あなたが赤い糸:16
なにから話そうか、とジェイドは言った。落ち着いた、穏やかな、優しく響く声だった。言葉を相手に届けるのに長けた声だ、と妖精は思う。声を張り上げなくともするりと耳に触れ、意識へ優しく落ちていく。隔離される程、常軌を逸しているとは思えなかった。シークの言葉を聞いていてさえ、それが冗談だったのではないか、と思わせる程に。
困惑もあらわな妖精たちの様子に、シークはまあそう思うよねえ、と理解者の苦笑で頷いた。うちの筆頭と来たら天性の誑しだから君たちでもそうなってしまうのは理解できることだよ、と。呟きに、ジェイドは肩を震わせて笑った。
「俺が誑かそうと思ってそうしたのは、妻と陛下くらいのものだよ、シーク」
「ほぉらこんなこと言う……。その陛下がおかんむりだよ、ジェイド。撤回するまで、君をここから出すなとのお達しだ」
「ああ、そうなの? 困ったな……脱走か……」
なにがどう困っているというのか。白んだ目で距離を取る妖精たちに、僕は君たちの味方だからね、という顔つきで頷いて。本当に困ったよねえ、と言葉上だけ、シークはジェイドに同意してみせた。
「撤回すれば出してくれるっていう話なのに、全然その気がないんだもんねえ……。困った筆頭だよ」
「困ってるのは俺のほうだよ、シーク」
正方形の部屋には、とにかく物がない。さっさと椅子を奪って腰掛けてしまったシークに肩を竦めて、ジェイドは窓辺に立ったままでいた。視線は室内と、『お屋敷』の尖塔をゆるゆると往復している。他愛もない言葉と向けられる微笑みで絆されそうになりながらも、妖精が警戒を失わないでいるのはその仕草のせいだった。
己の意思の向く先以外、今はなんの興味も関心もない、とそう告げる動き。視線を向けないまま。やんわりと意識に好意を織り込む、魅了めいた声がのんびりと告げる。
「厳選に厳選を重ねて十五人で妥協します、って言ってるのに。落ち着けだの考え直せだの人数を減らせだの。全滅に走らないだけ、俺は落ち着いてるし考え直したし、減らせるだけの人数は減らしてやって、十五人で我慢します、なんだよ? それが最低人数。これ以上の譲歩はしない」
「脱走してでも?」
からかうように言葉をかけながらも、シークは油断なくジェイドのことを見つめていた。男の視線がゆっくりと、室内へ戻ってくる。夜の瞳。月を弔い、星を失った、ひかりなき暗闇の色。思い出したように瞬きをして、ジェイドはあくまで穏やかに、あまやかに微笑した。
「最後の手段として候補にいれてる。……安心していいよ。今の所、積極的にそうしたいって訳じゃない」
「尋ねておくけど、君が最後の手段かなって踏み切るだけの条件は?」
「調査報告と向こうの出方次第かなっていう所はあるけど……うーん、忍耐? 俺の忍耐が後どれくらいもつか?」
シークは椅子の背もたれに己の体を全て預け、子供っぽく足を動かした。なにかを投げ捨てるように、ぱっと両腕が広げられる。
「わぁお、驚くほどなにも期待できないねそれ! そもそも君の忍耐って存在するのかい?」
「もちろん存在しているよ。砂漠みたいに広い時と、砂時計みたいに小規模な時があるけれど」
「どちらにせよ、なんか砕けてないかな? 忍耐ってもっと強固なものであるんじゃないかな? っていう疑問が拭えなくていまひとつ安心できないし、今はどっち? って知りたくもないことを聞きそうになるお返事をどうもありがとう」
にこ、にこにこ、と笑いあう魔術師たちに、妖精はついてきたことを後悔しながら首を振った。思い出されないうちに帰ろう、と決意する妖精の、気配を感じたようにシークの視線が向けられる。お待たせ、と声をかけられて、妖精は無言で羽根をぱたつかせた。待っている間にそっと帰らなかったことを心から悔やんだ。
「ボクの用事は終わった。あとは君たちが好きに、質問でもなんでもするといい。……ふふ、陛下おいたわしい。今日もボクからの、ジェイド? 駄目ですよ。全然反省していませんし、反省のそぶりもありません、時に『お屋敷』との交渉は如何です? その進捗によってはもうすこし思い留まるようですが、っていう報告を受けなければいけないだなんて」
「ちゃんと胃薬を差し入れるんだよ、シーク。あの方はすぐ食欲が失せるから」
「ボクの気遣いがなってないみたいな言い方をしないでくれるかな? 安心していいよ、ちゃんと頭痛薬持って行ってあげるからね」
この魔術師たちを臣下として管理しなくてはならない、という一点のみにおいても、妖精たちは砂漠の施政者に心からの同情を捧げた。にこにこ笑いあう二人は微妙に仲が悪い、ふりをして楽しくじゃれあっているようにしか感じられない。妖精はほとほと呆れた息を吐き出した。性格が歪みきっている。
ソキの素直さを恋しく思いながら、妖精はようやく窓辺から離れ、寝台へと腰掛けた男へ問いかける。
『あの日。あなたは……あそこで、なにをしていたの?』
「シークは? なんて?」
「ボク? 正直に言ったよ。無断進入、暗示にかく乱、わるいこと!」
うわぁ悪人だ、わるいことだ、と魔術師はくすくす笑いあっている。ややうんざりした様子で、苛立たしげに、鉱石妖精はその光景を睨み付けた。いい加減にしなさい、と怒られる気配を感じたのだろう。楽しげな笑みをひっこめて、ジェイドは素直に囁いた。
「あの日はわるいことはしてないよ。お墓参りに行っただけ」
『……お墓参り?』
「妻の。……報告をね、してあげなきゃと思って。でも『お屋敷』はとにかく、俺が立ち入るのを嫌がって許可しないから。ちょっと無理に進入させてもらっただけだよ。ありがとうね、シーク。手伝ってくれて」
俺ひとりだとちょっと骨が折れるんだよね、見つかった時とかに、と続けられて、シークは苦笑いで肩を竦めた。その言葉からも常習犯であるのが察せられたので、妖精は無言で額に手を押し当てる。よくもまあ今まで、あの場所と『魔術師』との関係が悪化しなかったものだ。
『……本当に、墓参りだけなんですか? あとはなにも?』
「あの日はね。用意もしていなかったし、時間もなかったから」
用意があって、時間があったらなにをしていたのかを、妖精は勤めて考えないことにした。男があの場所に突きつけている要求を考えれば、ろくなことではないのは確かだ。あの日ね、とシークがしみじみと呟く。
「突然だったもんね。『学園』のパーティーに行ってたと思ったら、真っ青な顔して帰ってきて。今すぐ、って言うんだもん。毒でも盛られたのかと思うくらいだったよ」
「あ、毒盛るのでもいいなぁ……斬首じゃなくて服毒にしようかな。どう思う? シーク」
「君のその、復讐に関する貪欲さは嫌いじゃない。でも、たぶん駄目だと思うよ」
にっこりとした笑顔のままで隠さず舌打ちするジェイドから視線を移し、シークは妖精たちに首を傾げてみせた。質問はもういいの、と問う仕草に、妖精は魔術師を守護する案内妖精としての義務感だけで、ぎこちなく口を開いた。
『あなたが、あのこに……ソキに、危害を加えない、と、思えるには情報が足りない。……お墓参りの為に、あそこに居た理由と、十五人を引き渡せという要求が……繋がらない。あなたは、なに? なにがしたいの? なにを、したいの……? なにをするつもりなの?』
「言っておくけど、俺は聞かれたことには答えてるよ。したいことなら、約束を破られたことに対する報復。あとは個人的な感情による復讐」
「そうだよねぇ君は聞かれたことは教えてあげてるよねぇ……。聞かれたこと、しか、言ってあげてない、とびきりのいじわるなだけだよねぇ……」
つまりこの筆頭と来たら極めて機嫌が悪いのさ、と苦笑されて、妖精は居心地が悪く服を握り締めた。ようやく話ができたのに、言葉は返ってくるのに、知りたいことにはなにひとつ辿り着けない。戻って砂漠の王に聞く方がよさそうですね、と苛立った鉱石妖精の声が響く。それに、妖精が頷こうとした瞬間だった。
ふわり、と白いひかりが現れる。妖精たちは思わず、目を見開いた。ひかりから魔力を感じた。魔力は、生まれたばかりの妖精の気配だった。まだ自我にも乏しいような、弱々しい気配。たどたどしい意思。白いひかりはふわふわとジェイドの周りを飛び回り、どこか叱り付けるように明滅した。
指先を、ひかりに伸ばして。ジェイドはうつくしい表情で微笑んだ。胸の一番大切なものを、そのまま差し出すような表情だった。ひかりはジェイドの指先に口付けるようにして揺れ、すぅ、と消えてなくなってしまう。同時に、淡い妖精の気配もなくなった。
いまの、と呟く妖精たちに、ジェイドはちら、と視線を向ける。
「……時間があるなら、説明してあげるけど」
「やぁい奥さんに怒られて反省したんだ」
ジェイドが笑顔で投げた枕を、シークが受け取って投げ返す。そのままぽんぽんと枕を投げ合ってきゃっきゃじゃれあう魔術師に、落ち着きというものは見られない。深呼吸をして首を傾げ、妖精は思わず呟いた。
『……はい?』
え、ちょっと、もう、なにもかも意味が分からないんですが、と言う鉱石妖精に、妖精は無心で頷いた。断片的に与えられた情報は、混乱を招くだけでなにひとつ繋がっていかない。だから説明してあげるって言っただろ、と拗ねた口調で、ジェイドは息を吐く。己のこれまでの対応を、まったく棚上げした態度だった。
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