あなたが赤い糸:33
すみません前御当主に言われてきたんですけれど帰っていいですか、と胃が痛そうな顔をして申告したジェイドに、生き残った『傍付き』である女性はそれはご迷惑をおかけして申し訳ありません、どうぞ、と言って背を扉に向かって押してきた。最高に話が通じない感に遠い目になる。
押し出されないように足に力をこめながら、ジェイドは投げやりな気持ちで問いただす。
「嫌じゃないんですか嫌ですよね俺もシュニーに浮気を疑われたらどうしようと思っているので! 帰っていいですかなんで押し出すんですか嫌じゃないんですか嫌でしょう素直に言ってくれていいんですよ!」
「前御当主さまの遣いとあれば追い返す訳には行きません。なにを仰っているのか……。……ちっ、抵抗しないで早く行ってくださいませんか。リディオがひとりで寂しがっておられますので」
「あぁああこのひといま舌打ちした! しかも人の話聞く気ないやつだ! なんか本投げてくるとか聞いたんですけど、どんな教育されたんですか! 寂しがってるの分かってるなら自分で行けばいいじゃないですか!」
ふたりが立つのは、書庫室の扉を目の前にした廊下である。廊下である以上は人通りがある。それなのに行き交う者たちからは、あらあらまあまあ、と言わんばかりの視線しか向けられないのはどういうことなのか。これではジェイドがごねているようである。勘違いも甚だしい。
短い黒髪の快活そうな印象の女性は、ジェイドを押し出す手に力を込めながら言い切った。
「はい? やんちゃでわんぱくで可愛いじゃないですか」
「あぁああああ駄目だこのひとーっ! 俺だってシュニーが手毬投げるのは、一応注意くらいしますよっ?」
「なにを仰っているのか……注意はしていますよご安心ください? 避けられない相手には、投げないこと。つまり私には投げられますが、あなたには投げませんのでどうぞご安心を」
そんなことをどうして、この上ない自慢顔で言われなければいけないのか。眩暈を感じた所で、力が緩んだのだろう。注意した瞬間には足払いをかけられ、体勢を崩した所を部屋に押し込まれる。それではよろしくお願いいたします、と囁き残した声だけが楚々としていた。力ずくで詐欺にあわされた気持ちになった。
文句を言おうと振り返った眼前で扉が閉められる。直前に見えた女性の笑顔が、つべこべ言わず早く行けよ私の『花婿』が寂しがっているでしょうが、と告げていた。かつてなく理不尽な仕打ちを受けている気がしたが、これくらいならまだかわいい気もした。溜息がでる。理不尽に慣れたくはないのに、完全に慣れている気がした。
書庫室の空気は、生暖かく濁っていた。窓が閉ざされたままなのだろう。風も光も入ってこない、薄暗がりが広がっている。シュニーなら閉じ込められたと大泣きするだろうな、と思いつつ、ジェイドは書庫室の奥へ向かった。本棚の森の先には、読むための机と椅子がある。誰かいるなら、そこだろう。
揺れる火のたもとまで歩み寄る。机の上におかれた平皿には、喉をすっきりさせる香油が満たされていた。『傍付き』が整えていったのだろう。机には他にも『花嫁』たちが好んで口にする菓子や、水差しが置かれている。苦笑して、ジェイドは机の下を覗き込んだ。
毛布を何枚か敷き詰めた巣の中に、うつくしい少年が眠っている。当主を継ぐのは十五を超えた者と決まっているから、ジェイドよりはいくつも年上であるのに、寝顔はまだあまりにあどけなかった。長めに伸ばされた髪は、雪のような白銀。だからなのか、すこしシュニーに似ているような気がした。
ふる、とまつげが震える。『花婿』は、『傍付き』の気配に敏感だ。見知らぬ者がいればすぐに目を覚ます。とろとろとした動きで腕が持ち上がり、くちびるが誰かの名を呼んだ。泣きそうな声で。夢うつつの、期待と不安に満ちたささやき。ジェイドは口唇に力をこめて、『花婿』の前に片膝をついた。
「……おはようございます。御当主さま」
ねむたげに。瞬きを繰り返すまぶたの奥、瞳は湖面に落ちた木の葉の影の色をしていた。新緑の森の、日差しに貫かれ地に落ちた影の色。呼吸を知る深緑。はっ、と見知らぬ者を確認して、『花婿』は枕元においた本を両手で持った。思い切りふりかぶった所で、動きが止まる。
「え……え、えっ……ジェイド……?」
「はい」
微笑んで頷く。挨拶をしたことがあるのは覚えていたが、名を覚えてもらっているとは思わなかった。寝起きの目で、ぱちぱちと瞬きをして。『花婿』はひっ、と息を飲み。急激に頬を赤く染めて、可哀想なくらいに狼狽した。
「なっ、なんで……! ちが、ちがう。これは、この本はその、投げ……な、投げてない、投げてないから!」
「……はい。そうですね?」
「う、うん。そうなんだ……投げたりしない……」
そろそろと本を下ろした『花婿』は、それを大急ぎで毛布の間に仕舞い込んでしまった。そうして、机の下からもそもそと這い出てくる。よろよろと立ち上がり、『花婿』はくちびるを尖らせてあたりを見回した。確認しながらも、すがるように呟く。
「ひとりか? ジェイド」
「……リディオさまのフォリオなら、扉の前にいらっしゃいましたよ」
とても『お屋敷』で囁かれる噂の、片割れとは思えない素振りで。げっそりと息を吐くジェイドに、『花婿』は綻ぶように笑った。元気なんだ、とすこし、自慢げな響きで告げられる。いつも元気で、明るくて、それで。言葉はすぐに暗い響きを帯び、ふつりと途絶えて消えてしまう。
ぺた、と力を失ったように、『花婿』はその場に座り込んだ。
「……怒ってた?」
「いいえ」
ジェイドに対して舌打ちしたくらいである。『花婿』に対しての怒りではなく、傍にいられない苛立ちならば感じ取れた。寂しがらせてしまうことに対して。傍にいることを、望まれないことに対して。『花婿』は無気力な瞳でそうか、とだけ呟き、机の上の菓子や飲み物をぼんやりと眺める。
どれひとつとして、手がつけられた形跡はなかった。
「……なにか、口にされましたか?」
「いらない」
分かっていて問いかけると、拗ねきった声が返される。ぷい、と顔を背けて用意を見ないふりしている姿は、まさしく当主の少女の言う通りだった。拗ねてちょっと不機嫌なだけである。ジェイドは苦笑しながらしゃがみこみ、御当主さま、と『花婿』のことを呼んだ。
「なにか召し上がってください。せめて、お茶だけでも。……きっと、お好きなものばかりですよ」
「……用意したなら、傍にいればいいんだ」
ぷい、とまた顔を背けられる。視線は書庫室の扉へ向けられていた。呼んできましょうか、とジェイドが言うと、やだ、と拗ねきった声が返される。視線だけがずっと、扉の向こうを見つめている。ジェイドは無言で机の上に手を伸ばすと、陶杯に水を注ぎこんだ。輪切りの檸檬と薄荷の葉が、やんわりと香る。
持たせると、『花婿』の瞳が水面に向けられた。そこへ零れた思い出を、息をひそめて見つめているようだった。ひとくち飲むと、渇きを思い出したのだろう。もう一口、ゆっくり飲みながら、『花婿』はぼんやりとした口調で言う。
「いつも……水を用意してくれたのは、キラだったんだ」
「はい」
「フォリオは、下手くそじゃないけど、そういうのがすこし苦手で。だから、いつも俺なんですよってキラが」
ふ、ふ、と息を詰まらせるように『花婿』は笑った。陶杯を持つ指先を震わせて。深緑の瞳から、雨のように涙を零して。背を丸めて、まるで。
「さっき」
誰かに助けを求めるように。
「キラが、来てくれたのかと、思った」
こくん、と水を飲み込んで。まるで飲みなれないもののように眉を寄せて、『花婿』は呟く。来てくれたら。もう一度だけでいい、来てくれたら。本を投げて怒るけど、きっとまだ怒ってしまうけど、でも、ごめんなさいって言う。夢をさまようように視線で、誰かを探しながら、『花婿』は言った。
「怒ってるのかな。……フォリオは、もう会えないって言うんだ。そんなに、キラ、怒ったのかな……。俺のこと、嫌いに、なったのかな……」
「……御当主さま?」
「なんであんなこと言ったんだろ……」
不思議そうに、あどけなく首を傾げて。ゆっくり、ゆっくり、『花婿』は陶杯を傾けていく。喉を潤すのではなく。涙を流す為に飲んでいるような、静謐な仕草だった。
「嫌い、なんて、嘘だよ……。キラと、フォリオが、そうして欲しいなら、俺、やるから……当主になって、頑張って、ちゃんと、やる。やるから……傍にいて、戻ってきて……俺を許して……」
怒ってごめんなさい。許さないって、言って、ごめんなさい。嫌いって言ってごめんなさい。触るなって言った。うらぎりものって、言った。うそつきって、いった。あんなに大切にしてもらってたのに。あんなに好きって言ってくれてたのに。全部疑った、信じなかった、騙したって思った。ごめんなさい、ごめんなさい。
しのうとしてごめんなさい。もうしない。しないから、だからゆるして。かえってきて。もどってきて。そばにいて。
「……しなないで」
静かに、静かに、呟いて。泣き伏す『花婿』の首には、血の滲む包帯が巻かれている。言葉もなく、ジェイドは口元に手を押し当てた。どんな願いでも、命令でも。それを望まれたなら、どんなことでも叶えるだろう。その望みを叶えることこそ『傍付き』の幸福。それでもいとしいひと、あなたに、いきていてほしいとおもう。
『花婿』にはふたりの『傍付き』がいた。彼は損なわれても託せると知っていた。本来ならば誰にもできない筈のことを、『補佐』であれば不可能なことでも、『傍付き』であれば支えて、生きてくれると知っていた。残されたひとりが、懇願してくれると知っていた。
目を閉じて、ジェイドは息を吸い込んだ。ああ、どんなにか満ち足りたことだろう。『傍付き』は、『花婿』の望みを確かに叶えたのだ。
あなたは私。私の幸福、私の命。私の全て。
この存在は、この命は、すべて、あなただけの為のものだった。
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