あなたが赤い糸:100

 あの子が嫁いで行った日の鐘を、俺はこの国の端で聞いたよ、とジェイドは言った。それから瞬く間に駆け抜けて行った年が、息子の年齢を意識して数えさせるだけの感傷を奪い去って。そして、ある日突然、ジェイドは新王に告げられた。君の息子はもう『お屋敷』にいない。どうか幸せにと言祝いで見送ったよ、と。その無垢な喪失感は、今も言葉に表せない。

 忘れていた訳ではない。ただ、毎日ずっと、意識していなかったのは本当のことだった。永遠にそこに居てくれる筈がないことは分かっていた。けれどもほんとうに手の届かない場所へ、行ってしまう日のことを、考えたことはなかった。幼子から少年へ成長していた愛し子の様子を、詳細に聞くことはできなかった。聞いても想像できなかっただろう。あの時、あの日の別れで、記憶は止まっていた。

 しあわせを祈った。新王がそう送り出し、リディオが選定したのであれば、それは疑うこともなく信じられることだった。有事に備えて、『お屋敷』は外部勤務者を諸国に送り込んでいる。彼らが目となり耳となり、集めた情報は砂漠を巡る血液や風のごとく、偽りなく、『お屋敷』へ、リディオの元へ届けられると知っていた。なにか事故があれば、偽りがあれば。『お屋敷』はそれを許さないでいることを知っていた。

 そのことをずっと、信じていた。

「……最優先されるのは、『花嫁』『花婿』の幸福。嫁いで行く方々を祝う鐘を聞くたびに、祖父のことを考えた……。『傍付き』としてはもちろん、複雑……複雑なんていう言葉では言い表せないものがあるけど、俺は……その先で、幸福に咲いてくれることを知っていた。なにせ、その末が俺だからね。満たされて、笑って、しあわせで……だから、まさか……まさか、あんな」

 どろりとした、煮詰まった感情が吐き出される。それは憎悪だろうか。それとも他に名前のつくものなのだろうか。知らず、分からず、妖精は息をつめてジェイドから後ずさるように距離を取った。穏やかに、愛しく、優しく柔らかく過去を吐き出した男は、それでも微笑みを浮かべていた。月を弔い、星を失った、ひかりなき暗闇の瞳が、けぶる魔力を滲ませている。

「あんな扱いをされていただなんて、知っていて……どうして……」

『……あんな扱い、というのは?』

 妖精の腕を掴んで己の背へ押し込めながら、鉱石妖精が静かな声で問いかける。畏怖で会話を途絶えさせてしまうことはできなかった。綴られたのはこの国と、この男がどう生きて来たかということであり、未だ妖精たちが抱いた疑問の答えには辿りついていないからだった。この男が本当に、ソキに害を成さないのか、という妖精の不安も。何故あの場に侵入していたのか、という疑問も。

 それ程に献身的に国に尽くしていた魔術師が、隔離されるその訳も。それ程に愛していた人々を十五人選んで、復讐の為に殺害を要求する心情も。辿りつかない。理解ができない。情報が足りない。震える息を飲み込んで。答えを待つ妖精たちに、ジェイドは視線をすい、と空に動かして囁いた。

「あの子はたぶん、自分が誰に嫁いだのかすら知らない」

『……なぜ?』

「調査報告書によると」

 じりじりと燃えていく導火線をもみ消すように、言葉を引き継いだのはシークだった。すこし休憩しなよとジェイドに冷えた水を差しだして無理に口をつけさせながら。心を壊しかけていた、とはとても思えない陽気さで、言葉魔術師はよどみなく告げる。

「まあ、扱いが美術品だったんだよね。彼は自分が『暮らしていた』場所を、『迷宮じみた美術館』だと言い表したし、身体的な世話は彼の意識がない時に行われることが殆どだった。時々は『展示』されたとも聞いている。本人の証言と、『お屋敷』に回された記録でかなり正確な所まで分かっている。薬で意識と身体的な自由を奪い、うつくしく飾り立てられ、彼はただしく、言葉通りに『展示』された。日々はその為のものであり、そこに彼の意思……感情なんてものは、必要なかったのさ。先方としてはね」

 あんまり想像しない方がいいよ、と言葉魔術師は告げた。あえて同情を乗せないさっぱりとした響きであってさえ、じわじわと意味が染み込んで行くにつれ、現実感のない言葉に妖精たちの羽根がぞわぞわと落ち着きのない気持ちで満ちていく。それは、人に対してしていいことではない。それは物の扱いだ。そんなことが許されていい筈がない。

「誰に会うこともなく、誰と言葉を交わすこともなく。だいたい、四年。千四百六十日。時間の流れすら曖昧になる孤独の中で、彼は生き続けた。……よく……よくぞ、死なずに……いてくれたと、僕ですら、そう思ったよ」

「そして、『お屋敷』はそのことを知っていた」

 ジェイドの目は、もう室内に存在する誰のことも見てはいなかった。窓の向こう。『お屋敷』の尖塔を見つめている。

「知っていて、なにもしなかった。助けることも、咎めることも」

『それがあなたの、許せないことですか? 誰かの命を以て償えと要求する程に?』

 突き放すように問われた鉱石妖精からの言葉に、ジェイドはしばらく声を返さなかった。肯定も、否定も、しにくいような沈黙。やがて口を開いたジェイドは、すこし困っているように眉を寄せていた。

「約束を反故にされたことについて、許せない、と思っているよ」

『そうですか。……それは、僕の質問に対する回答ではないのでは?』

 親としての怒り、『傍付き』としての怒り。それは正当なものだと理解はできます、と鉱石妖精は告げた。ただし、ジェイドが魔術師でさえなかったのなら、だ。魔術師は『学園』を卒業するまでに、ある程度研磨され整えられる。それは世界に対する反逆の意思を持たぬように、であり、五王に対する反抗の意思を潰すものであり。人々に対する加害意識を塗りつぶす為のものである。

 ジェイドの要求は、これに真っ向から反するものだ。そうであるからこそ、危険、として、異分子として隔離されているのだろう。魔術師としてそんな意思など、持てる筈がないのだ。訝しげな、空恐ろしさすら感じている鉱石妖精からの問いに、ジェイドは目を伏せ、肩を震わせて静かに笑った。嘲笑っていた。

「不思議なことじゃないよ、これは別に。……そもそも意識的に、魔術師であった時期の方が短いし」

「意識を完全に分割するのに長けてるんだよね、うちの筆頭と来たら。困ったことに。やってることは完璧な公私混同に近いのに、混同どころか混ざり合いすらしない。若干病気にすら近いよね、彼の精神構造と来たらさ」

「シーク。自分を棚上げするのはどうかと思う」

「今はボクの話をしてるんじゃないんですぅー。君の話をしてるんですぅー」

 過去にあれだけのことがあって現状がこれならば、二人纏めて相当におかしい、ということだけを鉱石妖精は理解した。そして、求める答えを得るには極めて時間がかかりそうだ、ということと。恐らくジェイドはまだなにかを隠していて、それを表に出す気がないのだ、ということも。時間の無駄だったような気がします、と息を吐き、鉱石妖精は羽根をゆっくりと動かした。

『許せないから、復讐したい。では、先日『お屋敷』にいた理由は? 本当に墓参りだとでもいうつもりですか? 奥様はそこにいらっしゃるのに?』

「『傍付き』として、『花嫁』の墓を訪ねて慈しむのは、そんなに疑問と思われなければいけない? ……そうだね。他にいくつか、調べたいことがあったのも認めるよ」

『ねえ……ねえ、もう、いい。もう、いいわ。分かった……』

 このひとは、誰かに。誰にも。本当には分からせようとしていない、ということが、分かった。言葉は真実を届けているようで、欠片だけが差し出されていて、迷宮に導かれていくように正解には辿りつけない。煙に巻かれるようだ、と思う。妖精はその意思の強さに身震いするよう、息を詰めながら首を横に振った。

『でも、これだけはどうか、教えて……。わたしには、どうしても……どうしても、そうは思えないの。だから、答えて』

「……どうぞ?」

『あなたは、たぶん……ソキに危害を加えるつもりは、ない。そうよね?』

 そうだよ、と穏やかにジェイドは肯定した。ミードの娘であり、新たなる同胞でもある幼子は、慈しまれるべき存在だ。なにをするつもりもないよ、と続けられる言葉に、けれど妖精は震えながら羽根に力を込めた。

『では……あなたが求める十五人の中に、ソキが懇意にしている誰かが、いたら、どうするの?』

「……いないと思うよ」

『いいえ。決めつけてもいい。いても、あなたは、おなじことを言う。……あなたに、直に、ソキを害する気持ちはない。それは真実でしょう。信じましょう。でも……でも、その結果として、あの子が深く傷つかないと、あなたにさえ断言ができないのなら』

 あなたの復讐を、わたしは許してあげることができない。静かな口調で、花妖精は言い切った。あなたは必ず、わたしの愛しい導きの子を傷つける。許すわけにはいかない。警戒も露わな妖精のまなざしに、ジェイドは微笑むように息を零した。

「ヴェルタは、俺に、怒っていいよって言ってくれた」

『……え』

「ウィッシュを迎えに行った案内妖精は、ヴェルタなんだ。俺の案内妖精だった。……何度も、何度も助けてくれた俺の妖精が、俺の息子を助けてくれたんだよ」

 新入生が、五王たちに対して披露される夜。人と同じ大きさに成ったその妖精は、蒼褪めるジェイドを捕まえてそう言った。ただ連れて逃げることしかできなかった。全部捨てて行こう、この場所にはもう戻らなくていいんだ、と。歩くことさえできなくなっていた『花婿』を、『学園』まで導いた妖精が告げた。助けを呼んでしまった。そんなことすべきではなかったのに、と。

 後悔に塗れた瞳で、妖精がジェイドに血を吐くように告げた。

「『あの子は怒れない。怒るより早く、俺が助けを求めてしまったから、そうすることさえ出来なくなってしまった。だから、ジェイドが怒ってやって、あの子の分まで、あの子より先に。あの子が間違えてしまうより早く』って。……うん、俺もそう思う」

 そういうことなので、正統なる復讐として十五人の引き渡しを要求しています、と笑顔でしめてしまったジェイドに。やはり、説明をする気はないのだ、と妖精たちは息を吐き出した。

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