あなたが赤い糸:73


 ジェイドが城へ呼び出されたのは、シュニーが目を覚まして一週間後のことだった。王命ではなく、魔術師たちの連名による懇願状めいたそれに、ジェイドが送り返した返事は拒否である。目を覚ましたシュニーは、ジェイドが傍に居ないと体調を崩すようになった。常に傍らに。常に肌を触れさせていなければ、シュニーは苦しそうに咳をする。

 数分離れているだけでも、ミードが悲鳴をあげてラーヴェを遣いに走らせ、呼び戻したくらいである。傍を離れることはできなかった。幸いにも、ジェイドが傍にいさえすれば、シュニーはふつうに息をする。笑って、穏やかに、その姿は健康にさえ見えた。手を繋げば立ち上がって、ちょこちょこと部屋を歩き回ることさえできた。

 異変を。明らかな変質を、ラーヴェもミードも理解していただろう。それでもふたりはジェイドに問うことをせず、『花嫁』はしゆーちゃんよかったね、と微笑み、『傍付き』はそっと、言葉なくジェイドの肩をぽんと叩いた。いつか、話せる日が来たら。肩を貸すよ、と告げるラーヴェに、ジェイドはうん、と頷いた。

 当主はじっとシュニーを見つめ、ゆるり、ゆるり、瞬きをしてから首を傾げた。まるで見覚えのない誰かが、その視線の先にいるのだ、とでもいうように。けれどもまた、リディオも問うことなく、ふたりを幾度か見比べた後にかなしげに微笑んで。シュニー、と同胞の名を呼んだ。確かめるような声の響きだった。

 リディオは当主として、ジェイドに来た呼び出しを無視していいと許可をした。誰の目から見ても、シュニーはジェイドの傍から離れられないのが明白だったからだ。医局の女性も、珍しいことにはっきりと眉を寄せて首を傾げ、投薬記録とシュニーの状態を見比べて、深く重いため息をついた。

 これではシルフィールの記録が役に立ったのかが分かりません、と呟かれた言葉はいかにも『傍付き』の嘆きで、ジェイドは思わず視線を逸らし、口元を強く手で押さえた。根本的な所で、『傍付き』の持つ大事なものは己の『花嫁』『花婿』である。それ以外には決してならない。失い、弔い、時が立とうとも。その気持ちは永遠に息を止めている。

 どこにもいかない。なくならない。風化しない。変化しない。あるがまま、残される。それは婚姻へ送り出した『傍付き』に共通することであり、女性のように、役目を全うした宝石を見送った者にも残されるものだった。呪い、と呼ぶ者もあるかも知れない。『傍付き』にしてみればそれは、心からの祝福に他ならない。

 数日は穏やかに過ぎた。シュニーはジェイドを座椅子代わりにきゃっきゃとウィッシュをあやし、眠らせ、哺乳瓶から乳を含ませては、たどたどしい仕草で赤子の背を叩いた。頬をくっつけては、いいこ、と笑う仕草を、ジェイドは目に焼き付けるように見つめていた。

 ミードとラーヴェはレロクを連れて、せっせと毎日顔を出しに来た。『花嫁』たちは相変わらずこしょこしょと耳元でなにかを囁き合っては、きゃぁっと声をあげてはしゃぎ、その内容を『傍付き』に教えてはくれなかった。膝の上で、ようよう声を潜めてミードへ囁く言葉の、淡い、甘い、ふわふわとした残響だけが耳に触れて、消えて行った。

 ジェイドの元に、もう一度、魔術師からの呼び出しが届いたのは、一通目からきっかり一週間の経過した、朝のことだった。当主自らの手によって運ばれてきた手紙は、当然のように開封されている。中身は読まないでも知れた。リディオがしぶい顔をしていたからである。断り切れないんですか、と問うジェイドに、当主は息を吐いて首を振った。

 どうしても確認しなければいけないことがある、と手紙には書かれていた。王の命じた気配のないままに。それ所か、王の目を通されて出されたものとは思えないままに。陛下の耳に入るより早く、と文字が告げていたからだ。二通目の最後には、王の側近たる青年の署名があった。彼らは王を通さず、青年には知らせてジェイドを呼んでいるのだ。

 どんな命令でも、どんな理由があっても。そう告げた青年の顔と、言葉と、声を思い出す。正しいのはきっと、今すぐ魔術師の元へ足を運んで話を聞くことだった。なにがあったのか。なにを、知りたいと思っているのか。シュニーを連れてでも、そうするのがいいと分かっていた。しかし、それはできることではなかった。

 『お屋敷』の空気は常に、清浄に保たれている。温度湿度は一定になるように管理されているし、吹き込む風も、恐らく砂漠でいっとうきよらかなものだ。『魔術師』の目を通せば、それははっきりと分かる。古の祝福を受けた地に、『お屋敷』は作られている。砂漠の古い伝承、砂獣がうつくしい男女と引き換えにした、安穏たる地に。

 そこを離れて。すこしの間でも、外の空気に触れさせても、シュニーが耐えられるかどうかの確証はなかった。一度だけでも、その一度が手遅れになるということを、『傍付き』は学び、知っている。できません、とジェイドは言った。リディオ、お許しください。今は、いまだけはどうしても、連れて行くことさえ。

 大丈夫、と当主は頷いた。『お屋敷』は『傍付き』の判断を信じる。その判断を、ちゃんと守り抜く。だから、もう心配しなくていい。断っておく、とどこか楽しそうな笑みでリディオは囁き、それが二度目の終わりだった。三度目の訪れは、すぐだった。その翌日に手紙はもたらされた。

 息急き切って。一人の魔術師が、まるで追っ手から逃れてきたかのように。人目を気にしながら、どうか、と門番に渡して走り去ったのだという。三通目はこれまでとの連名とは違い、一人の名、一人の筆跡だけが言葉を書き連ねていた。久しぶり、の言葉もなく。どうか、と願う言葉からはじめられていた。

 どうか、今すぐ。今日にでも、明日にでも。確かめさせて欲しい、会って欲しい。一目でいい、きっと分かるから。一言でいい、きっと、必ず、助けてみせるから。どうか、ジェイド、お願いだから、と懇願する手紙の末に、書かれていた名を、シーク。いったい何が、と強張ったジェイドの腕の中、手紙をひょい、と覗き込んで。

 シュニーは目をぱちくりさせて、あっ、と嬉しそうな声をあげて笑った。

「このひと、ジェイドのおともだちでしょう! シュニーに、ご挨拶に来ましたって言って、おめでとうって、言って。それで、それで、ジェイドはあなたの傍にいるのがしあわせだからって言ってくれたの!」

「……式の時に?」

「そう。結婚式の時にね、そーっとね、ジェイドには内緒だよって。……あ、内緒だった! きゃぁ、やっ、やぁん……どうしよう……」

 おろおろとあたりを見回し、へにょりと眉を下げてごめんねえ、と呟くシュニーの愛らしさで、シークは許すだろうし許さないのだとしたら人の心がないから気にしなくてもいいんだよ、と微笑んで慰め。ジェイドはどうしたものかと思案した。門番の言葉を受けた当主も、ただ事ではない、と思ったのだろう。

 断るにしても、その知らせを城へ出していいのかすら、分からない。魔術師の連名ではないことからも、これはシークの独断である。それ程までに、なにかがあるのだ。心当たりは、と問う『お屋敷』の当主に、ジェイドは穏やかな笑みで言い切った。

「たくさんあるので、どれなのか分かりません」

「……うん。うん……そっか……。それは、その……どれくらい、とっても、いけないことなんだ?」

 わかりません、とジェイドは素直に白状した。本当の所、ジェイドは己がなにをしてしまったのか、その正確な答えを知らないままである。繰り返す夢は痛みと希望に満ちすぎていて、真昼の記憶に蘇らない。なにかを、して。罪を犯しました。『魔術師』としては恐らく、許されないことです。そう言い切ったジェイドに、当主はただ微笑した。

 それなら、それでも。俺は『当主』として『傍付き』を許すよ。せいいっぱい、できることを、できるかぎりやってくれた。そのことを、その結果を。俺が許すよ。どんなことであっても。ありがとう、と囁いて笑って、リディオはよし、と頷いた。じゃあ、俺も。『当主』として、『魔術師』のジェイドに、できるかぎりのことをしないと。

 大丈夫。包み込むような、慈愛に満ちた、当主の顔をしてリディオは微笑み、囁いた。大丈夫。俺がなんとか、してあげる。シュニーと待ってて。その言葉を告げられた次の、その次の朝。ジェイドは、いいよ、と言って当主に呼び出された。シュニーを連れて、ふたりで、俺の部屋に来て欲しい。出来れば今日中に。

 ジェイドに伝言を運んできたのは、当主側近の女だった。聞けば執務室でも面会室でもなく、当主の私室であるという。一瞬、水鏡のことをジェイドは思い出した。さよなら、と告げたきり、会うことのない当主の傍女。ひとり、赤子を産んだと聞いた。儚くなったかを、ジェイドは知らない。ただ、『お屋敷』で執り行われる葬儀は、なかった。

 私室であるのはただ単に、騒ぎになることなく最高位の警備を敷ける場所が、すぐに用意できなかった為である。そう説明される女に導かれ、ジェイドはシュニーを抱き上げ、養育室へ顔を出してから当主私室へ向かった。うふふ、ウィッシュとレロクくん、もちもちくっついててかわいかったねえ、と機嫌の良いシュニーを抱きなおす。

 幸い、『お屋敷』の中の移動で、シュニーが体調を崩すことはなく。とく、とく、と近くで奏でられる心音と、髪を撫でたり、頬をふにふにと突いて絡んでくる指先も、あたたかいままだった。離れなければ、傍にいれば。いつかのように。いつものように。シュニーは息をして、ひどく、穏やかでいる。

 当主側近の女はふたりを、羨むように、憐れむように見つめた後、ひどく静謐な仕草で一礼して、当主の待つ扉を叩いた。入れ、と声がする。失礼します、と開かれた扉の内側へ体を滑り込ませるジェイドに、椅子から勢いよく立ち上がる音が届く。顔を向けると、そこに、シークがいた。

 約束したな、と駆け寄ろうとする腕を掴んで、リディオが魔術師の少年を睨みつけている。騒ぎを起こさない、大きな声を出さない、目の届く範囲でだけ動く。魔術師を、王の許可なく、『お屋敷』の許可なく。内部へ踏み込ませたことが、誰にも、知られてはならないのだと。ジェイドにも聞かせる為に、告げられた言葉だった。

 ああ、と呻いたのは、ジェイドとシーク、どちらだったのだろう。なんという無茶を、と言葉を飲み込んで、全てを、当主に問い、告げる言葉の全てを後回しにして。ジェイドは泣きそうに震えて、力を失って立つシークに歩み寄った。シークの視線は、ひとつの所へ向けられている。ひとつの所。ひとりの、『花嫁』にだけ向けられている。

 シーク、と眼前に立って声をかけるより早く。力を失った少年の足が、床に崩れるようにして座り込む。シーク、と呼び掛けても視線があがらない。立ち上がろうとも、せず。シークは泣き顔を覆うように顔に手を押し当て、ジェイド、とどこか懐かしく響く声で、同胞の名を呼んだ。

「なんて……ことを……」

 震え。恐れ、怯え、嘆き、慄く、湿った声だった。シーク、と幾度か呼びかけるジェイドの腕の中で、シュニーは声もなく、じっと、少年の姿を見つめていた。そうして罪を暴く者が、やがて現れてしまうのを。確かに知っていたような、眼差しだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る