あなたが赤い糸:80
つまりジェイドが目の前の仕事に集中しきってしまう性質であるのがいけないのだ、とラーヴェは容赦なく発言した。ふむむむ、と分かっているのか分かっていないのか微妙なふわふわした声をあげて、ミードが書記よろしく、帳面に言葉を書き連ねていく。じぇいどくん、いけないひと、と書かれていた。筆記は正確にお願いしたい。
無言で額を手で押さえるジェイドに、リディオがそっと哀れんだ目をして、言われたことを書こうな、とミードを窘める。『花嫁』はきょとんとした顔をして、書いているもの、と言って、帳面をじぃっと見つめながら首を傾げた。んん、と呟きながら文字が足される。集中するの、えらいけど、いけない。ジェイドは微笑んで、もうそれでいいことにした。
今まで、その性質は大体肯定的に現れてきた。そうであったからこそ、ジェイドは『魔術師』と『傍付き』の両立を成し遂げたのだろう。否定的に現れたのは、『学園』を卒業して砂漠に迎えられて以後のこと。ジェイドが王の所有物となり、物として国中を飛び回るようになってからだった。比重が均等ではなく、傾けば、それは明らかな偏重となる。
目の前のことに過度に集中しきってしまえるのはジェイドの得がたい才能であるが、それは反面、視野の狭さとなって現れる。成長すれば改善するかと思いきや、そうする暇もないくらいの二つの環境が、今に至るまで漠然と放置させてしまった。口頭での改善要求、注意に留まって、具体的な行動に移さなかったのが『お屋敷』の失策である。
つらつらと、歯に絹を着せぬ物言いで告げていくラーヴェに、ジェイドに対する遠慮や配慮は存在しない。あー、と心当たりが大分ある苦笑と頷きで清聴するリディオの隣で、ちょっと難しそうな顔をして、ミードがぱちぱちと瞬きをしている。むむっとくちびるが尖ったのに苦笑して、ラーヴェはやさしい笑い声で、そっと『花嫁』に囁いた。
「ジェイドはね、やらないといけないことがあると、それに一生懸命になって、他が色々おろそかになる。分かる?」
「む、むむむむぅ……。おうちに帰ってくるのは、ジェイドくんの、やらないといけないこと、じゃないの?」
「……シュニー様がいらっしゃればね。やらないといけないこと、だったよ」
魔術師のたまごとしての仕事が『学園で学ぶこと』であるから、それを両立していられたのだ。しゆーちゃ、と落ち込んだしょんぼりとした声で呟いたミードが、へろへろとした文字でおしごとなくなったから帰ってこない、と書きかけ。直後、ぷぷぷぷぷくっと頬を膨らませ、ミードの手がぱぁあああんっと帳面に万年筆を叩きつける。
「しゆーちゃんがいなくてもうぃっしゅくんがいるのにうにゃあぁああやにゃああああっ!」
「ミード、すぐに怒らない。物も投げたらいけないよ」
「うぃっしゅくんのぱぱするのもー! じぇいどくんのおしごとでしょおおおおっ!」
まじちしさんにごめんなさいするよりもそっちがだいじでしょそうでしょそのとおりでしょっ、とぷんすかぷんすかものすごい勢いで怒って、息切れして咳き込んでくたっとしたミードは、その黄金の瞳に涙をためて、ぐずっ、と鼻をすすりあげた。
「それとも、それともぉ……まじちしさんの方が、ぱぱするより、ジェイドくんにはおしごと、なの……? なんで……? な、なん……ふぇ……」
「そんなことないよ、ミード。これはね、ジェイドの視野が狭くて、仕事以外の全方面で粗忽でうっかりしてるだけの話だからね。家族会議するんだよね、ミード。いい方法を考えてあげようね。ジェイドにもできるようにね。……ね?」
やんわりと微笑み囁くラーヴェの、ジェイドに向ける目だけが全く笑っていない。それに全く気が付かず、ぐずっぐずずっ、すんすんくすん、と鼻をすすってしゃくりあげたミードは、涙目をくしくしこぶしでこすり、ややくちびるを尖らせてジェイドを見た。
「じぇいどくんそんなにうっかりさんなの……?」
「……ええと……はい……まあ……そうです……」
ちょうど良いから普段言えない悪口をぽんぽん言っているようなラーヴェの性格診断を肯定するのには、結構な抵抗があったのだが。ここで、違う、と言おうものなら、じゃあなんでなのおおおっ、とミードの怒りが瞬間再沸騰するのは目に見えていた。怒らせるのは本意ではない。その怒りが、『花嫁』の体調を削ると知っているから、なおのこと。
こふこふけふん、と咳をするミードに、リディオが息を吐きながら飲んでいた香草茶を差し出した。はっしと両手でひっつかみ、ぐびーっと一気飲みするミードは、外見に反して大変思い切りがいい。ぷふーっ、と喉の渇きも違和感も、大変に満足したぺかぺかの笑みで空の陶杯をリディオにかえしたミードは。
えーっと、と数秒前のなにもかもを忘れたふんわかした、気を取り直した声で、投げた万年筆を持ち直した。
「じゃあ、みーどがジェイドくんがお家にちゃーんと帰ってくるのを考えてあげる! ……ねえねえらーヴぇ? ジェイドくん、なんでおうちに帰ってこないの? まじちしさんなのがいけないの?」
一周回って話題と疑問が開始地点へ戻った気がして、ジェイドは遠い目で首を振った。そろそろ本人にもそういう質問をして欲しいのだが、うかつな発言で『花嫁』が怒る為、ジェイドの発言はラーヴェの微笑みのもと、暗に封じられ続けている。とろけた甘え声でミードに尋ねられて、ラーヴェはそうだね、と呆れず諦めず、穏やかな声で繰り返した。
「ジェイドはね、魔術師としての仕事をしなさい、と言われると、そればかりに集中してしまうんだよ」
「おうちに帰るのも忘れちゃうの?」
「忘れてたの? ジェイド?」
そういえば確認するのを忘れていた、とでも言わんばかりの気安さで尋ねられる。好奇心と非難に満ちた『花嫁』と当主の視線を向けられて、ジェイドはそっと遠い目になった。忘れていなかった、と言いたい所ではあるのだが。青年に帰れ、と言われるまで、帰る場所があったことすら思い出さなかったのが本当の所だった。
帰る場所。家。おかえりなさい、と出迎えられる所を、ジェイドはシュニーと一緒に失ってしまったつもりでいた。『お屋敷』にはまだ、ウィッシュがいるのに。ミードも、ラーヴェも、世話役も、リディオも、いってらっしゃい、と送り出してくれたのに。その言葉、その祈りをひとつも理解せず、手から零れ落として、それに気が付きもしなかった。
視線を逸らして。申し訳ありません、と謝罪するジェイドに、『花嫁』の頬がまたぷーっと膨らんだ。
「やっぱり、お服に刺繍する? お背中にする? お腹にする? お脚のトコにする?」
「許して頂けませんでしょうか……」
「んもぉ! ジェイドくんったらぁ、わがまま! じゃあどうすれば忘れないの? まじちしさん、やめる?」
辞められません、としっかり言い聞かせて、ジェイドは深く息を吐いた。どうすればやめるって言うのかなぁ、とむむっと悩んでいるミードは、確実にジェイドから言質を取りに来ている。魔術師が王の所有物であると知っている筈のラーヴェは微笑むだけで、リディオはふあふあとあくびをするだけで止めないので、同意見ではあるらしかった。
魔術師、だよ、ミード、まじゅつし、言ってごらん、と発音を正すラーヴェに、まーじーちぅーしー、と自慢げに言い直すミードの声が、ふわふわ部屋を漂っていく。まじゅつし、とやや怪しいながらも真似して言いなおし、リディオはよし、と頷いて乾燥果物に手を伸ばした。もくもく、幸せそうに食べているのを見る分に、好物であるらしい。
見ていておなかが空いたのだろう。それをミードも食べてあげてもぉ、いいのよ、と言っておすそ分けしてもらいながら、『花嫁』はジェイドに、きょとんとした目を向けた。もちもち頬張りながら首を傾げられるのに、ジェイドは気合を入れなおしてお願いする。
「服に刺繍は許してください。他で。その他で……!」
「うー、うぅー……? 紐をつけた札を、首から下げる?」
それはただの公開処刑のようなものである。許してください、と懇願するジェイドに、ミードは困り果てた顔でラーヴェを仰ぎ見た。ふむ、と『傍付き』が首を傾げる。ラーヴェは、良い機会だからと好き勝手にジェイドの悪口を披露しているようにしか思えないので、嫌な予感がひしひしとするのだが、自分では代替え案が思いつかないのも確かだった。
あんまり変なことを言わないで欲しい、と思いながら見つめていると、ぽつ、と声が響いた。
「仕事なら、するんだろ? ジェイド」
指先を濡れた布で拭いながら。おなかいっぱい、という緩んだ雰囲気で、リディオが微笑していた。仕事だった間は、ちゃんと『魔術師』も『傍付き』も両立できていた訳だし、と呟く当主に、ミードがやや不服そうにでもお仕事に浮気していたもの、と言った。うん、とリディオはきれいな笑みで囁いた。旦那様と『傍付き』が違うからだね。
まったく、仕方がない、と。柔らかく許容するなんらかの感情で、『お屋敷』の当主はジェイドへと告げた。
「月に一度、必ず帰っておいで、ジェイド。これは当主として、『傍付き』だったジェイドへ下す命令だよ」
「あ! りでぃお、えらい! あたまいーい! みぃもそうしよ。いーい? ジェイドくん」
ああ、結局こうなるのか、という顔をして、ラーヴェが顔を背けて口に手を押し当てる。肩がぶるぶる震えているのを見て、もういいから笑えよ、と思い。ジェイドは達観した目で『花嫁』に、はいなんでしょうか、と言った。灰色の声だった。扉のあたりからは、遠慮なく咳き込んで爆笑を再開する、女の声が響いている。
「ごとーしゅさまのぉ、おくさま、として。ジェイドくんに、めーれーしちゃうんだから! いーい? 月に一度ね、絶対、ぜったい、帰ってくること! それでぇ、ウィッシュくんをぎゅっとしてちゅっとして、たくさん、かわいいかわいいしないといけないの。それでね、なにをしてたのか、おはなししてね。ミードたちにも教えてね」
「……砂漠国内のお屋敷の者に、期日を決めて、ジェイドを発見次第送還するように、と伝えましょうか」
笑いを堪えながらのラーヴェの提案に、ジェイドはきりきりと痛む胃のあたりに手を押し当てた。それはただの、公開指名手配である。やり方に慈悲がない。でも、それくらいしないと忘れる、というかできないだろう、とやや駄目な子を見るラーヴェからの視線を受け止めきれず、ジェイドは視線を逸らして溜息をついた。
すこしばかり、前科がありすぎて。自分でも、そんなことはない、と言えないのがつらい。あああ、と呻くジェイドの前に、ほわん、と現れたましろいひかりは。慰めるように頬にすり寄り、ちかちかぺかか、とあいらしく明滅した。
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