あなたが赤い糸:24



 通された部屋には、数種類の香りが漂っていた。清涼感あふれるきよらかな香りは、喉の通りをよくして痛みを抑え、炎症にも効果的である。ジェイドは示されたソファに座りながら、対面に腰掛けた当主の様子を伺った。少女は湯気の立つ陶杯を両手で包むように持ちながら、ジェイドの視線を受け止め、穏やかに微笑した。

「大丈夫。風邪じゃないからね。うつしたり、しないから。安心してね」

「……ですが、体調が悪いのなら日を改めます」

 明日には長期休暇が終わる。そうすればまた学園とシュニーの元を往復する慌しい日々が始まるだろうが、『花嫁』が無理をして体調を崩すことを考えれば、多少睡眠時間を削っても別に予定を合わせる方がずっといい。当主の側近はどうして止めなかったのかと眉を寄せるジェイドに、少女はゆっくりと首を振った。

 大丈夫だから、と囁かれる。そこにいてね、と求められて、ジェイドは立ち上がる為の力を失った。穏やかで、やさしい。その言葉にどうしてか、逆らえない。はい、と困惑しながらも頷くジェイドの視線の先で、少女はふぅ、と香草茶に息を吹きかけた。

 ひとくち、飲んで。薄荷湯だ、としあわせそうに言葉をこぼすさまに、さらに力が抜けた。少女はかつての『花嫁』であり、現在の『お屋敷』の当主である。そうであるからジェイドよりはうんと年上であるのに、決して、大人のようには見えなかった。

 未熟な印象はない。ただ、幼いままに停止して、完成しきっている。ミードの母であることは間違いないのに、女、という風には見えず。母とも思えず。落ち着いた、穏やかな、あどけなさを残す少女がそこにいた。

「喉がね……昔から、あまりつよくないの。それだけよ。……じゃあね、おはなしを、はじめます。まずはジェイドくん、明日からはまた、魔術師さんの学校へ行くと聞いているけれど、それに間違いはない?」

 机の上に置かれたちいさな暦表を一応確認して、ジェイドは頷いた。今日が一月の末日であるから、明日からはまた魔術師のたまごとして生きていかなければならない。うん、と少女はちいさく呟いて暦表を何枚かめくる。すこし難しげに、眉が寄せられた。

 室内は静かだった。長方形の机を挟んで向かい合わせに置かれたソファには、ジェイドと少女しか座っていない。少女の背後にはひとりの女が控えていたが、ともすれば存在を忘れてしまいそうなほど、音を立てることも口を挟んでくることもしなかった。

 とん、とん、と。なにかを数えるように、少女の指が暦表に当てられる。次の長いお休みまで、また一年、と呟かれるのは、ジェイドの予定だろう。きゅぅ、とさらに眉が寄る。ううん、うぅん、と困りきった声が零れ落ちた。瞬きが何度か、ため息は、一度。

 少女の持ち上がった視線が、真正面からジェイドを見る。

「あのね。国王陛下と魔術師さんから、とても……とても怒られていてね。ジェイドくんに、頑張らせすぎだろうって言われているの。私もね、ジェイドくんがどういう経緯でシュニーの『傍付き』になってくれたかは、もちろん知っているし、魔術師として招かれたことも、分かっていて……ううん、本当には、ちゃんと分かっていなかったのかな」

 ごめんね、と眉を下げてしょんぼりとする少女に、ジェイドは心から首を振った。やる、と決めたのはジェイド本人だった。それが過酷だと分かっていて、シュニーに毎日会いに来ることを選んだ。少女はジェイドの反応に、安堵と罪悪感が入り混じった表情を浮かべ、またひとくち、薄荷湯を飲み込む。

「……ありがとう。それで……それでね。もうすこし、会いに来ないでいいようには、ならないのか、と聞かれています。ジェイドくんが悪いのではないの。とても頑張ってくれたのは、私も、魔術師さんたちも、よく分かっています。でもね、やり方を変えましょう。ジェイドくんがもうすこし楽になるように。……そして」

 ふ、と。少女の瞳が、くらい影を帯びる。

「わたしたちが、あなたたちのしあわせを、ゆるせるように」

 けほ、と乾いた咳を少女の喉が吐き出した。つよい意思を乗せた言葉に、傷つき耐え切れなかったような、痛々しい咳だった。けほ、こほ、と連続して咳き込む少女に、控えていた側近の女はソファの前へ回り込んだ。座面から体を攫うように少女を抱き上げ、背をやんわりと撫で下ろす。

 落ち着くまでには、じれったいような時間が必要だった。は、と疲弊した吐息をくちびるから零し、少女は女の腕の中からジェイドを見て、申し訳なさそうな顔つきをする。落ち着いたわ、と当主が囁く。女は心得た仕草で少女をソファへと座りなおさせ、有無を言わさず薄荷湯を差し出した。

 こく、こくん、と飲みながら、少女の視線が気まずそうに伏せられる。

「あのね。知っている……分かっているとは、思うけど。『傍付き』っていうのは、『花嫁』や『花婿』を育てて、送り出すのがお仕事なの。それでね、だから、『傍付き』が『花嫁』を、お嫁さんにするって……いうのは……。いけないの。いけないことなの。それはね、規則を破る、とか、そういう意味での、いけないこと、でもあるんだけど」

 ゆるゆると、当主の視線は落ち着かずに彷徨っている。かつて『花嫁』であった少女が。苦心して言葉を捜している。穏やかな気持ちで、はい、とだけ返してジェイドは待った。急がせるつもりはなかった。うん、と気乗りのしない声を落として、少女は何度か、あのね、と言った。

「……生きるための、お金のはなしなの。『お屋敷』と、この場所に関わる人たちと、砂漠に生きる人々を、これからも生かしていく為のお金の、おはなし。その為に『花嫁』は育てられるし、その為に、嫁いで行くの……でも、そんなのは、あんまりだから……それだけだと、あんまりだから。しあわせになるように。なれるように、行くのよ」

 ひどいって言われることかもしれない、とかつての『花嫁』はゆっくりと言った。それでもあなたは、わたしたちは、考えていかなければいけない。引き換えにされる金品が、砂漠のいのちをどれほど救っているのか。生かすのか。生かしたのか。繋いだのか。失わせなかったのか。

 たとえば『花嫁』の口に入るたべもののおはなし。農業従事者と、料理人。それぞれの雇用と教育。調味料を考える。たとえば塩を精製する工場。そこで働く人々。流通の確保。商人たち。服のことを考える。綿花や絹。糸を紡ぐ、布を織る。色で染める、模様を描く、刺繍を入れる。その為の職人の確保教育、育成。仔細に及ぶ。

 ひとつ、ひとつ、ひとつ。すべて。わかるでしょう、と少女は言った。

「『花嫁』という仕組みは、もうとうに始まってしまったし、もうずっと、続いてしまっている。莫大な雇用と給金が動いている。わたしたちは……『お屋敷』というのは、この砂漠の国を流れる血液なの。滞ってはいけない。仕組みが緩めば、末端から死んでいく。……嫁いでいく者を決して、哀れまないで。誇りを抱いて、わたしたちは行くのよ」

 恋を置いていく。永遠の恋を残していく。ほんとうならば、それだけのこと。ゆっくり、ゆっくり、瞬きをして。幾重にも絡み合う複雑な感情を、つよく宥めて。少女は息を吸い込んだ。『花嫁』ではなく。続いていくこの場所を、繋げて。先へ渡す役目を背負うことを選んだ少女は。

「……だからね?」

 困った様子で眉を下げて。わかってくれたかな、とちいさく首を傾げて言った。

「本当は、ほんとうに、ほかにもたくさん、色々、いっぱい、あるんだけど……。分かりやすいのは、当面の問題としては、シュニーが嫁ぐまでに得られる筈だった費用の回収と。嫁ぐにあたって貰える筈だった分の損害をね、どうしようかなって、そういうことなの。だからね、あの……ごめんね。許せることではないし、おめでとうって言えないの」

 あっ、もちろんね、あのね、おめでとうって思うし、よかったねって思うし、うれしいことだし、そうなんだけど、と叱られたこどものような顔をしておろおろと呟き。少女は泣くのをこらえるように、浅く速く息をして、瞬きをした。

「ごめんね……」

 はい、とも、いいえ、とも返事がしがたい。ただ申し訳ない気持ちで、ジェイドはちいさく頷いた。ごめんねえぇ、とさらに落ち込まれた。

「あのね、あのねっ、いま、あの、ほんとに……あの……おかねがないの……。全然、今すぐだめってほどじゃないんだけどね、何年かは、あって、それは、大丈夫なんだけどね……『花嫁』とね、『花婿』の数が、すくなくて……スピカはディタと逃げちゃうし……当主の候補は、耐えきれなくってみんな枯れちゃうし……」

「大丈夫。まだ一人残っておりますよ」

 涼しげな顔で告げる女に、当主たる少女は涙ぐんで首を振った。

「あとひとりしかいないでしょぉ……。ごめんね……ほんとうに、ごめんね、ジェイドくん……。たくさんね、数がいれば、ひとりくらい、ちゃんと賄えるの。でもね、その、その……いまね、ちょっと世話役たちの数が余っているくらいって、いうか……育ってくるのにもうちょっと時間がかかってね。シュニーはだからね……きちょうだったの……」

 そしてジェイドと気持ちを通じ合わせてしまった以上、どこかへ嫁がせることは、もうできないのだという。だってしあわせにはなれないでしょう、と少女は言った。その先にある幸福を希望として送り出せないのであれば、そんなことはしない、と落ち着き払った、やわらかな声で告げて。

 少女はやや不安げにジェイドを見つめ、だから連れてどこかへ逃げたりしないでね、と言った。

「ジェイドくんは魔術師でもあるから、『学園』のこともあるし、そんなことはしないだろうけど……。しばらくは、シュニーのことはわたしたちに任せて、ジェイドくんは魔術師であることに、ちゃんと向き合ってきてください。毎日来たら駄目よって言っている訳ではないの。分かってね?」

「……はい。シュニーは、このことを」

「わたしから、おはなしします。……あのね、お金のこととか、あなたたちふたりのこと、とか。考えていることがあるの。魔術師さんや国王陛下からの要望と、わたしたちの事情は、もしかしたら両方、ちゃんと、叶えられるかも知れない……どちらにも、いままでとは違う努力を、求めることになると思います。それを、どうか」

 受け入れて欲しい、と少女は言った。『お屋敷』の為に、この国の為に。そうしなければ失われてしまう、取り返しのつかないたくさんのものの為に。ジェイドは少女に、分かりました、と言った。うん、と安堵に微笑んで、少女は口に手を押し当てた。堪えきれなかった咳が、幾度も零れ落ちていく。

 女に視線で退席を促され、ジェイドは頷いて立ち上がった。また連絡をお待ちしています、と告げる言葉は届いたのだろう。少女は咳き込みながらも視線を持ち上げて、柔らかく、目を細めて笑った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る