あなたが赤い糸:56



 寵妃に拉致される所か、今日は王の姿すら見なかった。なんでもハレムに篭って出てこないらしい。やや国の将来が心配になってくる事態だが、魔術師の数人が呼ばれて出入りもしていたので、職務を放棄した訳ではないようだった。陛下大丈夫かなぁ、と不安げに零す同僚に、ジェイドは希望は持とうと慰めにもならない言葉をかけ、城を後にする。

 ハレムに、というより。王が訪れたきり戻ってこないでいるのは、寵妃の部屋だろう。近頃は大きな声が響いたり、激しい物音がすることもあると聞く。ジェイドの知る限り、王は上機嫌と不機嫌を行ったり来たりと忙しく、日替わりとするように気分が一定していなかった。

 かといって臣下や、『物』たる魔術師たちに怒鳴ったり、手をあげたりするようなことはしなかった。王が声を荒げる、というのをジェイドは見たことがなかったし、魔術師たちの誰に聞いてもそうだろう。穏やかな、落ち着いた王なのだ。気分が荒れていても、八つ当たりに外へ出すことをしない、己を律しきった王。

 寵妃と言い争うような声が、という噂が流れても、悪質だと誰もが眉を寄せた。それでいて否定しきれなかったのは、王の目がじわじわと荒んでいくのが、最近特に顕著であるからだった。いっそ自首したいとジェイドは思ったが、そうしたとて解決には結びつかないことも知っていた。

 寵妃の想いがどこにあるのか。ただそれだけが王を宥める唯一の導だった。そしてそれは、以後見込めないこともジェイドは知っている。女が過去を語る中、感情がはきと現れていたのは、夫と息子のことだけだった。そして今、その熱は息子のことだけに向けられている。

 精神を安定させる医者を呼ぶか、こっそり魔術をかけるかで同僚たちの意見は分かれていた。なににせよ、王にはもうすこし心穏やかでいて貰わなくては、魔術師たちの健康にも差し障る。具体的には酷使されすぎて休暇という概念が消し飛び、休みってどういう意味だっけ、と悩みだす者が、また出てくる前に。

 なにを、どうするのが正解なのだろう。ジェイドは『お屋敷』へ続く門の前で立ち止まって、晴れた空と流れていく雲をぼんやりと見上げた。なにせ『魔術師』としての己を連れて行けるのは、ここまでである。湯殿まで延長はできるが、課題はできるだけ、門をくぐる前に終わらせていきたい。門番の同情的な視線にはもう慣れた。

 ハドゥルに母が生きていることを告げるのは、正解だと思えない。幼子は今や青年に近い年頃となり、立派な『傍付き』のひとりともなっている。己の『花嫁』を得た『傍付き』が、そう長く傍を離れることは叶わない。ハドゥルが、母に会いたいと、そう告げることも想像しにくかった。もっと欲する存在が、ハドゥルにはすでにいる。

 王に。寵妃の想いを告げるのはどうだろうか。記憶が戻っていることを、王は知っているのだろうか。知らないでいるとは思えなかったが、詳しい話し合いの場が持たれたとも思い難かった。息子がいることも知らないだろう。夫がいたことは、罪人であったことは。どこまで女の口から語られたのか。知るまでは危うい気がした。

 女に、ハドゥルのことを知らせよう、とは思っていた。無事に『お屋敷』に保護されていたこと。今は『花嫁』を持つ『傍付き』であること。元気でいること、健康であること、幸福であること。日々忙しくも満ち足りて過ごしていること。なにを話せば落ち着いてくれるのかは、分からなかった。母、という存在は、ジェイドにも遠い。

 思えば実家というものには、『学園』に入学しても便りのひとつも送ることなく、長期休暇にも帰ったことがない。生きていることは『お屋敷』経由で伝わっているだろうが、そういえば、結婚して妻を得たことを知らせた記憶さえなかった。思わず、視線を天から地に伏せる。

 親不孝といえば親不孝な生き方をしてきた自覚はあるのだが、それにしてもあんまりに興味関心がないことが、今更ながらやや申し訳ない。他人の家庭事情に首を突っ込む前に、もっと突っ込んでいかなければいけない実家が、そういえばジェイドにはまだあったのだ。家が絶えたとも聞いていないので。あるにはあるはずである。

 うーん産まれたら孫ができたよって手紙でも書こうかな、とひとり納得し、ジェイドはため息をついて見張りに開門をお願いした。ハドゥルにも女にも王にも、言わなければいけないことと、言ってはいけないような気がすることと、言ってあげたいことがあって、けれどもそれが正しいのかどうかが分からない。

 正しいことだけをしたい訳ではない。間違ってしまえば取り返しがつかないことだけが分かる。だから、正しいことを選んでいきたい。それが崩壊の先送りにしかならないとしても。ジェイドさま、と声をかけられて、門が開ききったことを知る。うん、と頷いて、ジェイドは足を踏み出した。意識の一部を、ゆっくりと眠らせる。

 おかえりなさい、と『お屋敷』の入り口でジェイドを出迎えたのは世話役たちだった。湯をお使いになられますか、という問いに、無言で頷く。着替えも、と求めれば心得た動きで、一人が先に駆けて行った。世話役たちの、その仕事の範囲内に、どうも戻って来たジェイドの身支度が含まれてしまったようで、妙に落ち着かない気分になる。

 助かるは助かるのだが。脱衣所で服に手をかけながら、別にそんな世話をしてくれなくても、と訴えたジェイドに、世話役たちは口を揃えて寝ぼけなくなってから言ってください、と言った。自己暗示は今の所成功しているが、ジェイドは魔力がある分かかりもいいらしく、意識を眠らせると本当に寝ぼけてしまうのだった。

 先日、急いだ伝令を避けようとして窓から落ちかけたのを聞いた当主が、世話役たちに目が覚めるまでと重々言い聞かせた結果であるという。言い訳の仕様がない失態だったのでそれ以上は強く言えず、ジェイドは粛々と湯で体を清めることにした。

 温かく、さっぱりとすると、目も覚めるものである。戻った脱衣所に世話役たちの姿はなく、着替えの上に水筒だけがぽんと置き去りにされていた。てきぱきと身支度を整えて、ジェイドが向かったのは居室ではなくミードの区画だった。廊下には甘やかな『花嫁』たちのはしゃぎ声が、ふわふわと零れて漂っている。

 戸口から顔を覗かせて、ジェイドは妻の名を呼んだ。

「シュニー。ただいま」

「ジェイド! おかえりなさい」

「うん。ミードさま、ラーヴェ、ただいま戻りました」

 赤子を腕に抱いてあやしながら、機嫌の良い笑みでミードは柔らかく頷いた。入室していいよ、と『花嫁』の代わりにラーヴェが許可を出す。ありがとう、と告げて、ジェイドはようやく室内へ足を踏み入れた。区画の入室には、必ず『花嫁』の許可がいる。

 ほんとうなら声をかけるのもミードが先でなければ失礼なのだが、分かっていてもシュニーがぶんむくれるので、暗黙の了解としてそれは許されていた。足早にシュニーの元へ歩み寄り、ジェイドは妻の顔を覗き込んで問うた。

「今日はなにをしていたの? 気分は? なにか食べられた?」

 順調に妊娠から出産までをやりとげたミードと違い、シュニーはやや悪阻が重く、体調を崩しがちな日々が続いている。『傍付き』が傍を長く離れていられる状態ではないのだが、ラーヴェが妻と赤子と合わせて三人分の様子を見ることで、現状はなんとか落ち着いているのだった。

 ありがとうな、と申し訳なく落ち込むジェイドに、ラーヴェは妖精のことの恩返しだと思って、と慰めた。ミードの回復が早かったのも、妖精の祝福あってのことである。きらきらとした祈りの守護は細く長く続き、いまも『花嫁』の周りをふうわりと漂っている。ヴェールのように、ミードに寄り添い揺れている。

 気まぐれだが面倒見のいい妖精は、よくよく良い祝福を授けてくれたらしかった。以来ミードは一度も体調を崩すことがなく、きゃっきゃとはしゃぎながら赤子に乳を含ませ、あれこれとシュニーの世話を焼いてくれている。としごだものっ、と胸を張り、まかせてっ、というミードは頼もしかった。

 やや青白い面差しを、それでも幸福そうに緩ませて。シュニーは問いに、ひとつひとつ、ゆっくりと答えて行った。ミードと一緒にレロクを見ていたの。大丈夫、元気でいるからね。ご飯もね、たくさんじゃないけど、出されたものは全部食べたの。本当よ。あ、それで、あのねジェイド。あのね。

 いとしさを。そのまま形にしたようなとろける笑みで、シュニーがジェイドの腕を引く。導かれて、手を置いたのはふくらんだシュニーの腹だった。なんだろう、と思っていると、手に衝撃があった。どん、と。結構な力で押し返される。うわっ、と思わず声をあげてしまったジェイドに、シュニーは花のように笑った。

「お父さん帰ってきて、嬉しいねって」

「そ……そうなの? これ」

「うん。ね、うれしいね」

 どんっ、とまた叩かれたような、蹴られたような衝撃がある。シュニーの言う通りであるらしい。そっか、と触れた手を離さないまま、ジェイドは今まで感じたことのない想いに微笑んだ。今すぐシュニーを強く抱きしめたい気もするし、なんだか、泣きたいような気持ちにもなる。

「……シュニー」

「なぁに、ジェイド」

「ありがとう。……会えるのが楽しみだ」

 そろそろ名前を考えておかないといけないかな、と急に慌てた気持ちで呟くジェイドに、シュニーはくすくす、いとけなく笑って。ふたりで一緒に考えようね、と嬉しそうに囁いた。


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