あなたが赤い糸:97



 次から次へと、問題ばかりが起こって行く。ジェイドは真昼の陽光満ち溢れた廊下のただ中で、一人ひっそりと頭を抱えて溜息をついた。彼方からは人々がひっきりなしに走り回る足音と、情報を交換し合う声が響いていて大変に騒がしい。しかしこれを、新王は和やかな笑顔で三日ぶり、今月に入って五回目だと述べた。今日はまだ、月が始まって十日も経っていない。日常、ということであるらしかった。

 王子が失踪したのである。医師と世話役の目をかいくぐった、かくも鮮やかな逃亡であるのだという。魔術の影響を受けない身の上であるからこそ、魔術師の探知は働かない。できるのはせいぜい、傍に居る世話役たちに、王子が手の届く範囲にいなくなれば気が付く程度の祝福を与える程度のことであって、改善や防止に尽くす手を持ち合わせてはいないのだった。

 ひとりになりたい、と言うのだという。誰にも傍にいて欲しくはないのだと言う。高貴な身の上であり、この国に残された唯一の正統なる後継ぎでさえなければ、聞ける望みではあるのだけれど、と新王は穏やかな笑みで溜息をついた。監視の目を外すことはできない。身を守る護衛を遠ざける訳にはいかない。これ以上の事件も事故も、許す訳にはいかないのだと。

 言い聞かせられた結果が、絶え間なく繰り返される逃亡劇であるのだという。市井に出向く様子はなく、城の中のどこかにはいる。それは書庫室の隅のくらやみであったり、中庭の日当たりの良い長椅子の上であったり、使われていない貴賓室のクローゼットの中であったりと、その日によって実に様々だった。猫が寝転んでいそうな所を探せばいる確率は高い、と誰かが彼方で叫んでいる。

 夜には必ず戻ってくるのだという。己を守る輪の中に。拗ねたような、申し訳なさそうな顔をして戻ってきて、次の日にはまたいなくなる。その繰り返し。それを聞いたジェイドは訝しむ顔をしながら、よく一人で出歩けますねと感心しきった声で零したが、新王は微笑んでそっと額に手をあて、身体能力の基準を『お屋敷』の宝石と一緒にするのは辞めなさい、と魔術師を穏やかに叱りつけた。

 いえだってまだ五歳くらいですよね、と真顔で問いかけたジェイドに、新王は笑みを深めて同じ言葉を繰り返した。『お屋敷』の宝石と一緒にするのは辞めなさい。困惑するジェイドに魔術師のひとりがそっと育児書を差し出して読もうね、と言い、新王の前から連れ出したのは先程のことだった。読みながら探すといいよ、と告げて別れた廊下は、振り返ればまだそこにある。

「……すくすく子育て五歳児編」

 新王の勅命により、城内の護衛騎士と魔術師には全員熟読が義務づけられている、とのことである。ジェイドの手に渡っていなかったのは二年よりつかなかった為であり、主に外部勤務である為だろう。しばらくは城にいるんだから、と言い含められたジェイドは、シークが落ち着くまで、という期限付きで巡礼の出発を延期させられていた。

 シークは、あまり話をしなくなった。必要であれば、ぽつりぽつりと単語めいた言葉を口にするだけで、自ら会話を始めようとすることは殆どない。言葉魔術師は、己の声によって世界に魔術を解き放つ。一時は本当におかしくなりかけて、己の手で喉を潰そうともしたのだという。今は落ち着いた。しない、と制約もしたと聞く。だが、それだけだった。視線は俯き、くらやみの中にいる。

 部屋に閉じこもり切りになることはなく。よく出歩くのが幸いである、と誰もがジェイドに耳打ちをした。今日も王子失踪の第一報から、ちょこまかと城を捜し歩いては、いない、そこは探し終えた、また見に行く、と言葉をぽつぽつ落として、一人さ迷い歩いている。魔術師も、騎士たちも、新王も、今はそれをただ、見守っている。祈っている。

 立ち止まれば楽になれるだろう。息を止めれば楽になれるだろう。それを幾度も目にして、なお、息をして歩いていることをなんと告げよう。差し伸べる手は拒絶される。言葉は響くだけで届かない。行く先がどこなのか、なんの為に先へ進むのかすら分からないまま。一人で立ち続ける勇気に、報えるものはあるのだろうか。

 考えてしまうジェイドの前に、ふわん、とシュニーが現れる。シュニーは強張ったジェイドの頬にまふまふもふもふ触れるようにすり寄ったあと、肩の上にぴょんっ、と乗ってちかちかぺかかと明滅した。ふ、と思わず笑みが零れる。肩から落ちないように手を添えて、囁くように問いかける。

「そうだね。……一緒に探そうね、シュニー」

 わかっているのならいいのーっ、とばかり、ふんわり光ったシュニーがふよふよ左右に揺れ動く。共に歩いて行ける幸福の眩さに笑いながら、ジェイドは本を片手に探索を開始した。王子が見つかった、と報が飛び交ったのは昼前のこと。見つけたのはシークとのことだった。




 ぶっすうううう、と不機嫌な顔をしている王子の昼食に、手が付けられた気配はないままだった。監視と護衛を兼ねて同席しているシークは完全に放置していて、隣に座ってこそいるものの、脚を組みあくびしてそれを完全に放置している。世話役たちはふたりをはらはらと見守るだけで、手出しも声をかけることもできないでいるようだった。

 どうしてこうなっているんだろう、と思いながら、ジェイドは背を突き飛ばされたままの恰好で、戸口でぎこちない笑みを浮かべる。そうだ生贄あっ間違えた救世主救世主、やだなー俺たちちゃんと最初から救世主って言ったって気のせいだって聞き間違え、ジェイドお前育児得意だろっ、なっ、と同僚たちに左右から腕を掴まれ、連行された末の出来事である。

 新王は爆笑していた。腹を抱えて笑いながら見送ってくれた。もぅーっ、これはもしかしてぇ、皆でジェイドをいじめてるのかしらっ、ゆゆしきことなのかしらーっ、と警戒も露わにふくふくまぁるくなるシュニーを頭の上に乗せたまま、魔術師はぎこちなく立ちなおし、とりあえず、室内に一歩を踏み入れた。

「……シーク?」

 ちらり、と視線が向けられる。なに、と言わんばかりにゆるりと目を細められ、ジェイドは苦笑しながら問いかけた。

「これは……なにをしてるの、かな?」

「護衛。監視。昼食の世話」

 それ以上でもそれ以下でもなく、感情がない、といった受け答えである。ぷいっとばかりに昼食から顔を背けた王子に歩み寄り、ジェイドは膝を折り、柔らかく微笑みながら顔を覗き込んで告げた。

「こんにちは、王子。……はじめまして、私は」

「ジェイド、だろ」

 知ってる、と。言葉を遮ってジェイドを呼ぶ幼子に、魔術師は自然と敬意をもって一礼した。砂漠の国そのもののような、未だ幼き王だった。煮詰めた飴色の肌に、星々が絢爛に歌う夜の髪、暗闇を切り裂いていく朝日の、一瞬の輝きを宿す黄金の瞳。あどけなく、心身の幼い、いずれ我らが忠誠を誓う王になる者であると、魔術師としての本能が強く訴える。

 それでいて、心の片隅で、『傍付き』がそっと息を吐く。王子とウィッシュは、そう変わらない頃に産まれた。どうしているだろう。世話役たちに囲まれて、ミードとラーヴェの元で、笑っていてくれるのだろうか。重ねるように。穏やかに微笑んで動こうとしないジェイドに、幼い王子から問いが向けられる。

「ずっと、いないと聞いていた。……もう、いるのか?」

 いかないで、行っちゃやだ、と服を引っ張って涙ぐんだ、幼い我が子を思い出す。柔らかく、息を吐き出して。ジェイドは心からの想いで、安心させるように囁いた。

「はい、しばらくは」

「そうか」

 ちら、と視線を向けて来たシークが、憂鬱な声でジェイドの名を呼ぶ。立ち上がって向かいかけたその腕に、伸ばされた王子の手が触れて引き留めた。逆らわず。すとん、とその場に腰を下ろして、ジェイドは思わずうっとりと微笑んだ。貴人に求められる、というのは『傍付き』の幸福によく似ている。

「はい。なんでしょうか?」

 シークが思い切り頭を抱え込むのが見えた。なにをしているのか訝しむジェイドに、シークは感情の浮かばない濁った目でゆるゆると首を横に振る。なに、と問うジェイドにシークがなにか答えるより早く、王子はもぞもぞと、居心地が悪そうに身じろぎをしながら言った。

「し……シークは、自分だって好き嫌い、するのに、俺がすると怒るんだ……」

「ああ、そうでしたか。……それで、召し上がられない? 嫌いなものがありましたか?」

 殆ど無意識に、失礼します、と呟いて。ジェイドは幼い主君へ手を伸ばしていた。頬をやんわりと撫でて触れ、脈拍と体温を確かめる。視線を重ねたままで微笑んで、体調が悪くはありませんね、と確認の為にも問いかける。こくん、とあどけない頷きが返されるのに、よかった、と心から告げた。ああぁあ、と呻き声がシークから零れ落ちて行く。

「それでは、嫌いなものを厨房の者に伝えましょう。すこし注意するようにと。……ですが、これも、あなたの為を思って作られた料理です。すこしだけ、一口だけでも、召し上がりましょうね。お腹が空いていませんか? お水は飲まれましたか? 朝からなにか口にされましたか?」

「……食べないと、だめか?」

「あなたが体調を崩されるのは、とても悲しいことです」

 深呼吸を、今すぐして、それから考え直して欲しい、とシークが呻いている。意味が分からないけど、どうしたんだろう、と心配するジェイドに、今君だけには心配とかそういうことをされたくないと言う意思が満ち切った視線が返された。ジェイドの頭の上に乗っかったままのシュニーが、もしやうわきのけはい、とちっかちっか警戒するように明滅していたが、視界から外れているので分かるものではなかった。

 かくして。ぐっと言葉に詰まった様子の王子が、それでも食事に手を伸ばし、パンをひとくち千切って口に入れ、すこし、水を飲んだので。ジェイドは心からの満面の笑みで、偉いですね、と全力で主君を褒め称えた。自ら食事をする意思があるのは素晴らしいことだ。水も飲めるなら、脱水の危険もぐっと下がってくる。食べられるだけ、無理しないでいいですからね、と囁くジェイドに、王子はこくこくと素直に頷いている。

 世話役たちから、ジェイドの言うことなら聞くので教育係にください、と新王に陳述が向けられたのはその日の内のことだった。

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