あなたが赤い糸:55
『お屋敷』に迎えられるまでのことを、どれくらい覚えているか。問いかけたジェイドに、ハドゥルは分かりやすく不審げな顔をした。どうしてそんなことを聞かれなければいけないのか分からず、また、どうしてそんな会話をしなければいけないのか、と思っている顔だった。ハドゥルは分かりやすく、ジェイドのことが嫌いである。
そもそも最初から仲が悪い相手なのだ、ハドゥルという、ジェイドよりいくらか年下の『傍付き』は。因縁はジェイドがシュニーの『傍付き』として選ばれたことから始まっていて、顔を合わせた瞬間にもう睨みつけてきたのが出会いである。態度にも言葉にも出して直にかみついてくる分、ジェイドは結構ハドゥルを気に入っているのだが。
「……いやお前そんな顔しても可愛いだけだから」
「女顔って! 言うな! 言うなよっ! う……ちくしょうお前のせいだ……」
立ち上がって叫んだことで、控室の視線という視線がハドゥルへ集中した。『花嫁』の前では決して出さない声の大きさと言葉に、『傍付き』やその補佐たちからはほのぼのとした、未熟な者の成長を願う温かなまなざしが向けられているのだが、それもまた、少年の心をジェイドへの怒りに掻き立てるらしい。
ぎりぎりと歯を噛むような音すら聞こえてきそうな顔を向けられて、ジェイドはふ、と笑ってハドゥルの神経を逆撫でた。
「『じつはハドゥルは女の子なの?』って、最近は誰にも聞かれないだろ? よかったな」
「ああぁあああああおまえほんとおまえほんっ……」
頭を抱えてじたばたもがき、全部お前の教育が悪かったせいなんだからな、と涙ぐんだ声を出す少年に手を伸ばし、ジェイドはにこにこ笑って頭を撫でてやった。今でこそ少年らしさが際立ちなりを潜めているが、幼い頃のハドゥルと言えば、まさしく紅顔の美少年だった。くりくりとした目と、長めの髪、甘く幼い顔立ちの。
そのせいで、シュニーが一度、ほんとうに不思議そうに首を傾げながら問うた言葉が件の台詞である。不幸なことに、『花嫁』たちが集まるお茶会の席でのことだった。当然そこには『傍付き』と、候補生たちもいた。耐えきれず真っ先に笑ったのはジェイドであり。ハドゥルが今も、それを恨めしく思っていることを、知っている。
そうやって突いていじめ返すだけ成長したよね、ほどほどに、と窘めるのはラーヴェだが、男も当然その席にいた一人だ。そして、ジェイドとは一秒差で爆笑したのもラーヴェであり、面白がって方々に広めて行ったのはラーヴェであり、口止めなんていう優しい処置をしなかったのもラーヴェである。ジェイドは止めた。
つまるところ、多数の『花嫁』『花婿』からきらきらした目で質問を繰り返される羽目になった元凶はラーヴェであるのだが、その事件を経てもハドゥルのやや盲目的な男への敬愛が薄れるようなことはなく。一方的に絡まれるのはジェイドだけなのである。
嫌われてはいるが、排斥しようとはしていないし、憎まれもしていない。なぜなら話があるといえば、嫌な顔をして気乗りしない溜息をつきながらも、こうして付き合ってくれるからである。質問に対しての返事が、きちんと帰ってくるかは別にして。
数日前に得たばかりの『花嫁』を補佐に託して、すこしだけだからな、と言いながらも、時間を作る。それは『傍付き』としては、相手への最大限の親愛と譲歩をも意味している。ただ単に、弟分として彼を教育し世話をしたラーヴェのおかげで、あるいは、そのせいで、頼みごとを断れない風に育ってしまったのかも知れないが。
そういえば正式な『傍付き』就任、本当におめでとう、と心から祝えば、ハドゥルはぷるぷるしながら顔をあげ、嫌さを隠そうともしない顔で、けれどもハッキリと響く声で、ありがとう、と言った。口元を手で押さえても堪えきれず、ついジェイドは笑ってしまう。この礼儀正しさを捨てきれない所が、ハドゥルの可愛く突きがいのある所だ。
そのへんにしてあげなさい、と周囲から向けられる視線に苦笑して、ジェイドは今にも帰りたそうに落ち着かないでいるハドゥルに、向けた問いをもう一度繰り返した。
「『お屋敷』に迎えられるまでのことを、どれくらい覚えてる?」
「……なんでそんなこと」
「仕事。魔術師の方の」
正確に言うなら、ジェイドの個人的な事情、かつ保身の絡む所ではあるのだが。ハドゥルは魔術師の、と言葉を繰り返して呟き、眉を寄せて黙り込んでしまった。言いたくない、と断るか、それとも素直に告げるべきかを迷っているのだろう。ハドゥルとの会話はいつもこの空白を挟んでいたから、ジェイドはのんびりと待つことにした。
あの、寵妃と会った次の日のこと。ジェイドは王に呼び出され、ハレムに不審者が侵入したことを告げられたが、意外にも言葉はそれだけだった。ジェイドが疑われることはなく、心当たりがないかと探りを入れられることもなく。日々の業務にひとつ付け加えるだけの響きで警備の見直しと徹底を命じられ、それだけで解放された。
つまり、女は王にそれを告げることはなく。恐らくは女に抱き込まれている警備の者も、王の追及を上手く誤魔化し。そして、他に目撃者などもいなかった、ということだ。完璧な隠蔽である。つまりは犯罪である。露見したら言い訳しかできないし、罪が深まった気しかせず、ジェイドはひとり、部屋の隅で痛みを訴える腹をさすった。
ジェイドに女難を告げたシークは、事態を理解しているのかしていないのか、胃薬を差し出しながらこう告げた。女難、まだ終わってないと思うから気をつけてね。コイツ言葉魔術師じゃなくて占星術師だったっけ、という疑いの目を向けながら、今度こそジェイドはそれに頷いた。それから一週間。再びの拉致には、至っていない。
しかし、明日か、明後日か、というような予感があった。一度接触して確信を持った以上、女が諦めるとは思えなかったからだ。寵妃はジェイドに、探して、とも、合わせて、とも言わなかったが、ただ話を聞きたがった。どんなにか細い情報でも、その手に握って縋りたい、とそう告げるように。
再度のお召しがある前に、だからジェイドはすこしでも、渡す情報を持っていなければいけないのだ。瞳の色は同一。告げられた名前も同じもの。けれども、数奇な偶然の一致、というのも世にはあるのである。間違いだったとなった時、あの狂った記憶を蘇られた寵妃が、いかなる状態に陥るのかは、考えたくなかった。
また、日々苛立ちを募らせるジェイドの王が、どうなってしまうのかを。王が求めているのは、恩義故の感謝や親愛ではない。今更それを告げられたとしても、受け取れるものではないだろう。女の記憶が戻るまでの十数年も、ジェイドは知っている。仲睦まじいふたりだった。失われてしまったのだとしても。
虚構の上に築きあげられたものだとしても、それもまた、真実ではあったのだ。
「……あんまり覚えてない」
話してくれることに、決めたらしい。ハドゥルが記憶を探りながらそう呟くのに、ジェイドは茶化すことなく頷いた。五年に一度、外から招かれる者は五歳までと決まっている。それ以上は教育の関係上難しく、迎え入れたとしても特例となり、中枢に携わる職へはつけないのが決まり事だ。ジェイドは一級の例外である。
女の話から考えても、ハドゥルは四つか、五つで『お屋敷』が迎えたこととなる。それくらいの記憶を、十数年後まで保持している者は稀だろう。期待はしていなかった。ただ、すこしでもいい。情報が欲しかった。一致して欲しいのか、それとも否定する材料が欲しいのかは分からず、なんでもいいんだ、とジェイドは言った。
「誰かと、どんなことを話してた、とか。なに食べておいしかったか、とか。住んでた場所とか、一緒にいた人のこととか」
「……なんの仕事だって?」
「魔術師の。探し人、だよ。どんなことでも、どんな……些細な手がかりでも、欲しい」
探されてるのはお前で、探してるのはお前の母親でいまこの国唯一の寵妃なんだけど問題が山積みすぎてとりいそぎ胃が痛い、と胸の中で言葉を響かせて。ジェイドはうろんな目で見てくるハドゥルに、探し人の仕事だよ、とそれだけを繰り返した。
魔術師は相変わらず、理解のできないことばかりをする、とため息をついて。ハドゥルは眉間の皺を深くしながら、首を傾げて口を開いた。
「……清潔で、安全な場所にいたと思う。優しい人ばかりだった。皆、優しかったけど、そこで育つことはできないって俺も知ってた、気がする。たまにその……家? 大きな家。そこに来る誰かが『お屋敷』の関係者で……開放日に合わせて、連れて来てくれた。そんな感じだったと思う」
「ありがとう。……うん、そっか」
優しい人たち、のことを。鮮明に覚えていないことが、幸福なのかは分からなかった。ハドゥルは正式な『傍付き』となった。つまり、数年すれば、彼はそこへ行かなければならない。教育の場所。『水鏡の館』へ。ジェイドは息を苦しくしながら、そこへ今行ったとしたら分かる、と問いかけた。
ハドゥルはしばらく悩み、記憶を探り。かなしそうに、首を横に振った。
「無理だと思う。……俺がここへ引き取られるより前、いつからか、あんまり部屋から出ないようにって言われてた。その部屋に行けば、まあ、もしかしたら……」
その不手際を。『お屋敷』は決して、すまい。そっか、と頷くジェイドに、ハドゥルはぽつんと言葉を落とす。
「約束。していた、気がする。誰かと……たぶん、母親と」
「……なんの?」
「迎えに来るから。待っていて、って。……待っていなかったから、約束、破ったことになるかな」
ジェイドはなにも言わず、手を伸ばしてハドゥルの髪をくしゃくしゃに撫でた。なんだよ、と本当に嫌な顔をされるのに思わず笑って、もういいよ、と告げる。
「ありがとう。役に立った」
「……仕事の?」
「仕事の」
ふうん、と呟き、まだ疑わしげな目をしながらハドゥルが立ち上がる。『花嫁』のもとへ戻るのだろう。引き留めず見送るジェイドに、ハドゥルはその言葉を告げるかもさんざん迷った様子で、控室の入り口で立ち止まり。意を決したように振り返り、お前さ、とぶっきらぼうな声でジェイドに言った。
「あんまり危ないこと、するなよな。またシュニーさまが泣くだろ」
「……うん。俺もね、肝に銘じてはいるんだよ……」
どうなんだか、とまったく信頼していない目で鼻を鳴らし、ハドゥルは今度は振り返らず、足早に去っていく。その背が見えなくなるまで見送って、ジェイドは重たい気持ちで息を吐く。恐らく、間違えようもなく。ハドゥルこそ、寵妃の息子、そのひとである。
明日か、明後日か。ぽつりと呟き、ジェイドは椅子から立ち上がった。女難がいつまで続くのか、ということについては。シークは教えてくれなかった。
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