あなたが赤い糸:69
そもそも『花嫁』が子育てをする、という事態は想定されていない。『お屋敷』の管轄外の出来事と言ってしまえばそこまでだが、本来『花嫁』とは嫁ぐものである。同時期にふたりの『花嫁』が残留することも想定外の事態であるなら、出産を終えて存命し、こそだてしたいっ、と張り切って主張するに至っては異常事態の範囲である。
つまり、シュニーの体調を受けてのミードの主張は、『お屋敷』に季節はずれの嵐を呼んだ。レロクもウィッシュくんもみぃがままと、ままの代理、というのをするの。これはもうきまったことなの。しゆーちゃんもいいって言ったの、と困惑し頭を抱える養育部一同を前にして主張するミードに、呻くように返された言葉は考えさせてください、だった。
そうさせていい、という情報が養育部になかった為である。はりきった『花嫁』のお願いと、それに続いたなんでえぇええええっ、という怒りにいくら心が苦しくなろうと、過去の情報がない以上は即答ができないことだった。なにが『花嫁』を弱らせ、致死へ至らしめることなのか分からない。どんな些細なことですら、きっかけになる可能性はある。
『お屋敷』は常に、詳細な情報と規律によって整えられ、形作られ、人々が動く場所である。『花嫁』『花婿』を中心にして、積み上げられる情報は莫大なものであり、それは日々更新されていく。しかし山のように残された幾千の情報の中にも、『花嫁』が子育てをした情報は乏しく、二人同時となるとひとつとして存在しなかった。
嫁いだ者の情報にも手は伸ばされた。嫁ぎ先で幸福に過ごしているかを定期的に調査、監視する役目の者たちはいるが、しかし、普段家の中でどのような生活をしているかまでは『お屋敷』の手が及ばない。『花嫁』『花婿』が、密かに伝えられた手段を行使し、助けを求めた時以外では。
大体からして、『花嫁』の赤子、というのは稀な存在である。『花嫁』は己の弱さを知っている。それがどれほどの負担がかかることなのかを、しっかりと教育されている。それでも望むほど、愛するひとができたその時に。無知のままでいてはならないと。選択肢を与える為に。『花嫁』は、閨教育と共に知識を与えられて嫁ぐのだ。
妊娠をきっかけに『お屋敷』に助けを求めた者の記録は残っていた。健康管理は密に連絡を取りながら行われ、出産を終えて数ヶ月までは、嫁いだ『花嫁』が幸福に過ごしていたことを物語っていた。しかし、そこまでである。『花嫁』が自らの手で赤子を育てていたか、という所までは記録がなかった。
申し訳ありませんがこればかりは許可するもしないも判断ができません、お許しください、と涙ながらの嘆願書が当主に提出されたのは、ミードの申し出から二週間後のことだった。二週間。通常業務と平行して過去のあらゆる記録を調べ続けた養育部の者たちの顔には一人残らず隈があり、激務と心痛を伺わせた。
小冊子に纏められた嘆願書、兼調査報告書を机に肘をつきながら指先でぱらぱらとめくり、当主はふぅん、とまるで気のない、ややのんびりとした声で問いかける。
「でも、ラーヴェは許可してるんだろ?」
「そうなんですよ……。そうなんですよ……!」
涙ぐんでしゃがみこみ、頭を抱えてうめく養育部代表の女に、当主は理解不能、とさえするまなざしを向けながら、噛んで含めるように言い放つ。
「じゃあ、問題がない、ってことだ。いいよ、ミード。好きにして」
「そうでしょおおおおぉおおっ?」
当主の傍に置いた椅子の上。得意満面の笑みでミードが胸を張る。
「だからぁ、ちゃーんと言ったでしょー? ラーヴェ、いいよって、言ったもの。えへへへへん!」
「……本当に、ご許可を……?」
灰色のまなざしで問われたラーヴェは、微笑んで頷いた。よかったね、と告げながら『花嫁』をひょいと抱き上げ、きゃあきゃあはしゃぎ倒す背をやんわりと撫でる。
「しないでいる精神的な負担よりは、こちらの方が介入も管理もできますから」
「……ミードさまの最近の体調は?」
「みぃ、元気! とっても元気!」
すごいでしょえらいでしょ、とふんぞり返るミードに、ラーヴェは微笑んでそうだね、と言った。『傍付き』からとりたて訂正がかからないので、体調に不安はなく、また安定しているようだった。入室した瞬間に惨状が広がっていたので会話には加わらず、戸口に背を預けて場を眺めていたジェイドは、感情を処理しきれずにため息をついた。
ミードには今も、妖精の祝福のきらめきが見える。淡い蜜のように光る魔力は、ミードとよくよく相性が良いものであったらしい。一時こそ体調を崩したもののすぐに持ち直し、ミードは日々精力的に、あれこれきゃっきゃとはしゃいでいる。あっジェイドくん聞いてミードはやったのっ、と胸を張られるのに微笑んで、深く息を吸い込みながら歩み寄る。
羨んでしまう感情を、どうしても消しきれない。そのことに、静かに罪悪感が降り積もる。どうしてシュニーではなかったのだろう。どうしてミードだけに、妖精の祝福は与えられ、今も元気でいるのだろう。ミードに、それがなかったら、と思っている訳ではない。『花嫁』が元気に笑っていてくれる姿は、それが己の宝石でなくとも幸せだと思う。
できることをした、と思う。あの時。あの日々のなかで。ジェイドはシュニーの為に、できる限りのことをした。努力を重ねた。嘘偽りなく、誰にでもそう言えるだろう。ただ、それでは偶然を引き寄せられず、奇跡が降りはしなかった。それだけ。それだけのことだ。羨む気持ちは、容易く妬みへと変貌する。けれど、それだけはしたくなかった。
ミードが助かったことを、元気でいてくれることを、よかったと思う。本当に。その気持ちを、幸福を、自分で否定してしまいたくはない。なによりも。その時に、よかったね、と笑ったシュニーの笑顔を覚えている。妖精が祝福を与えた、だからミードさまは助かるよ、とそう告げた瞬間の、ふたりの安堵と喜びを。
ミードさま、と微笑んで呼ぶだけで歩み寄ってきたジェイドのことを、『花嫁』は無垢な目でじっと見つめた。金色の瞳だった。蜂蜜の色。妖精の祝福、きらめく魔力と、まったく同じ輝きをしている。それは世界の愛と祈りの色だ。降り注ぐ日差しに、木漏れ日に、水に土に、火の粉の中に、吹き抜けていく風の中に。満ちる魔力の色だった。
ミードの瞳、髪からは魔力を感じない。変質した訳ではないだろう。ジェイドの見知った色彩から変わらず、だからこそなお、それを尊いと思う。魔術師ならば誰もが、ミードの姿にそれを感じるだろう。世界からの、魔術師に対する祝福。祈りと、愛。
「……ジェイドくん」
ちいさな手が伸ばされる。母となってなお、幼さとあどけなさを残すてのひら。無垢な瞳が、真剣な感情を宿して、一心にジェイドを見つめている。指が、じゃれるように服を摘み、弱々しい力でそっと引く。
「あのね。わ、わたし、ね……わたし、しゆーちゃんには、なれないけど……」
でも、でも、あのね、と。『花嫁』はジェイドの胸の澱を察して、それに怯えさえしながら。それでも、強く前を向く意思で、泣きそうになりながらも言葉を紡いだ。
「しゆーちゃんが、大事なの……。だからね、しゆーちゃんが大事なものもね、大事でね、大事にね、したいの。大切なの。一緒に、大切にさせて、欲しいの……」
「……はい」
「わたしね、ジェイドくんに助けてもらった。そうでしょう?」
まっすぐに、視線が重ねられる。瞳が覗き込まれる。奥底まで。祝福のきらめきは、今も淡く輝いている。はい、と頷こうとしたジェイドに、『花嫁』は微笑んで首を横に振った。ちがうの、と告げられる。目を瞬かせるジェイドに、ミードはそっと手を伸ばした。
両手が、祈るように包み込まれる。
「そうじゃないの……。それも、だけど、そこからじゃないでしょう……?」
「ミードさま?」
「ずっと、最初から、ジェイドくんはわたしの……わたしの、『助け』だったの。わたし、ちゃんと知ってる。ラーヴェがわたしのところに来てくれたのは、ジェイドくんが、しゆーちゃんに選ばれたから。ジェイドくんが、諦めないで、魔術師さんをしながら『傍付き』をしてくれたから、わたし、しゆーちゃんと、おともだちになれた」
ほかにも、たくさん、あるでしょう、と。『花嫁』は、ようやっと祝福を返せた、というように、幸せに満ちた笑顔で言った。
「わたしが旅行に行っている時、ラーヴェがさびしくなかったのは、ジェイドくんがいてくれたから。わたしがいまも元気でいられるのは、ジェイドくんの妖精さんが、わたしを助けてくれたから。……いまのわたしがあるのは、ぜんぶ、ぜんぶ、ジェイドくんのおかげなの」
だから、ね。助けさせて、と『花嫁』が笑う。
「ジェイドくんの、助けになりたい。今度は、わたしが。……しゆーちゃんのね、しあわせが、もっとずっと、ずっと、続いて行くように。ジェイドくん、お願い。わたしにね、しゆーちゃんと、ジェイドくんを、助けさせて」
ふたりとも、だいじ。たいせつ。だいすきよ、と。心ごと差し出すような微笑みで、ミードが言った。そうだよ、と言葉少なく、ラーヴェが全てに同意する。君と、君たちのおかげで、今がある。だから。助けさせて欲しい。負い目に感じないで欲しい。どれだけ君と、君たちに助けられていたか。こういう風にしか返せないのが心苦しいくらいだ。
そんな、と言いかけて、ジェイドは口を手で塞いだ。それを否定してしまうことこそ、してはいけないことだった。言葉に迷い、俯きかけるジェイドに、当主が笑う。
「難しくないだろ、ジェイド? うん、って言えばいいんだよ。……ありがとうって、言えばいいんだ。それでいい」
「……うん。あ……ありがとう、ございます……?」
「あ、じぇいどくんったら、ぜんぜんわかってない! しかたないひと!」
もうっ、と『花嫁』が華やかに笑う。ありがとう、ありがとう、だいじょうぶだからね。いっしょにいるからね、ひとりじゃないからね。ひとりになんてしないからね、と。世界からの、魔術師に対する祝福。祈りと、愛の色彩を宿した『花嫁』が笑う。
すがるように、息を吸い込んで。ジェイドは、ちいさく頷いた。
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