暁闇に星ふたつ:71


 とにかく、数えるという作業があんなに大変だったとは思わなかった。心得て待っていてくれた調理師たちのふるまいでほっと心と体を満たし、ひと心地ついたあと、メーシャとナリアンは口を揃えてそう言った。

 教員たちは慣れているのか、それこそ魔法のようにざくざくと数を重ねていくそれを、ふたりはひとつずつ目で追って数えて行ったのだ。数え間違えないようにしないと、と気を張っていたのは最初だけだった、とナリアンは言う。

「こう、数をかぞえていくんだけどね、いち、に、さん、し、って。それが途中で分からなくなるんだよね……どこまで数えてたっけ? とかそういう分からないじゃなくて、こう……数をかぞえるって、なんだっけ、みたいな。ひとつあるとそれが『いち』で、ふたつあると『に』なんだけど、『いち』と『に』がどういう意味を持ってて、それってつまりどういうことだっけ……? ってなるんだよ……」

「あれ? 俺って数字だったっけ? 数字ってなんのことだっけ俺のことだっけ? 数えるってなにを? 俺を? って思うよね」

「……明日も、明後日もあるんだろ? 大丈夫なのかそれ……」

 心底心配そうに、かつ疑わしげに問うロゼアに、メーシャとナリアンは吹っ切れた、晴れ晴れとした表情で頷いた。

「大丈夫! 俺もう数字だから!」

「そう、大丈夫。俺はもう数字だから」

「ソキ、知っているです。せんのーというやつです」

 たいへんなことです、と真面目な顔で頷いて、ソキは額に手を押し当てて友の精神を心配するロゼアの膝上で、むむむっとくちびるを尖らせる。

「もうー、おにいちゃんは一緒に行ったのになにをしてたですか! メーシャくんとナリアンくんが数字になちゃたです! ……ねえねえ、おにいちゃんも数字になっちゃったです? たいへんなの? ルノンくんは数字なの? 数字じゃないの? ニーアちゃんは?」

『俺は妖精。数字じゃないよ。……メーシャ、ごめんな。今日はゆっくり寝ような』

 不安定魔力の調査測定で、数字になるのは初心者の通過儀礼であるらしい。数字になってそこを超えて己を取り戻すとざくざく数えられるようになるんだよー、不思議だよねー、俺も前数字だったー、というのが、ひとりほのぼのしていたウィッシュの言である。

 大体二日目か、三日目には数字から自分に戻れるらしい、と同行していた妖精たちから又聞きして、ソキは不安に視線をさ迷わせる。

「戻れなかったら……ナリアンくんと、メーシャくんは、ずぅっと数字のままなんです……? たいへんなことです……!」

『大丈夫よ、ソキ。どんくさくて戻れなくても、一週間くらい放置すれば自然に回復するものだから』

『何回か目にしていますけど、何回見ても聞いても毒か麻薬かなにかなんですかっていう気持ちになりますね……測定の初期段階……』

 ほんと、ほんとに、と心配するソキに、妖精たちは曖昧な笑みを浮かべてそれぞれに頷いた。今の所、数字のままになっている魔術師はいないのである。いまのところ。

「まあ……先生たちが一緒なら、大丈夫だと思ってるけど。ナリアン、メーシャ。無理しすぎないようにな」

「ありがとう。でもロゼアだって、明日はゆっくりしていないとね」

 ざばざば砂糖を入れて甘くした、ミルクティー。もしくは、液状ミルクティーの味がする砂糖なのかよく分からない物体を飲みながら、メーシャは穏やかにロゼアに笑う。

「風邪、というか……魔力風邪っていうんだよ、確か。ソキも去年なってたやつだよね。一回落ち着いても、しばらくは不安定だって聞いたよ。たまにはごろごろしなよ、ロゼア。怠けるって大事だよ」

「うん……ゆっくりしていようとは思うけど。メーシャはなに飲んでるんだよ……。砂糖だろそれ。なんかでろでろしてる……」

「そうだよメーシャくん。黒砂糖の方が栄養あるよ」

 ロゼアが視線を向けると、ナリアンは黒砂糖の欠片を無心に頬張っていた。ニーアちゃんそっくりです、と関心するソキを撫で、ロゼアが親友の惨事に息を吐く。シディはロゼアを慰めるように、それでいて視線を反らして呟いた。

『砂糖からは……なぜか、微量に魔力を補充できるんですよ、ロゼア。疲れた時にも回復させてくれますしね』

『いいからアンタたちもう寝なさいよなんでぐだぐだ起きてるのよ! ニーア! ルノン! こいつら風呂に引っ張って行って溺れないように見張って、湯冷めしないうちに寝台へ叩き込んできなさい!』

『ナリちゃんと一緒にお風呂だなんて……! せ、先輩私どうしたら……!』

 頬を赤らめて落ち着きなく羽根を動かすニーアに、ルノンが苦労を背負った微笑で僕が代わりますよ、と言った。ナリアンを促して立たせ、眠そうに目を擦るメーシャと、ロゼアに目を向ける。

『ロゼアも、お風呂で温まって。ゆっくり眠りましょう。さ、早く』

「分かったよ。シディは相変わらず生真面目だな……メーシャ、起きてるか?」

「寝そう……。お風呂に入ったらちょっとは目が覚めると思う……」

 湯船で沈まないかどうか、見張っていなくては危ないだろう。急がなくては、と思うロゼアの膝から、ソキが滑り降りてよろよろと立つ。ソキもお風呂へ行こうな、と微笑むロゼアに、こっくり、気合の入った頷きがひとつ。

「心配しなくても大丈夫ですよ、ロゼアちゃん! ソキがちゃぁんと、一緒におふ」

『はいはいソキはアタシとニーアと女子! 風呂! に! 行くわよ! 一々手間隙かけさせないでちょうだい』

「ソキはロゼアちゃんが気持ち悪くなたりしないかどうかぁ、お傍で看病するですううぅ。ナリアンくんも、メーシャくんも、ソキがちゃぁんと守ってあげるです! 心配しなくてぇ、いいんですよ?」

 すふん、と自慢げにふんぞりかえって宣言されて、メーシャはすっと眠気の引いた表情で、てきぱきと立ち上がった。

「ありがとう、ソキ。眠気ましになったよ」

「う? ……あれ? あれ……?」

「今のうち! 今のうちにお風呂行こうよロゼア、メーシャくん! 目が覚めた今のうちに……!」

 慌しく食堂から走り出ていく二人の横顔に、まずい早く休まないと、と書かれている。ソキの庇護欲を刺激するくらい疲れ果てていることを、ようやく自覚できたらしい。苦笑して後を追うルノンとシディに頷いて、ロゼアは憮然とするソキに手を差し出した。

「ほら、ソキ。手を繋ごうな。お風呂の前まで一緒に行くよ」

 もちろん、女子風呂の前まで、である。男子風呂ではない。混浴は禁止されている。ソキはロゼアの指をきゅむっと握り、むーんと眉を寄せてくちびるを尖らせた。

「……げせぬです」

「ソキ。お風呂に一緒に入りたがったらだめだろ」

「違うです。かんみょ……かん、びょう、です!」

 てち、てちっ、と歩き出しながら主張するソキの頭上で、妖精が深く息を吐く。

『万一なんというか看病? の為に一緒にお風呂が許可されたとして、ソキになにができるっていうのよねぇ……。……あ、違うわこれアレだわちょっとソキいいいい! 口実見つけてロゼアにあれこれしようとすんじゃないわよ恥じらいと慎みを持てってアタシはさっきも言ったでしょう! 恥らえ! 慎めっ! がつがつするんじゃない!』

「ちぁうもんかんびょうだもん! ソキだって看病ができるんですぅ!」

 力いっぱい言い切ったのち、ソキはあ、でっでもぉっ、と今思いついたかのような顔をして、指先をもじもじと擦り合わせた。白んだ目で妖精が待ってやると、ソキはきょろきょろあたりを見回し、そっとロゼアの顔を伺った。こっそり声を潜めて、ソキは真剣な顔で妖精に囁く。

「たっ、ただ、あのその、もしかしてっ……もしかして、なんですけどぉ! ロゼアちゃんに、ぺったりくっつけちゃうことがあるかもです……っ?」

「ソキ、前見て歩かないと危ないだろ」

 頭上と会話をしながら歩いたので、途端に転びそうになるソキをひょいと抱き上げ、ロゼアは早足で女子風呂へ向かった。かんぺきなさくせんだったはずです、と拗ねるソキの背を撫でながら、ロゼアは腕に力をこめた。

 俺にくっつきたいの、と耳元で問いかける。くっつきたいです、とねだるソキに、ロゼアはいいよと囁いた。

「お風呂から出たらくっつくのしような。今日は一日寂しかったな。ごめんな、ソキ」

「きゃぁーん! きゃぁあんきゃんきゃん! ソキ、ロゼアちゃんにぴっとりするぅー!」

『えっ……え、えっ?』

 頬を真っ赤に染めてちらちらと視線を投げてくるニーアに、妖精は白い目で安心しなさい、と断言した。ニーアが思っているようなことには絶対ならないし、させないし、どうせ添い寝とかそういう類のことである筈だ。

 ふんふんご機嫌に鼻歌を響かせるソキに慎みを持たせるにはどうすればいいのか考えて、妖精は夜のつめたい空気を泳ぐように飛んだ。


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