あなたが赤い糸:82


 日当たりの良い『お屋敷』の庭は穏やかだった。前日まで雨が降っていたせいで空気はきよらかに、どこかきんと冷えている。土は、座り込んでも手で払えば服が汚れない程度で湿ってはおらず、ジェイドは全身に陽光を浴びながら、のんびりとあくびをした。一ヶ月、国中を巡って、戻って。数日の休みを得る。その日々の繰り返しで月日が過ぎていく。

 昨夜の遅くに『お屋敷』に戻ってきたジェイドに、リディオは明日から一週間はお休みだよ、と囁いた。当主命令かつ王代行の許可つき、という根回ししきった、どうあがいてもジェイドが逆らえない書状を携えて。どうしていつも完全に逃げられないように予定を組むんですかとため息をつけば、リディオはあどけなく首を傾げて逃げないようにと囁いた。

 なにを聞いているのか、と純粋に不思議がる目をしていた。この場所から逃げたことがない、訳ではないので押し黙るジェイドに、リディオはくすくすと笑ってゆっくりしていればいいさ、と告げた。時間がかかってしまったけど。そういうことを言ってくるくらいに落ち着いたのなら、ただ普通の休みのようにも過ごせるだろう。

 中庭は人の気配と、穏やかなざわめきに満ちていた。どこか遠慮がちな、遠巻きにする視線が向けられるが、それはいつものことである。気にしないであくびをするジェイドに、そういう所だけは図太くなって、と傍らでラーヴェが苦笑する。ラーヴェの腕の中には定位置だと決めきった顔をしてミードが納まり、レロクとウィッシュを抱いていた。

 いい天気だねぇ気持ちいいねえ嬉しいね、ときゃっきゃとはしゃいだ声を上げるミードに、ジェイドは落ち着いた気持ちで頷いた。『花嫁』が誤って赤子をころんと落としてしまわないよう、ラーヴェが時折座りなおさせたり、腕で引き寄せて抱きなおしたりと微調整を繰り返す。それを眠たいような気持ちで眺めながら、ふ、と視線をあげた。

 漂うと進むの中間くらいのとろとろとした動きで、ましろいひかりがジェイド目指して戻ってくる。いやぁああいやぁあああんっ、と泣き声が聞こえてきそうながびがびした明滅に、ジェイドは苦笑しながら指先を伸ばした。ひょい、と追いかけてきた蝶を捕らえれば、ましろいひかりはぷっくぷっくと膨張し、拗ねた軌跡でジェイドの肩に着地した。

 まったくひどいめにあったのっ、とばかりふるふる震えてぺかーっと輝くましろいひかりは、どうも機嫌が悪いらしい。言葉はなく、感情も伝わらず。動きや明滅でしかその想いを読み取る術はないのだが、まあ大体合っているに違いない。蝶を開放してやると、翅をゆらめかせ一目散に飛び去っていく。見送る視線の先には青空が広がっていた。

 かなしい気持ちを穏やかに包み込んでくれる。そういう気持ちになる、晴れた空だった。ふっくふっく、普段より大きく膨らむましろいひかりを指で撫で宥めていると、傍らのラーヴェから、これみよがしにため息をつかれる。

「ジェイド。……遊んでないで集中おしよ」

「そんなこと言われても……。いや、別に遊んでる訳でもなくて……」

「ジェイドくん? どうしたの? お膝がさびしいの?」

 それじゃあやっぱり、ウィッシュくんはパパのお膝にしましょうねぇ、と心もちガッカリした声を響かせて。うーん、と腕をぷるぷる震わせて膝から膝へと移動させようとする動きを、そつなく『傍付き』の手が助けていく。ジェイドが動けないでいるうちに、足の上にもちっとした重みが乗せられた。

 一月会えないでいるうちに、また重たく、すこし大きくなった気がする。ぺとっとくっついてくる我が子が膝から落ちてしまわないよう、手を伸ばして支えながら、声を潜めて問いかけた。

「ラーヴェ……? 今、ウィッシュ、その……」

「まだ一歳にはなってないよ、ジェイド。それは来月」

 予定表に書いておこうね。その日にはどんな手を使っても『お屋敷』に戻ってきているんだよ。さもなくば大変なことになるし、するからね、と噛んで含めるように言い聞かせられた。大変なことになるのは十分理解できるのだが、大変なことに、するのは、やめてほしい。

 ラーヴェ最近俺をいじめて遊んでるだろう、と息を吐くと、まさか、と微笑まれる。

「頑張っている弟よ。こんなに可愛がってるのが分からない?」

「うっわぁああああうわぁああぁあ……いやぜっ……たい! 俺で遊んでるだろ!」

「あっ、ジェイドくんたら大きなお声を出してる! いけないでしょっ! いけないひとには、えいっ!」

 ずぼっ、と口に飴玉を詰め込まれる。顔を逸らして笑いを堪えるラーヴェに白んだ目を向けながら、ジェイドはむぐむぐと飴玉を転がした。あまい蜂蜜の味がする。おいしいです、となにかよく分からない敗北感に塗れながら呟けば、そうでしょうそうでしょう、とミードが自慢げにふんぞりかえる。

「これはぁ、しゆーちゃんが好きだった、とっておきなの! この日のために、おとりよせー、をしておいたの。えらい? えらい? ジェイドくん? 褒めてくれてもぉ、いいのよ?」

「……御指名だよ、ジェイド」

「ラーヴェも遠慮しないで褒めればいいだろ……。……はい、もちろん、偉いです。偉いですね、ミードさま」

 うふふんそうでしょうそうでしょう、と頬を赤らめて喜んだミードは、レロクも大きくなったら食べようねー、と歌うように囁きかける。あっでもらヴぇにはあげる、あーんしてあーんして、してしてねえねえしてったらぁああああきゃぁあっ、きゃぁああ、あーんっ、きゃぁーっ、とはしゃぎきったふわふわとろとろの声が、中庭に漂っていく。

 戸惑いきった足音がひとつ、ジェイドの前で止まったのは。ミードが赤らんだ頬に手をあてて、やんやんきゃぁんとラーヴェにあーんしちゃったきゃぁあああっ、と嬉しがっている、その最中のことだった。

「……ジェイド?」

「はい。ああ……はい、こんにちは」

 顔をあげると、立っていたのは壮年に差し掛かる年嵩の男だった。未だジェイドがシュニーを抱き上げるのにも苦労していた頃、前当主の命令で、補助をしてくれた者たちの一人である。ジェイドが一人前として補助を必要としなくなってからは、久しく顔も見ないでいる相手だった。普段は外部で勤務していると聞いている。

 お久しぶりです、と目を細めて穏やかに微笑するジェイドに、男は穏やかな声でああ、とだけ返し。手に持った大振りの、冷えた甘い香りのする純白の花弁とジェイドたちを、戸惑いながら幾度か見比べた。素知らぬ顔して微笑むラーヴェに息を吐きながら、さもありなん、とジェイドは苦笑する。

「大丈夫です。今日からで、合っていますよ。場所も、時間も、あっています。……お久しぶりです。そして、ようこそいらしてくださいました。シュニーの、葬儀へ」

 心細さとさみしさを連れてくる言葉を、口に出すのには、まだ躊躇いがあった。しかし、告げなければいつまでも戸惑われるままだろう。傍にラーヴェとミードが、赤子付きできゃっきゃと呑気にしているせいで、中庭で日光浴をしているくらいにしか見えないのは、ジェイドには十分理解できることだった。そうして欲しい、と頼んだことでもあった。

 花は、どうぞ、こちらに、と。努めて息をして、言葉を吐き出して、ジェイドはすいと視線を動かした。座り込む傍らには、丸く、白い、香炉が置かれている。真円に整えられたその香炉は、たんぽぽの綿毛を模して造られている。繊細に切り出された薄く透明な石は、強い風が吹くと本物の綿のようにゆらゆらと揺れ動いた。

 その加工があまりに繊細で、精緻である為に、シュニーの葬儀は今日この時を迎えるまで行えず。また、ジェイドが一週間、『お屋敷』に滞在する根回しを終えるのにも、時間がかかったから、というのがリディオの言葉だった。ましろいひかりは時折ふわんと現れ、香炉の周りをふよふよ飛び回ったり、上に乗っかるようくっついたり、自由にしている。

 今も、ましろいひかりはふよふよと香炉に近づいては、大きさや形を真似するように、ふこふこと伸びたり縮んだりを繰り返し、なにやら楽しそうに明滅していた。指先を伸ばして、つん、とましろいひかりを突っつき。繊細な香炉をそっと撫で下ろしながら、ジェイドは戸惑う男に告げた。

「献花を、ありがとうございます」

「ああ……ジェイド、お前の『花嫁』は幸福に、美しく咲いたよ」

 決められた言葉を口にして、男は白い花弁を指先から地へと零した。きよらかな、冷えた甘い花の匂いがあたりを漂う。不意に、ぞっとした。喪失がそこにあった。胸にぽかりと穴が開いている。どくどく、鼓動が耳元で聞こえた。ラーヴェとミードが口々に、ジェイドの名を呼ぶ。いくつもの音の連なり。その中に、シュニーの声が聞こえない。

 シュニーの。ジェイドを呼ぶ声が、ない。

「最近は……また、魔術師として、忙しくしていると聞くが」

 記憶の中に、まだ眠っている。揺り起こせば目を覚まして囁きかける、思い出に。柔らかな体温と重みに追いすがるように、ウィッシュを抱き寄せて息を吐くジェイドを、慎重に見つめながら。男は、体調に気を付けるようにと囁いた。留意します、と硬い声でジェイドは頷く。んん、んーっ、と腕の中で、ウィッシュがむずがって声をあげた。

 ジェイド、とラーヴェが肩を強めに叩く。はっ、として。ジェイドは腕から力を抜き、ぐずるウィッシュを抱きなおした。ごめん、と囁く。ごめんな、ウィッシュ。痛かったな。ごめんな、と繰り返すジェイドを、ウィッシュはじっと見つめ返して。やがてふんにゃりと機嫌よく笑い、もぞもぞと胸元へすり寄って来た。

 喉の奥が渇いて、目元がじんと痺れていた。膝の上に乗る重みが違う。香りも、ぬくもりも、なにもかも。代わりにしようと思ったことはない。けれど、なにひとつ、代わりにさえすることができない。喪失がそこにある。いとおしいと感じるたびに、空白のありかを思い知る。まだそれを、直視できず。まだそれに、慣れることができない。

 男は痛ましくジェイドを見つめ、無言で肩に手を置いた。七日間、ゆっくりしているといい。落とされた言葉に、ジェイドは素直に頷いた。ましろいひかりがふわりと浮かび上がり、ジェイドの頬にすり寄ってくる。呼ぶ、声は、なく。もうそれは、思い出の中でだけ響いている。

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