あなたが赤い糸:74



 まず一般に対してなぜ魔術師が隔離されているのかと言えば、身に宿す魔力が毒となるからである。冷えた薄荷水をいくらか飲んで落ち着き、ソファに身を沈めてシークが呟いたのは、魔術教本で幾度か目にしたその一説だった。魔術師は人の世において隔離される。それは差別であり、区別であり、守護であることを知らなければならない。

 なんに対する守護であるか。人に対して、魔術師に対して、我らが共に歩む世界の平定、平和、そのものに対しての守護である。ぶつぶつと幾つかの小節を目を閉じて眉を寄せながら呟き、薄荷水で喉を潤して、ようやくシークは深いため息を共に瞼を持ち上げた。ぐしゃぐしゃに踏み荒らされ、傷つき擦り切れる、勿忘草の瞳。

「……魔術、というのは。そのままでは人の世に毒を撒く行為に他ならない。無加工の、無精製の、毒物。それをいくらか加工して、精製して、整えて。ようやく、人の手にも受け渡せるようにしたもの。それが、欠片の世界に現れる、突然変異たる魔術師の、使う、魔術だ」

「……うん。そうだね、その通りだ」

「それはひどく痕跡が残りやすい。毒物の名残としても、加工した者の署名を描き入れる行為にすら似てる。……ああ、だから……だから、くそっ……ジェイド、皆、知ってた。知ってる。ジェイドがなにかしてたこと、ずっと、魔術を使って、なにか……知ってて……」

 見逃していた、とシークは言った。ジェイドが、あんなに生真面目で頑なで真面目な魔術師が、それでも禁を犯して魔術を使うのであれば、それはたったひとりの為に他ならないのだと。砂漠の王宮魔術師たちは、誰もが知っていた。だから見ないふりをした。『お屋敷』でなにか魔術が使われている気配を感じても、その痕跡がいくらあろうと。

 目を逸らした。けれども、それにも限度があった。最初に気が付いたのが誰だったのかは分からない。それはぞっとするような事実だった。発動が途切れる間がない。朝も昼も、夜もずっと。昨日も、今日も、ずっと。いつからか、いつまでもと分からない。それはまっすぐに引かれ続ける一本の線のように。途切れないまま、発動を続けていた。

 朝も、昼も、夜も。早朝に出かけ、深夜に戻ってくる魔術師たちは、いつしか祈るような気持ちで『お屋敷』を見つめるようになった。どうかどうか、どうか、今日こそ。祈るように、焦りながら、胸の中で泣き叫ぶよう願っていた。今日こそ魔術が途切れますように。あの魔力が、途絶えますように。あの祈りが終わりを迎えますように。

 だってあんなの生きていけない、と、とうとう一人が泣き伏した。その魔術がどんな規模であれ、どんな効果であれ、昼夜を問わず延々と続けるだけの魔力を持つ者は、魔術師とは呼ばれない。限りない者。魔法使い、と呼ばれる。ジェイドは限りのある魔術師だった。だからこそ、魔力は有限であるものだった。

 魔術師にとっての魔力は、もうひとつの命である。人が飲む水であり、吸い込む空気であり、流れる血液であり、繰り返される鼓動である。途絶えてはいけないものだ。枯渇させてはいけないものだ。すこしならば、体も保たれる。長く息を止めているように、ずっと水が飲めなくて喉が渇いてしまうように。すこしなら。耐えられる期間なら。

 ジェイドの発動は、それをはるかに超えていた。そしてそれは、この不安定な国の均衡を緩やかに削って行ったのだ。魔術師たちがいくら駆け回ろうと、青年が王を叱咤し国政へ向かわせようと、ゆるやかにゆるやかに悪化していく。坂を小石が転がるように。水に落とされた毒が、水脈の隅々まで染みわたっていくように。

 どうしても、もうだめだ、と。魔術師たちが判断したのが、件の一通目であったのだという。ジェイドの様子は、青年を通じて知っていた。『お屋敷』に脅されて妙なことをしている風でもなかったから、なにかは恐らく、己の意思で成したことなのだろう、と青年は告げて深々と息を吐き、署名に名を連ねたのだという。

「偶然だとは思うけど、一通目の後、発動の規模が落ちた。……だから二通目までは間があっただろう?」

「……間を、置いてくれた理由は?」

「これくらいなら立て直せるかどうか、奔走してたんだよ。皆ね」

 でも駄目だった、とシークは言った。砂漠の国は、あまりに安定を欠いてしまった。中核となる王が崩れ、それを支える臣の心も揃わず、魔術師たちが足場を崩してしまった。末端が壊死する、と顔色を失ったのは魔術師たちの長。せめて発動をやめさせなければ、というのが、魔術師たちの総意。

 幸い、王はそれに気が付いていない。今はまだ。視線と意識は反れ続けていて、息苦しさに、ひたひたと地脈を満たしていく毒にも気が付かない。幸いだと思う日が来るとは思わなかった、と青年は笑ってシークの背を押したのだという。行きなさい、君の言葉なら届くでしょう。友人だと聞きました。ならばこそ、君が。

「だから、止めに来たんだよ、ジェイド……。でも……まさか、そんな」

 恐怖にすら揺れる瞳が、人の世の悪意に踏み荒らされた色が、ゆるゆると持ち上がってシュニーを見る。愛と善意に包まれ守られ抜いた『花嫁』を。眩しいもののように見て、目を逸らす。

「……白魔術師が人を癒せるのは、毒が薬だと彼らの本能が知っているからだ」

 教本の言葉が。魔術師の教えが。祈るように、懺悔のように、シークの口から零れ落ちていく。そんな場合ではないのに、ジェイドは口元を緩めて微笑した。話すのが上手くなったな、と思う。『学園』を卒業してもしばらくは不安定だった。ジェイドが離れていた間に、誰かと、たくさん話をしたのだろう。

 その、知らない時の隔たりが。分かり合えないものとして、恐怖のように横たわっている。

「四十八時間。……知ってるよね、ジェイド。知ってたよね……?」

「……うん」

「白魔術師の魔術ですら、人の身には毒になる。その限度が、連続四十八時間! 君はそれを!」

 ぱんっ、と音がしてシークの声が途切れる。冷やかな目をした当主が、手にした紙でシークの口元を横から打ち払ったからだ。なにを、とは言わず、乱暴にしないでください、とジェイドは息を苦しく呟いた。声の激しさに怯えるシュニーを抱きなおし、耳を塞いで撫でながら。とくとく、はやく刻まれていく鼓動に、目を伏せる。

 面差しに浮かべる表情も薄く。当主がやんわりと、首を傾げて囁いた。

「二度は言わない。……一度黙れ。さもなくば」

「……シーク。シーク、すまない。言う通りに」

 戸に背を預けて黙したままでいる側近の女性が、明らかに苛立った気配で当主の命令を待っている。このままだと叩き出されるだけだろう。そして二度と、『お屋敷』は門を開くまい。シークは荒れた呼吸を整えるように目を伏せ、てのひらを握って頷いた。

 荒れた静寂に、シュニーが震えてすがり付いてくる。ぽん、ぽん、と幾度も背を撫でられて、シュニーは大きく息を吸った。こく、と肩口でちいさな頭が決意めいた動きで頷く。シュニー、と問う声にうるんだ目で顔をあげ、『花嫁』は震えながら視線を魔術師へ向けて。怒らないでね、と囁いた。

「しゅにが、頼んだの……。しゅに、あ、わ、わたし。わたしがね、ジェイドに頼んだの……」

 反射的に言葉を告げかけた口を、ぱっと手で塞いで。シークは懐疑的な目でジェイドを見た。見えている罠を疑う眼差しだった。苦笑して待っていると、そろそろと手が離される。

「……話しても?」

「どうぞ。いいですよね、リディオさま。彼はもう、落ち着きましたよ」

 ぷい、と拗ねた仕草で顔を背けて。好きにすればいい、と告げた当主は、ぽすん、と愛らしい仕草でソファに身を沈めてしまった。無言で差し出された手に、いつの間に移動していたのか、女が湯気の立つ陶杯を受け渡す。ふう、と息を吹きかけて飲み込む姿は、もうシークから興味を失ってしまったように見えた。張り詰めた緊張さえなければ。

 警備は、決して当主を裏切らない。信頼できる者たちばかりで行われている。そうでなければ、側近の女がこの場所まで、シークを立ち入らせる筈がない。それでも不安なのだろう。信頼が裏切られることを、リディオは知ってしまった。その痛みが、これからずっと、誰かを信じる希望を持たせないでいる。

 大丈夫よ、とシュニーは言った。リディオに、そして、シークに。どちらにも言葉をかけて、返ってきた安堵はひとつきりだった。

「……きみはジェイドに、なにを望んだの?」

「いなく、なりたく、ないって」

 あのね、と花の蜜のように甘い、とうめいな声が柔らかにささやく。まだ、ずっと、いっしょにいたいの。いなくなりたくないって、思ったの。だからね、わたしが、頼んだの。わたしが、いっしょに、いてって。だから。

「ジェイドが、いけないんじゃ、ないの……。わたしが、わがままだったの」

「我侭じゃないよ」

 祈りを、欲望と呼んでも。あのかそけき言葉を、我侭、とは。かたくシュニーを抱いて言い聞かせるジェイドに、『花嫁』はふわりと笑って、うん、と言った。シークは言葉にならない息を吐き、額に手を押し当てた。

「……君を、死の淵から救うために、ジェイドはしてはならないことをした」

 可能である筈がないことをした、とシークは言った。ジェイドは治癒を可能とする白魔法使いではなく、支えとなるような属性も持っていない。水属性の黒魔術師。救いはない筈だった。ジェイドがしたのは、薄いうすい毒を含ませ続ける行為に他ならないのだという。花に水を注ぐように。人の身に、魔力を与え続けた。

 四十八時間、とシークは繰り返した。癒しを可能とする白魔術師でさえ、人の身に触れる、それが限界なのだと。それ以上は癒しは反転し、猛毒と化す。人と、魔術師の、決定的な違いがそれだ。魔力とはそういうもの。突然変異として目覚めた魔術師は、その瞬間に変質するからこそ、その毒に適応して生き延びる。

 分かっているだろう、と魔術師の瞳が『花嫁』を見る。魔力に満たされたその体を。ジェイドの魔力を血液のように循環させ、ようやく呼吸を続ける、『花嫁』の姿を。

「彼女は、変質した。……ボクの目には……魔術師の目に、もう彼女がひととして映ることはない。とても、そうとは、思えない……」

 魔力に満ちたものに。魔力そのもので編まれたものに。奇跡のように意思が宿っている。ひとと同じ形を作りながら。それをなんと呼ぶのか。魔術師は誰でも知っている。妖精、と呟くジェイドに、シークは声なく頷いた。けれども妖精は人の身では非ず。人の身は、妖精に転じ得ない。

 不完全で、不安定な変質の末を、魔術師は教本で学ばされる。四十八時間を越える治癒は、人の精神の破綻という形で死をもたらす。稀に、ごく稀にそうならない者は、魔力で満たされ魔力へと還る。その身は、一欠片も残さず砕けて消える。人の身は消え去り、ただ、満ちた魔力が戻るだけ。

 離れられないんだろ、とシークは言った。もう、人の身が保つ筈がないのだと。離れたら、それが終わり。でも触れて繋がっていたとしてさえ、もう数日が刻限になる。落ち着いたら城へおいで、話しておくから、と言ってシークは去った。その背を見送り、ジェイドの腕の中で、シュニーはちいさく咳をした。

 触れていて、なお。我慢しきれず、喉が軋み、こぼれてしまった音だった。



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