認が叶ったのなら、雷鳴すら感じるような豪雨めいた乱暴さであったと思っただろう。しかし、一瞬の意識の空白が全てだった。人々が倒れる鈍く重たい音が連続して響く。呻く声のひとつもなく。取り落とされた物が壊れる音が、どこからも、細く長く聞こえてきていた。

 先日のリトリアの魔力暴走と同じ光景ではあった。しかし無垢な産声であったものに対し、それはあまりに悪意があった。結果として、ではなく。人々の意識を刈り取るために成されたことだった。リトリアの時は原因も理由も大体分かっていたから慌てなどしなかったのだが、王はその時はじめて、その存在の無事を確認したいと思い、ハレムへ駆けていた。

 アイシェは倒れ伏す女たちの傍らにいた。恐らくは傍にいた数人を、なんとか怪我をしないように引きずって集めたのだろう。ぐしゃぐしゃに広げられた、季節外れの派手な柄の絨毯の隅で、アイシェはひとりの女の手を握って俯いていた。泣いてはいなかった。呆然としながらもアイシェの瞳は強い意志を輝かせ、なにが起きたのかよりも必死に、なにができるかを考えていた。

 アイシェ、と名を呼べば女は目を見開いて一目散に掛けてきて、王へ縋るより早く、その両手で頬を包み込んで問いかけた。怪我は。息が詰まるような声だった。他のなによりもそれが、気がかりでならないのだと女の全身が告げていた。触れる熱に、伝わる鼓動に。ようやく涙を思い出したかのようにゆるみはじめる瞳がいとしくて、大丈夫だ、と言って強く抱きしめた。

 それから簡単な事情だけを説明して、他国に繋がる連絡手段が断ち切られていることまで確認して、ならばもうどうしようもないと諦め、諸々が復帰するまで共にあることに、した筈なのだが。ぶすぅっ、とする王が、どうもひとり寝台に置いていかれたことこそに機嫌を損ねている、と気がついたらしい。

 アイシェはくすくす笑って、もう、と土に汚れた指さきで王に触れかけ、慌てて引っ込めた。

「寂しかったの? ……もう、こどもみたい」

「あのな。危ないから離れるなとも言っておいた筈だろう?」

「ごめんなさい。どうしても朝のうちに済ませてしまいたかったのよ……。まさか陛下に庭仕事にお付き合い頂くわけにも参りませんし。見ているのだってつまらないでしょう?」

 そんなことはない、と否定しようとして、王は言葉に詰まった。くるくるとよく動き回るアイシェの姿はまぶしく、穏やかな気持ちさえ抱けるというのに。つまり、と唐突に王は気がついた。つまりこの女は、王の思慕を欠片すら理解していないのだ。世界の守護が承認されるほど、いとしさがもうあるというのに。

 手を洗ってくるわね、と離れていこうとするアイシェの腕を掴み、王は眉を寄せてその顔を覗き込んだ。

「あのな、アイシェ」

「ちょっと待ってったら。汚れてしまうわ。……あら?」

「聞いてからにしろ。……あのな、アイシェ。俺は、お前を……愛して、おいこらアイシェせめて視線をあわせろどこ見てんだお前は」

 アイシェはなにやら、王の背後あたりを覗き込んでいた。王がいままさに想いを告げようというのに、なぜこんな態度を取られなければいけないのか。いい加減にしないと部屋に連れ込んで一歩も外に出さないで愛でるぞ分かってんのか、とうんざりする王に、アイシェはだって、と困り眉で王の背後をそっと指差した。

「あの……だって、陛下、あれ……」

「あぁ?」

 なんだよと不機嫌な顔で振り返るより早く。やぁああぁあんっ、と蜂蜜の如きとろけた聞き覚えのある甘い声が、しんと静まり返るハレムに、ほよふよと響いていく。

「目隠しやんやん! だめぇだめぇ! りぼんちゃあああぁあいまいちばんいいところですううぅう! らぶろまんす! こっこれはらぶろまんすですぅロゼアちゃんめろめろだいさくせんのさんこーにするですううやややんやゃやん!」

「……なにしてんだお前は」

「あっ! たいへんです! みつかちゃたです!」

 いつの間にそこにいたのか、廊下からぴょこりと顔を出していたソキが、ひとりでもちゃもちゃとなにか抵抗らしきことをしていた。発言からするに、案内妖精も一緒なのだろう。数秒考えてから、もう告白する気がくじけたので、王はアイシェに手を洗ってきてもいいと言い渡し、ソキに歩み寄った。

 妖精との攻防が一段落したのか、はたまた叱られている最中なのか、ぷっと頬を膨らませて座り込んでいるソキに両手を伸ばす。真偽確認の為である。ソキは伸びてくる両手をまじまじと見つめていたが、それが己を抱き上げようとしていると悟るやいなや、ふぎゃああぁああぁあんっ、と不機嫌この上ない叫びをあげて、じだじたぱたたと両手両足をばたつかせて抵抗した。

「ソキのー! 抱っこはー! しちゃだめええええぇええいやんいゃんいややややん! ろぜあちゃー! ろぜあちゃあぁああん! いゃんいやいやご無体なですううううう!」

「……本物だな、これは」

アイシェが大慌てで駆け戻り、シアなにしてるの、と叱られるまで、王はぴぎゃあああやぁああんですうううう、と泣き叫ぶソキを、耳を手で塞ぎながら見下ろしていた。



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