祝福の子よ、歌え 20


 ごめんなさい、と聞き覚えのある声が囁いた。そこから数秒、フィオーレは記憶が途切れている。夢から覚める直前のまどろみのような、瞬きをしただけで意識が眠りに落ちてしまったような。

 それはあまりにあっけない途絶であり、息をするように自然な復活だった。は、とあっけに取られた声が零れて、己のもとに意識が戻ってきていることを知る。

 砂漠の王宮の一角。人通りの少ない廊下を進んだ先にある、王の私室のすぐ手前で、リトリアはフィオーレの手を引いて立ち止まっていた。

 白魔法使いの記憶が確かなら、午前は執務室で書類に目を通す予定になっていた筈であるから、そこにいる筈もない。だから単純に、人がいない場所を選んで、引いてきただけだったのかも知れない。

 張り詰めた雰囲気で、リトリアはフィオーレに背を向けたまま、動かないでいる。視線は開かない王の私室に向けられていて、その先にいる誰かを警戒しているようにも見えた。

 きれいに編みこまれ、白い藤の髪飾りが揺れるのを見つめながら、フィオーレはいないよ、と言ってやった。

「陛下、仕事中。だから、そこにはいないよ、リトリア」

 硝子のこすれる繊細な音。髪飾りを揺らして、ぱっと振り返ったリトリアを見て、フィオーレは思わず瞬きをした。髪も、やけにきちんと編みこんで飾っているな、とは思ったのだが。

 うっすらと化粧をしているのが見て分かる上に、予想していた顔色の悪さがまったくない。やんわりとした印象を感じさせる面差しに、透き通る肌。

 泣いたように目元がうっすらと赤いが、艶やかなくちびるの色とあいまって、妙に落ち着きのない気分にさせられる。え、と声をこぼして、フィオーレは動揺した。見知った魔術師のリトリア、であるのだが。かわいい女の子が立っている。

「……ど……どこでなにしてたのかちょっとお兄さんとお話しようか……っ? え、え……え? リトリア? リトリアだよねうんそれは見て俺もちゃんと分かってるんだけどね? あのなんていうか、えっと……どうしたのちょーかわいいね。ほんとすっごいかわいいねどうしたのええええどうしてたのなにしてたの……かわいいね……」

「えっと、えっと……うん。ありがとう……」

 頬を赤く染めて手をもじもじと組みかえる仕草こそフィオーレの見知った少女のそれであるが、いつもならばそこで少しほっとしたり、否定したりするのだが。その雰囲気が、一切感じられない。

 ええぇ、とよろけて立ちなおし、フィオーレはまじまじとリトリアを見直した。まず、服装の印象も違う。普段のリトリアは、主に楽音の王やストルの趣味で、やや短めスカートのふわひらした服を着ていて、首元も見えている。

 別に出したくて肌を出している訳ではないだろうが、右へ左へ移動するたびにひらひら動く短めのスカートは、太ももまでの長い靴下と合わされていることが殆どなので、ほんとストル好きだよなそういうの、と思わせるに十分なのだが。

 淡いクリーム色の薄い生地で作られたワンピースは、幾重にも布を重ねた作りになっていて、それ自体が花のようだった。腰からふんわりと広がり、足元までゆるりとなびく布は動きやすさを備えた上で体の線を完全に隠している。

 首元も、花の形に細工された貝釦のシャツが、一番上まできっちりと留められていた。銀の細い鎖が、胸元に花の飾りを揺らしている。よく見れば爪の先までぴかぴかに磨かれ、うっすらと色が塗られてもいるようだった。

 数秒間沈黙し、フィオーレは我慢できず、頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。え、え、とおろおろするリトリアに、絞り出した声で問いかける。

「ちょーかわいいんだけどほんとどこでなにしてたの……?」

「あの、それは……それは、その」

 言いよどむのは、フィオーレの知るリトリアそのままである。ようやくすこし安心した気持ちで顔をあげたフィオーレは、己の判断を心から悔いた。見たことのない表情をしている。恥じらい、頬を染めて、目を涙にうるませて。

 そっと頬に両手をあて、息を吐き出して。リトリアは照れるようにちいさく、くちびるを動かし囁いた。

「ないしょ……に、したいの」

 ふっと意識が遠くなる。フィオーレは廊下に両手をついてくずおれた。え、えっと心配そうに覗き込まれているのは分かっても返事ができず、フィオーレは震えながら叫んだ。思わず叫んだ。

「ちょおおおおえええええええ俺! 今! 泣きそう! えっこれストルちゃん大丈夫なヤツ? だめだよね? とばっちり食らったレディしなない? というか巻き込まれ事故で俺もヤバくない? ええええ奇跡的になんていうかツフィアの趣味にはあってる気がするからなんとかな……る気が! しない! 全然しない! ねえリトリア俺さぁ言ったよねちーさい時にさぁしらないひとに優しくされたからってそうほいほいついてっちゃだめだって言ったけど言ったけどぎゃああああそうだったもしかしなくてもそれ覚えてないねまずいこれ俺も責任取ってストルと戦わないといけないヤツじゃないのかな弱点からついてけば魔力切れ狙って持久戦でいけるかなっ?」

「し、しー! フィオーレ、そんなに大きな声はだめ……! みつかっちゃう……!」

 リトリアにとってはごく幸いなことに、フィオーレが廊下でうずくまってぎゃんぎゃん騒いでいるのは、砂漠ではわりとよく見られることである。

 だいたいは王が折檻しているか、同僚に襲撃された結果であるので、人気のない場所でそうしていることは珍しいのだが。現象事態はよくあることなので、リトリアが危惧したような、誰かが走り寄ってくるようなことはなかった。それ所か。

 すすすっ、とざわめきや気配が遠ざかった気がしたので。リトリアは眉を寄せてしゃがみこみ、涙ぐんでぐずっているフィオーレを、心配そうに覗き込んだ。

「あの……フィー、砂漠でちょっといじめられているの……?」

「その結論に至った理由は分かるけど違うから安心してくれていいよ……」

「そうなの? ……あんまり騒いだら、だめよ?」

 それが現在の状況を踏まえて、というよりも、普段の素行をそっと窘めるものであったので、フィオーレは落ち込みながら頷いた。

 砂漠の皆様にご迷惑おかけしないようにね、という意思は隠れもしていなかったので、でも今のリトリアには言われたくなかった、と白魔法使いは息を吐く。

「自分は逃亡しといてさぁ……。というか、え、ほんとに逃亡してたんだよな……?」

「ん、んんっと……」

 なんで頬を染めてもじもじされるんだろう俺ちょう泣きそう、という視線を受けながらも、リトリアは言葉に迷い。右に首をかしげ、左に首をかしげて。ううぅ、と困った声を零れさせた。

「途中までは……?」

「その、途中からがお兄ちゃんはすんごい知りたいなぁ……!」

「だめ。だめだめ、だめ! ないしょ!」

 陛下のご命令でどうしてもっていうならそっとお教えするけど、フィーはだめっ、と言い切られ、フィオーレは胸を押さえてうずくまった。

 ちょっと会えないうちにリトリアが反抗期に突入してる、これまではだいたいのことなら教えてくれたのに、と涙声で呟くと、少女はだって、と恥ずかしそうに視線を伏せた。

「そっそれはともかく……!」

「ともかくしたくない」

「もおおフィオーレもそうやって私のおはなし聞いてくれないんだから! おはなしきいて!」

 他に誰が聞いてくれなかったのか教えてくれたら聞く気になるかも知んない、と主張するフィオーレに、リトリアはいやいやだめだめないしょなのっ、とむずがった。

 それにふっ、と既視感があり、あれでもロゼアはずっと学園にいたし、と考えた時だった。もう、もうっ、と怒るリトリアに、きゅっと手を握られる。やわやわですべすべの手と、指だった。

 あれえええこれなんだか覚えがあるんだけどあれええっ、と混乱するフィオーレに、リトリアは涙ぐみ。恥ずかしさにふるふると震えながら言い放った。

「い、言うこと、聞いてくれないと、だめなんだから……! ……あっ、だ、だめじゃな、あ、え、えっと……えっと、えっと。言うこと、聞いてくれないの、いや、よ?」

 あっ俺ストルにころされるわもうこれは絶対確実だ俺はしぬ、と思いながら、フィオーレは意地だけで、ぎこちなくリトリアから視線を外した。

「……フィオーレ?」

「……なに」

「お願いきいて?」

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