暁闇に星ふたつ:63



 そしてリトリアは、ロゼアとソキに目を向けて。ロゼアが、もちゃもちゃやんやん暴れているソキの口を手で塞いでいるのを見て、え、と瞬きをする。

「ろ……ロゼアくん? なにしてるの……?」

「……リトリアさん」

「は、え……は、はい……?」

 遠くで鐘の音が鳴る。重たくも澄んだ響き。授業開始の合図である。それに合わせて集合時間を定めていたらしき魔術師たちが、元気よく点呼ーっ、と声をあげるのが響いてきた。窓と壁に隔てられて、声は別世界のもののように空気を揺らす。

 なんとなく、そうしなければいけないような気持ちで。背を正すリトリアに息を吐き、ロゼアはソキの耳に授業だよ、と囁きかけた。

「勉強しような、ソキ」

「ふにゃ、はぅ……はう、う……はぁい」

「えらいな、ソキ」

 真っ赤な顔でもじもじとロゼアと教科書を見比べながらも、ソキは気持ちを切り替えたらしい。ロゼアの膝に横向きに抱かれたまま、教科書を手元まで引き寄せ、読み始める。常であればひとりで座らせるのだが、今に限って、ロゼアに降ろす気はないようだった。

 抱き寄せて位置を微調整させたのち、ソキが集中しきっているのを確認すると、ロゼアは柔らかな笑みで顔をあげた。

「リトリアさん」

「はい……!」

「時間はありますか? ……このあとのご予定は?」

 なんだか怒られるような気がした。それもすごく。幸い、戻らなければいけない予定があったのでそれを告げると、ロゼアはそうですかと呟き、リトリアの目をまっすぐに見て言った。

「襲われたくなければ、夜に男の部屋に行かないでください。分かりましたね?」

「えっ……う、うん。分かりました……」

 襲撃、という二文字を頭によぎらせて不安に思っているのが、ロゼアにはとてもよく分かった。なぜあえてそちらに行ったのか。問い詰めて正してやりたいが、時間もないし、不安がって行かなければそれが一番である。

 誰か身近な人に俺が言ったことを相談してもいいですよ、と付け加えると、リトリアはぱっと明るい笑みで頷いた。

「ツフィアに聞く……!」

「はい、そうしてくださいね」

 顔を見て帰ろう、としあわせそうに言い残し、リトリアは談話室を出て行った。見送り、脱力してロゼアはソキを抱きなおす。きゃぁあんと甘い声をあげて、ソキはロゼアにくっつきなおした。

「ロゼアちゃん? なぁに、なあに? どうしたの?」

「どうもしないよ」

「どうもしないぎゅうです……! きゃぁあん、きゃぅー! めろめろというやつですうううっ!」

 やんやん身をよじって喜ぶソキに、ロゼアはしあわせに笑みを深めて、ふと窓の外を見た。魔術師でごちゃごちゃしていた筈の空間には、いつの間にか、もう誰の姿もない。談話室も普段の静寂を取り戻し、ソキのきゃっきゃとはしゃぐ声だけが、ふわほわと漂っていた。




 担当教員が揃っていなくなったとはいえ、『学園』から調査に呼ばれたのはナリアンとメーシャだけである。贔屓とも受け取られかねない事態が同情をもって迎えられているのは、その二人が呼ばれた理由がロリエスの、後継にする宣言だと誰もが知っているからだ。

 そもそも常日頃、先輩たちが引きながらも哀れに思って勉強を教えてくれたり、なにかと手伝ってくれたりするのがナリアンの課題量である。メーシャが、ナリアンがひとりだとさすがに可哀想という周囲の気遣い故の巻き込まれ事故だというのも理解されきっていたので、嫉妬を向ける者はひとりとしていなかった。

 メーシャが呼ばれたのも、同年入学であるのに加え、ロゼアとソキという選択肢を抜いた結果である。ソキを連れ歩くには問題があり過ぎるほどであるし、ロゼアをソキから離すのは言わずもがな。よって、メーシャなのだった。

 頑張れよ辛いことがあったら帰ってすぐ相談しろよ、と激励され、二人は遠足、という名のついた魔術観測へ出かけて行った。そのことを知識として知っていても、誰もが、ロゼアとソキだけが座る談話室の一角を見ては、あ、そっか、という顔をして、不在をようやく飲み込んだ。

 特別な理由や用事がなければ、四人はだいたい、談話室では一緒である。その空白は静かで、すこしだけ冷たかった。ふ、と息を吐いて、ロゼアがソキを抱きなおす。今日のソキは、朝からずっとロゼアの膝の上である。いつもなら授業だろ、と隣に座らさせられてしまうのだが、朝からずっと抱っこのままだった。

 その理由を、ソキは知っている。ふふん、と自慢げな顔をして、ソキは課題をひとつ終わらせて。背伸びをして、ぎゅっとロゼアに抱きついた。

「しょんぼりしょんぼーりー、ロゼアちゃーん! さびしいです? ソキがぎゅぅっとしてあげるー……!」

「ソキ」

「大丈夫ですよ。ナリアンくんもぉ、メーシャくんもぉ、チェチェ先生も! 夜には帰ってくるって言ってたです」

 頬をぴとっとくっつけて耳元で言い聞かせれば、ロゼアがはにかみ、頷いた。かわいいです、と胸をときめかせながらくっつきなおし、ソキは近寄ってくる者を目にして、あからさまに邪魔そうな顔をする。やーぅー、と低くした声で威嚇すれば、寮長は天を仰いで額に手をあてる。

「……なんだそれ」

「ふふん。ソキのいかくに恐れをなしたにちぁいないです……!」

「……あー、あー、そうだな。あー、怖い。あー、怖い怖い、怖いなー……。ソキは怖いなー……」

 これでいいか、と言われて、ソキは満足げにこっくりと頷いた。なんだかすごく雑だったような気がするが、怖いと思ってくれればいいのである。ふんすっ、と鼻を鳴らして誇るソキを抱きなおし、ロゼアが寮長に目を向ける。

 その顔を見て。寮長は無造作にロゼアに手を伸ばした。

「お前……熱があるんじゃないのか?」

「おねつ! えっ……え、えっ、え、えっ……!」

「ないよ。熱出てない。違うよ、違う。大丈夫だよ、ソキ。寮長の勘違い」

 途端にオロオロと落ち着きをなくすソキを宥めながら、ロゼアは寮長にやや鋭い目を向ける。滅多なことを言わないでください、と言わんばかりの態度に、寮長は眉を寄せながらもロゼアの額に手を押し当てた。平熱であることを確かめ、男の手は離れていく。

「朝からずっとだるそうだろ」

「気のせいです。……なんともないよ、ソキ。本当だよ」

「……ソキ。さっきエノーラ来てただろ。今日は大丈夫だったのか?」

 この間は攻撃してただろう、と言われて、ソキはそう言えばと目をぱちくりさせた。エノーラがすぐ近くにいたのに、怖いとは思わなかった。近寄って欲しくないとも、声を聞いていたくないとも。意識して見ていなかったので記憶を探り、なんとか確認して、ソキはしっかりと頷いた。

 こわいこわい、全然大丈夫だったです。エノーラさんだったです、と言えば、寮長はその場から動かずに考え込んだ。ちょうど、廊下は授業の移動時間で混雑している。その中に姿を見つけ出し、寮長がルルクを手招き、呼んだ。はーい、とすぐ走り寄ってくるルルクを指さし、寮長はソキに問う。

「ソキ。ルルクは? 今はどうなんだ」

「えっなにこないだの件? いいよ大丈夫! 痛かったけど理由もあったって分かったし、気にしてないし、ソキちゃんは謝ってくれましたよ?」

「知ってる。そうじゃない。……ソキ」

 なんですか、とルルクが訝しみ、ロゼアから問われても、寮長はソキの言葉を待っている。落ち着けない、焦る気持ちでルルクと寮長を幾度も見比べ、ソキは緊張しながら頷いた。ぎゅう、と手を握りしめ、なんとか答える。

「だい、じょうぶ……。こわいの、ないです。……ルルク先輩。あのね、この間は本当にごめんなさいですよ。とっても痛かったに違いないです」

「うん。できれば、もうしないでいてくれると、すごくありがたいけど……寮長? どうしたんですか?」

「……あとで説明する。悪かったなルルク、授業だろ」

 答える気はないらしい。もう、と怒ってみせながら、ルルクはそろそろとソキに手を伸ばした。うにゃ、と甘えて頭を差し出されるのを至福に触れた表情で二三度撫でて、ルルクは満面の笑みで走っていく。あああよかった嫌われてなかったーっ、と叫ぶ声は涙声だった。

 お前あとでもう一回くらいはルルクに謝っておけよ、と寮長が言う。こく、と素直に頷いて、ソキはロゼアと寮長を見比べた。どちらも。なんだか険しい顔をしている。落ち着きなく胸に手を押し当てて、ソキは震えながら問いかけた。

「けんかです……?」

「違う。……ソキ」

 静かに、落ち着いた声で。

「ロゼアは大丈夫なんだな?」

 尋ねられて。ソキは目隠しをされたような気持ちでロゼアを見上げた。無意識に、喉を指先で押さえた。だいじょうぶ。声は言い聞かせる響きだった。ソキでさえ、そう思った。けれど、重ねて。

「大丈夫です……!」

 ソキは言いきった。ロゼアには『こわいこわい』はくっついていない。はじめてそれが分かった時から、いままで、ずっと。寮長は分かった、と言って身を翻した。とりあえず、保健医を呼んでくる。いいからそこを動くなよ、と言われて、ソキはロゼアに抱きつき、頷いた。

「ロゼアちゃん……」

「……ん?」

「おからだ、どこか……」

 なんと聞けばいいのか分からない。ロゼアはいつも、あんなにも、ソキの体に気を配ってくれているのに。不安げに瞳を揺らすソキに、ロゼアはふっと笑った。大丈夫だよ、と言葉が渡される。大丈夫、大丈夫。ぽんぽん、と背を撫でて宥められる。くっつけられるロゼアの体温に気持ちを緩めてしまったソキは、だから、気がつかなかった。

 繰り返されたソキからの問いに。ロゼアは、気のせいだよ、とは。言わなかった。


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