あなたが赤い糸:96
そう、当番の日でした。様子を見に行く当番の日。魔術師たちが一日交代で行っていた、子守と監視。その当番の日でした。ひさしぶりのことでした。知っての通り、すこし体調を悪くしていたから。よく晴れた天気の良い、それでいて穏やかな日が続いて、ふっと気持ちが浮かび上がるように楽なことが続いていた。だから、気晴らしにもなるし、と、当番に戻してもらった。その日のことでした。
気持ちが悪くなったらすぐに戻ってこい、交代する、無理しないこと、いってらっしゃい、様子を教えてね、なんて、皆の言葉に送られて、ハレムの門をくぐりました。そう、ひとりで。あの日から、しんと静まり返るばかりのハレムに行きました。もっと人のいる、あたたかい場所に居ればと、今でもその時も何度も思いました。そうすれば、もしかしたら。可能性に後悔しました。
あの日から。先王が失われたあの日から、筆頭と補佐が失われたあの日から、陛下が戴冠されたあの日から、ジェイドが城を出て行った、あの日から。あの日から、あの日々から、ずっと、寵妃さまはハレムの部屋から出てきませんでした。知っての通り。先王と最後の日々を過ごしたあの部屋におられました。王子を連れて。ふたりきり。本を読んだり、歌ったり、まどろんだり。穏やかな日々でした。見かけだけは。
おかしくなってしまわれた。寵妃さまは、まるで幼い少女でした。おんなのこ。無垢であどけない。母として幼子の面倒を見ているというより、おんなのこがただ、一緒に遊んでいる。そういう印象を受けました。事実、そうだったでしょう。医師は寵妃さまを、このままだ、と言いました。元に戻ることはないだろう、と。元、とは、どこだっただろう、と思います。この方の元というのは、どこにあったのかと、思います。
陛下が、いえ、前王がまだお優しかった頃でしょうか。おふたりが、仲睦まじかった頃でしょうか。前王が何処から連れて来た方だ、というのは知っています。ここへ来る前に、居た場所でのことでしょうか。元に。元に戻らない。それはたぶん、あの方に残された最後のしあわせだった。忘れてしまったか、壊れてしまったのかは、分からないことでしたが。でもそれはきっと、しあわせだった。
大切に思っていた、と病床で囁かれた声を覚えています。筆頭と補佐が失われたあの日の、覚える限り最後の、寵妃さまであったお声で。あの方は言いました。激しい恋ではなかった、返しきれない程の恩があった、大切に思っていた、それは全てほんとうのこと。いとしくは思えなかった。でも、ただ、穏やかに、そっと幸福を祈るだけの気持ちであっても。情は、あったのだと。
苦しんで、苦しんで、泣いていました。だからもう、穏やかであるなら、それをしあわせとしてもいいのではないかと。そういう風に思いました。魔術師はきっと誰もが、そうだった。だから、自ら幽閉されるような生活を続けるあのひとを、蘇り行く場所に連れて行くことができなかった。きっと眩しいだろうと思ったから。その眩しさに連れ出すことができなかった。
ハレムの庭園は荒れていました。元はうつくしい花園であったと分かるから、ただ、無残でした。ハレムに人の気配はありませんでした。残った女たちの殆どが、居を城の一角へ移していたから。新王がそれを許しました。女たちはこれからの為に必要でした。過ちを見続けた者が。十年、二十年。この国が蘇った先の、先の為に。生きてそこに居てもらうことこそが必要でした。
寵妃さまはもう、生きていてさえくだされば、それでよかった。健康に問題はなく、受け答えもできました。こちらが言うことを理解して、普通に生活するだけのことは、できていました。だから、通いの世話人の少女がひとり、そして、魔術師がひとり。朝に夕に様子を見に行き、時には同じ部屋で時を過ごす。穏やかに。その日々だけが繰り返されていました。その日もそうなる筈でした。
誰もいない廊下を部屋に向かって歩いていると、泣き声が聞こえました。世話人の少女の声でした。胸騒ぎがしたのを覚えています。ハーディラは、僕が走って来たと言いました。走って、それで、戸口で息を零したのだと。どうして、とも問わずに。ああ、と言葉を零してそれきり、ずっと長く、それを見つめていたのだと。部屋にいた、幼い王子と同じように。
寵妃さまは、部屋で首を吊っていました。幼い王子は寝台で座り込んで、ただそれを見ていたのだと言います。昨夜も共に眠ったであろうに。目を覚ましたら、そうなっていた。その光景を。瞬きもせず見ていた。魔術を使ったのはそのせいです。ハーディラと、王子に向かって。人の記憶が上書きできることなんて、もう分かっていた。してはいけないことです。分かっています。でも。
あんな光景をいつまでも覚えていることが、許されて良い訳がない。そのあとは知っての通りです。ハーディラは昏倒し、魔力の流れを感じた魔術師たちが新王へ報告し、警備の者たちと駆け付けて。取り乱した僕と、王であるが故に、幼くとも真実の王冠を頭上に抱く者であるが故に、決して魔術の影響を受けない王子を保護してくださった。
許してください。助けられなかった。寵妃さまも、前王陛下も、筆頭も、補佐も、誰も、誰も。許してください。あれを忘れさせることさえ叶わなかった。許してください、違う、違う、ちがう。許さないでください。誰か、お願いだから、僕のことを許さないで。許さないでいて。誰のことも助けられない。誰のことも。誰のことだって。
助けたかったのに。
許さないで。
違う。
誰か。
誰か、誰か。
許して。
誰か。
許して。
許して。
許さないで。
許して。
赦して。
ジェイドが呼吸を思い出すのには、震えが収まるまで待たなければいけなかった。光景としては、恐らく、ひどく短いものだった。人気のないハレムをゆっくりと歩き、泣き声をきっかけに走り出す。風景はやけに鮮明だった。荒地に茂る緑の草の間に、枯れて色褪せた赤い花があった。うっすらと埃の積もった廊下。くすんだ色で照らし出す灯篭。知っている筈の、見知らぬ風景。
なまぬるい砂色の朝日。光と影がくっきりと別れた階段を駆け上る。辿りついた部屋で、寵妃が着ていた服には覚えがあった。いつかジェイドに、己の子の行方を聞いた日に着ていた服だった。手足は垂れ下がり、表情は見えなかった。シークは命を失ったそれの、うつくしい赤に塗られた爪の色だけを鮮明に記憶していた。
全ての光景に付随する感情が、ジェイドの胸の奥までを焼いた。息を吸い込むことが苦しくなる。吐き出すことも、難しい。口元に強く手を押し当てゆっくり息をするジェイドを、新王は黙して見つめていた。そんな反応を、見慣れているようだった。魔術師は誰もがそうなったのだろう。記憶された短い光景に比べて、焼き付く感情があまりに強すぎた。
誰が。その感情を知って誰が、シークを責めることができただろう。なにが罪だというのだろう。誰が罪を犯してしまったのだろう。どこで間違えてしまったのだろう。
「……事情があって、嫁がせるのを急がせていたのは事実です」
ため息交じりに青年が告げる。その理由については告げはしない、と向ける視線で語りながら。それでも、と心苦しく、青年の感情が揺れるのをジェイドは見ていた。
「今回の……年若い『花嫁』の婚儀の理由は、ただ、この為です。死を塗りつぶす必要があった。他に適切な手段がなかった。私が『お屋敷』に拒否させぬ強さで命じました。即座に、今日にでも明日にでも、と……おかげで随分恨まれましたが」
あなたまでは届かなかった、と。てのひらにようやく残った黄金を、握りしめるような声で。それを、確かに幸福だと物語るやさしい声で。青年は囁くように告げた。その死が国を覆ってしまうことはなかったのだと。
「……なにが、起きているのか……分からない、という目の『花嫁』を嫁がせた。私は、それを、一生忘れないでいます」
その『花嫁』の『傍付き』は、王の命を狙った罪で即日処分された。『花嫁』の名を叫んで挑みかかって来た『傍付き』の少女を、泣きながら短剣で貫いたのは少年だった。『傍付き』の補佐であったのだという。少年は『花嫁』の名を呼び、少女の名を呼び、王の目の前で自害した。それを、王と、護衛の魔術師と、駆け付けた『お屋敷』の若き当主が見ていた。
当主の命で、その『花嫁』の世話役たちは全員解雇されたのだという。行末は、ようとして知れない。
「『お屋敷』と、御当主が落ち着かれるまで、しばらくは、誰のことも嫁がせはしません。安心してください、というのも……意味のない話でしょうね。あなたには、『傍付き』の心が分かる筈だ……」
「……考えられない、ことです」
「ええ、そうでしょう。……そうでしょうね」
立ち上がり、肩を叩いてから、青年はジェイドとシークを残して資料保管庫を後にした。その背を追わねばと思いながらも、椅子から立ち上がることができなかった。瞬きと、呼吸だけをしている。つめたさが手に触れた。シークの手が、ジェイドに伸ばされ、触れていた。触れるだけで、握ってはいない。それでも、離れようとはしていなかった。視線は落とされたままだった。表情は見えなかった。
目を閉じる。くらやみの中で、息だけをしている。
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