あなたが赤い糸:68


 こほ、と乾いた咳が空気を揺らした。一度、二度。三度目が響くまでには時間があったが、結局はやや大きな音を立てて咳き込まれると、ミードはぱっと顔をあげてラーヴェを見た。おろおろと視線がさ迷って半泣きの顔をされるのに微笑み、ラーヴェは求められるまま、ミードの体を抱き上げた。

 そのまま、寝台に足を運ぶ。あわあわと不安げに落ち着かないでいるミードの背を撫でながら覗き込むと、やはり目を覚ましたジェイドが、夢現の目をしながら喉を押さえていた。その腕の中では、まだシュニーが眠っている。起こさないように体を起こして、と告げればジェイドは眠たげな顔をしながらも頷き、ラーヴェの指示通りにした。

 けほ、とまた乾いた咳。ラーヴェが水差しから湯飲みに水を注ぎこむより早く、身を乗り出したミードが有無を言わさず、その口に喉飴を突っ込んだ。目を白黒させて、そこでようやく、ジェイドは意識を覚醒させたらしい。やや落ち込む息が吐きだされ、視線がシュニーの眠りを確認したあと、親しくふたりに向けられる。

「ごめん……。ありがとうございます、ミードさま。ラーヴェ」

「ジェイドくん。この間から、お咳をする……! お風邪? 乾燥? 喉に良いお香を、もうすこし焚く?」

「ジェイド。不調ならば、医師に来て頂こう。今、君が体調を崩してはどうしようもない」

 飲みなさい、とこちらも有無を言わさず、湯飲みが差し出される。うん、と頷いて喉を潤しながら、ジェイドは眠気を完全に消し去るあくびをして、ゆるく室内を見回した。眠る前にやや篭っていた空気が入れ替えられ、細々と散らかっていた物品が、整理整頓されて置かれている。

 すこしだけ荒れていた空気が押し流され、ふわふわとした香気が漂っていた。喉の通りをよくする香りだった。見れば整理された机の上に香炉が置かれていて、ちいさなちいさな鉄鍋の中、湯といくつかの薬草が揺れている。見覚えのないものである。ええと、と記憶を探って額に手を押し当てながら、訪問予定がなかったことを確認して、息を吸う。

「……ミードさま、いつからいらっしゃいました? 申し訳ありません、お迎えもせず……ラーヴェも、どうして起こしてくれなかったんだよ」

「ミードが起こしたらかわいそう、と言ったからに決まっているだろう?」

 そうだなその通りだな、とジェイドは遠い目をして頷いた。特に差し障る理由がないのであれば、『花嫁』のおねだりは聞き入れられるべきものだ。掃除も整頓もして、よく眠れるように湯をかけて待っていたのだと自慢げにラーヴェの腕の中でふんぞりかえったミードは、気合に満ちた顔つきでふんふんと鼻を鳴らして頷いた。

「ジェイドくんが間に合わないところは、みぃがいるからね! まかせてっ!」

「……ラーヴェ?」

「喜ぼうね、ジェイド」

 止めて欲しい、という意思を分かっていながら、笑顔でごり押してくるのが『傍付き』の知ったやり方である。お手を煩わせる訳には、と困惑するジェイドに、ラーヴェは声を潜めて囁いた。どうか受け入れて欲しい。シュニーの為に、ミードができることはこれくらいしかない。考えて、考えて、すこしでも、と思い至った結果なのだと。

 そう言われてしまえば、まだ泣き腫らした跡のある『花嫁』を、拒否することはできなかった。ミードさまもご無理のないように、と告げれば、母となっても少女めいた『花嫁』は輝くばかりに顔を明るくして、こくこく、こくこく、心底嬉しそうに、何度も何度も頷いた。

「あ、あの、あのねっ。みぃ、ジェイドくんみたいにね、しゆーちゃんのお世話は、できないからね。でもでも、お茶を入れたり、お湯と一緒に香りを焚いたりね、とっても、とっても、得意なの。だからね、お手伝い、させてね。ウィッシュくんのお世話だって、みぃ、きっとできるんだから! あのね、ウィッシュくんね、レロクと、とっても仲良しなの」

 ここへ来る前に、レロクの様子を見に養育部へ行ったのだという。そこでレロクは、赤子用のちいさな寝台でくうくうと眠っていた。その腕いっぱいに、ウィッシュを抱え込んで。やわやわのちいさい赤ちゃんがもちもちにくっつきあっているのは、しあわせを全部注ぎ込んだみたいに可愛かった、とミードはとろける瞳で溜息をついた。

 話を聞くと、レロクはウィッシュにたいそう興味があるらしい。母親同士がよく一緒の部屋でくつろいでいるので、見知っている為だろう。ウィッシュの近くにいれば機嫌がいいし、くっつけておくとすぐに眠ってしまうのだそうだ。ウィッシュも、ふわふわ笑って嬉しそうにしているのだという。

 それを聞いたミードは、ちゃんすだ、と決意したのである。これはふたりいっぺんに、ミードが子育てできるのではないだろうか。もちろん、ウィッシュの母はシュニーである。そこから取り上げるようなことは決してしないが、ミードが面倒を見ることができれば、シュニーの体調が悪い時にも同じ部屋で、せめて見ていることができる。

 だからね、お願い。お手伝いさせて、ねえねえ、させて、と必死に頼み込んでくるミードに、ジェイドは眠るシュニーを抱きなおしてから頷いた。

「シュニーが、それを良い、と言ったら……お願いします」

「うん! ……うん、あのね、大丈夫。しゆーちゃんが嫌なことはね、しないの」

 嬉しいことをね、したいの。それでね、ミードもね、もうすこし、たくさん、しゆーちゃんのお傍にね、いたいの。ご迷惑じゃないようにするし、お手伝いをするし、助けられることもね、すこしはね、あると思うの。それでね、だからね、だから、と口ごもり、涙ぐんで、ミードは眠り続けるシュニーをじっと見つめた。

 すぅっと深く穏やかな眠りに。じわっと浮かぶ涙を増やしながら、目をくしくしと擦って、『花嫁』は囁き落とす。

「おともだちだもん……おともだち、なんだからぁ……」

「……すまないね、ジェイド」

 抱き寄せられ。とん、とん、と背を叩いて慰められながら、ミードはひくひくとしゃくりあげている。いや、とか細い声が『花嫁』の心を零していく。いなくならないで。元気でいて。一緒にいて。もうすこし、ううん、もっと、たくさん。いつまでも、ずっと。いっしょにいて。いなくならないで。

 花の香りのように、甘く淡い言葉に籠められた感情を。ジェイドは誰より、理解できる。無意識に、手を伸ばしていた。横顔の、零れる涙を拭うジェイドに、ミードがきょとんとした顔をする。じぇいどくん、と不思議さに彩られた声と共に、こてり、首が傾げられた。なあに、と言葉を待つ無垢な眼差しに、心から微笑みかける。

「ありがとうございます、ミードさま。……どうか、泣かないで」

「……うん。うん……うん!」

 ぱちくり、目を瞬かせて頷いて。何度も、何度も頷いて、涙を手で拭って。もう大丈夫っ、とばかり強く笑みを浮かべるミードは、美しかった。愛らしく、美しく、しなやかに。咲き誇る『花嫁』の姿に、ジェイドはゆるく笑みを零して。それからそっと視線を外し、えっと、と親友に向かって弁解した。

「ごめん……」

 ありとあらゆる意味での、ごめん、だった。それは例えば『傍付き』に無断で『花嫁』に触れたことに対してでもあるし、『花嫁』の慰めに、途中で手も口も出したことに対してでもある。『花嫁』は『傍付き』のものであり、そして恐らく、一応、多大なる疑惑と公的な立場が異なっているにせよ、夫と妻である、筈だからだ。

 居心地の悪そうな顔をするジェイドに、ラーヴェは苦笑しきっていいよ、と言った。諦めを多分に含む、慣れと、許容に塗れた声だった。

「ただし二度目はないからね」

「一回でも許してくれてありがとう……」

 それに弱っている相手に決闘を申し込んでも苛めているだけだし、まあ二度目がなければいいよ、と続けられて、ジェイドは力なく頷いた。ラーヴェから見ても、ジェイドが弱っているように見えるという事実は、それなりに心に来るものがある。時折咳が出るくらいで、体調不良、と思えることもないのだが。

 顔色悪く見えたりするかな、と問いかけたジェイドに、ラーヴェは聞き分けのないこどもを見つけてしまったような、形容しがたいしぶい顔をした。

「戸は叩いたし、声もかけた。待っても返事がなかった。世話役も傍にいないことだし、なにかあったかと思って勝手に入らせてもらったけど……目を覚まさなかった時点で、体調の悪さは自覚すべきものだろう……?」

「あのね、気にしなくていいのよ、ジェイドくん」

 もう、いじめちゃだめでしょう、と頬をふくっとさせながら。二人の『傍付き』の視線をひとりじめした『花嫁』は、思い切りほこらしげにふんぞりかえって言った。

「ラーヴェもね、レロクが産まれてしばらむぐぐ」

「ラーヴェ。ミードさまなにか訴えてらっしゃるけど? なんで口塞いでるんだよかわいそうだろ」

「……ミード。それは内緒って言ったことだね。内緒は言ったらいけないよ」

 やんやんやぁんラーヴェがおくちをふさいでくるうううっ、と暴れていたミードは、耳元でそう囁かれるとぴたりと動きを止めた。ぱちぱちと瞬きをして、あどけなく首が傾げられる。ううん、と悩んで眉を寄せながら、ミードは疑わしげにくちびるを尖らせた。

「ないしょ? 言った? ……ほんとうに?」

「言ったよ。ふたりの秘密にしようねって、約束したよね」

「ふたりの、ひみつ……!」

 輝く笑みで照れながら、ミードは頬に手を押し当ててもじもじと身をよじった。あ、もうこれは聞き出せないな、と悟るジェイドの目の前で、ミードはもじもじ、もじもじ嬉しげに指をこすり合わせながら、甘えた仕草でこっくりと頷く。

「ひみつ、ふたりの、ひみつね……! ラーヴェがいねむりの、ねぼすけさんしていたの! みぃとらーヴぇのひみつ……! やややんなんでほっぺぶにってするのおおおおっ!」

 ラーヴェが隠したがっていたことを、ミードが全部言ってしまったからである。ふぅん、と呟いて見てくるジェイドに、しばらく決して視線を合わせず。やぁあああっ、と暴れるミードが息切れを始める頃、ようやく、顔を背けたままでラーヴェは言った。

「まあ……でも……本当に体調を崩していないかどうか、確認だけでも、しておいたほうがいい」

「ラーヴェ、寝ぼけることあるんだ……?」

「あっジェイドくんったら、ひみつをしってる! いけないひと! ……うふふふ? あのね、あのね、これはひみつのことなんだけどね、ラーヴェねえぽやぽやしていてとてもかわいかったの! とても! それでねっ、ねむってるの、かわいくてね、きちょうなの! きちょうなねがおだったのっ!」

 きゃっきゃ大はしゃぎして教えてくれるミードに、ひみつ、という言葉の効果が消え去って久しい。そうなんですね、と相槌を打ちながら、ジェイドはそっと胸元へ視線を下ろした。頬をすり寄せて安らぐ、シュニーの眠りは、深く。目覚める気配もないままだった。

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