あなたが赤い糸:40


 ようやく塞がった傷口を眺め、少年はやや名残惜しそうに呟いた。

「よかったのに……。治さなくても」

「馬鹿なことを仰らないでください……。お願いですから、どうか。どうか……お願いですから」

 死のうとなさらないで。絞り出す声で懇願する『傍付き』から、当主となった少年はふいと視線をそらして頷いた。分かっている。死なないでいて欲しい、と思われていることを、知っている。彼女がそう願ってくれるうちは、死にきれないことを知っている。

 生きてください、と囁かれる。その言葉を叶えていたい、と思う己の心を知っている。望まれるなら叶えてあげたい。望んでくれることを、返してあげたい。少年はふ、と笑って喉に指先を押し当てた。呪われた思慕は、今や命の為の取引に使われている。

 そうしてくれると知っていたから。少年の恋の片割れは、目の前で喉を突いて死んだのだ。その瞬間を何度でも思い出せる。その瞬間を。忘れることができずに、瞬きの一瞬の空白、真昼の暗がり、夜の静寂の中に、鮮やかに描くことができる。

 死にたい、という願いは奪われた。そして失われたきり、許されないままでいる。当主という立場だけなら、無視してしまえた。『お屋敷』にとっての幸運は、それでも『傍付き』がひとり残ったことだろう。少年のたましいは、あの瞬間から息を止めたままでいる。

 呼吸を。思い出して、途絶えさせないで、どうか、どうか、と。繰り返される願いだけが、少年をか細く生に繋いでいる。前当主の少女は、それを見誤った。すこしでも、わずかでも、立ち直ってくれたのだ、と思ってしまった。安心してしまった。欺かれていることには気がつかなかった。

 ただ、嘘をついていただけだったのに。嘘を重ねて行っただけだったのに。そうしなければ、いきて欲しい、という言葉には応えられなかった。なにを求められているのかは知っていた。どういう期待が寄せられているかを理解していた。その通りにふるまった。

 けれど、嘘を重ねても、心がそれを飲み込むことはなかった。じわりじわりと降り積もっていく圧迫は、息苦しさを募らせて行くだけ。呼吸をするたび、瞬きをするたび、喪失を突きつけられていくだけだった。なにもその空白を埋められなかった。

 埋めようとも思わなかった。代わりを探すことはしなかった。それこそが裏切りに他ならず、その喪失だけが唯一、少年を責め立てた。生き延びたことを、それだけが。その痛みだけが、与えられた怒りだった。他には誰も口にしなかった。なぜ生きたのかを。

 もう替えがいなかったから。『傍付き』を殺してまで生きてしまったことを、誰も怒りはしなかった。そのことを、よかった、とさえ前当主の少女は言った。生きてくれてよかった、と。恐らくは誰もがそう思っていることを、いたことを、少年は知っている。それは『傍付き』の死の肯定だ。喪失は誰にも肯定された。否定されなかった。

 手首と指先にできたかさぶたを見つめて、少年はぽつ、と問いかけた。

「ミードは?」

「……ラーヴェからの返答がありません。世話役たちの声も、補佐であるアーシェラの言葉も……すべて無視されています。部屋には鍵が」

「うん。まあ、そうだろうな。……ああ、でも、それじゃあ……間に合ったんだ」

 その言葉を、安堵に満ちたように。それでいて、興味がなさそうに。歩き疲れて立ち止まるように、少年は呟いた。

「それなら……俺たちの勝ちだよ、ミード」

 傷口の、ようやく塞がった指先に口付ける。傷つける痛みには理由があった。意味があった。それはふたりきりの、裏切りの約束だった。今頃はもうとうに、ラーヴェは仕掛けに気が付いているだろう。出てこないということは、そういうことで。ミードは枯れることなく生き延びた、ということだ。

 出てきたら連れておいで、と少年は『傍付き』に命じる。不安に思っているだろうことをひとつ、教えてあげないとかわいそうだから。柔らかな、擦り切れた微笑みには頷きがひとつ。少年は満たされたように、ふう、と息を吐きだした。




 アーシェラ、とラーヴェの補佐を呼ぶ世話役の、悲鳴じみた声が控え室に響き渡る。入っていいって、ラーヴェが、ミードさまが、と途切れながらも告げられた瞬間、アーシェラはジェイドを一瞥もせず駆け出していく。部屋が閉ざされて、三週間が経過した日のことだった。

 動揺は火のように部屋中に広がり、押しつぶされたように消えていく。それについて『運営』からの通達は、ついぞ下されないままだった。『傍付き』たちは新年の挨拶のおり、当主たる少年から、なんの気もない雑談のような言葉としてそれを知らされた。ミードは嫁がない。当主の妻となる。

 ラーヴェは、と誰かが言った。『傍付き』はどうしているのですか、と。『花嫁』が年末に嫁いでいくことは、知らされなくとも『お屋敷』の誰もが知っていた。それは祝福されることだった。『傍付き』はその為に『花嫁』を育て上げる。国の為に、人の為に、命の為に。『お屋敷』が続いていく為に、それは必要なことだった。

 少年は興味を失ったような瞳で場を眺め、落ち着いた声でこのまま『お屋敷』に残留する、とだけ言った。それ以上も、ことの詳細も、決して語ることはなかった。年末にアーシェラたちが締め出されてからの混乱が決定付けられ、動揺と不安は火傷のように『傍付き』たちを蝕んでいく。

 説明を求めるいくつもの声に、少年は答えず、姿を現すこともなかった。側近の女の説明によれば、体調を崩して起きあがれないらしい。数人の医師が出入りしていたのは誰もが見知ったことだったから、無理を押すことはできなかった。宝石たちは些細な傷、病でも時に死に至る。その綱渡りの脆さを、知らぬ者は『お屋敷』にはいない。

 代わりに動揺を鎮めたのは、前当主たる少女だった。少女は部屋へ押しかけてくる者ひとりひとりを丁寧に落ち着かせ、時に叱咤し、時には怒り、丹念に言葉を聞いて、丁寧に感情を解きほぐした。新年から半月とすこし、その前の異変の夜から三週間あまり。暴動が起きなかったのは、ひとえに少女がそうして鎮めていたからだった。

 知っていたのか、という問いに、少女はきっぱりと分からなかった、と言った。なにかを考えている風であったのは、知っていた。なにかずっと抱え込んでいたことも、知っていた。でもわたしも、誰も、それを聞きだすことはできなかった。楽にしてあげることも。そしてこれからも、きっと、誰も、そういう風にはしてあげられない。

 もし知ってたらわたしは止めたかな、と自問するように少女は呟いた。次々と訪れる者たちが表面的な落ち着きを取り戻し、ジェイドがそっと、少女の様子を伺いに来た時のことだった。止めたかな、それとも、そのままにしておいたかな。応援だけはしなかった、と思う、と言葉は迷いながらも差し出された。

 問うよりはやく、少女は困りきった、泣き出しそうな顔で少女はジェイドを見た。だって、ね。お金がないでしょう。でもあのこはそれを知っていた。この先をどうするか考えて、その上で決めてしまった。くらい影を帯びて少女は言った。ごめんね、ジェイドくん。『お屋敷』はきっと、これから。

 あなたのようなひとを、迎えることを、ながくできなくなるでしょう。あのこはきっと、送り出された『花嫁』の、『花婿』の行く末に夢を見ない。幸福な夢を、そこにしあわせがあるのだという希望を、描くことができない。震える手を祈りに組んで、少女はごめんね、と繰り返した。ジェイドに、『傍付き』たちに、『花嫁』に、『花婿』に。

 その未来に、ごめんね、と囁き告げた。でも、彼の、そう思ってしまった気持ちが、わたしには分かる。欲しかったのがその先の、その末の幸福ではないと、思い込んでしまう気持ちがわたしには分かる。あの時、あの瞬間に。『傍付き』の腕の中で息絶えてしまいたいと思った気持ちが、誰より、わたしには理解できる。

 だってあなたたちに、『花嫁』に『花婿』に、あの教育をせよと命じるのはわたしなのよ、と少女は言った。ラーヴェにも、ミードにも、しなさいという命令をわたしが出した。彼もこれから、その指示を出し続ける。どんな想いでいたのか知っているのに。嫁いで行く、その先の幸福の為に、どうしてもそれをしなければいけない。

 そうだね、と少女は泣き笑いで言った。そんなのいやだよね。しんじゃいたいよね。でも、たくさんの、ほんとうにたくさんのもののために、だれかが、わたしが、それをつづけて、つないで、いかないといけないって、わかってしまったんだよね。いなくなれないよね。いなくなりたいよね。くるしいね。ずっと、ずっと、くるしいままだよね。

 その苦しさを飲み込んで、いなくなりたい気持ちと共に、歩いていける者だけを当主と呼ぶ。彼は、ほんとうなら、それができなかった。『傍付き』がひとりなら、きっと、その腕の中で共に息絶えたのでしょう。言葉を告げられないでいるジェイドに、少女はやわらかく、穏やかに微笑んだ。

 シュニーのことを幸せにしてあげてね、と願われて。ジェイドはそれに、頷くことしかできなかった。あなたは幸せでありましたか、と。問うことはどうしても、できなかった。


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