ひとりの。別々の夜。 50
呼びたかった。あなたのことを。
伝えたかった。
愛してるの。私も。
たったひとりの存在として、あなたを。
曇り空が広がっている。灰色ではなく、黒色にすら近い空だった。夜ではない。真昼の最も明るい時間であるのに、光が差し込む気配すらなかった。うっすらとした闇に包まれている。もう晴れないことを、魔術師たちは知っていた。
魔力ある者なら、誰もがそれを聞いているだろう。卵の殻が砕けるような。硝子細工をすり潰すような。微細な音が響いている。壊れているのだ。砕けているのだ。接続が今にも絶えようとしている。
世界はほどなく、欠片と化すだろう。それを阻止しようとする者も数人はあったが、無駄な努力であることも、分かっているに違いない。先延ばしにすら出来ないほど、この世界は終わりに近付いている。
すこし前に、戦いがあった。すこし前に、戦いは終わった。一番初めに消えたのは、砂漠の国だった。王宮魔術師たちが一斉に反旗を翻し、王を殺し王都を焼き払い、白雪の国へ攻め込んだのだ。
突然のことに、なすすべもなかったのだという。女王の命令により、他国にそれを伝えよと命じられた、たったひとりの魔術師だけが生き延びた。魔術師はどうして、と泣き叫んで気を狂わせた。
ロゼア、ソキ、どうして。どうして俺の王を殺したの。どうして、どうして、と慟哭するウィッシュに。予知魔術師の少女が囁き告げた。
ソキちゃんは、使われてしまった。言葉魔術師の武器として。ロゼアさんは、囚われてしまった。予知魔術師のちからなら、人心を操ることなどたやすくできる。
これは呪い。これは、怒り。どうしてもそうしたいのに、どうしても、そうできないと分かってしまったから。八つ当たりにぜんぶ、壊そうとしてるだけなの。それだけなの。そんなことをしても、どうにもならないって、分かってるのに。
でもそうしなければ生きていけないほど、死ぬこともできないくらい、シークさんはこの欠片の世界を憎んでしまった。
わたしたちは全員殺される。魔力を持っているから。この世界はぜんぶ壊される。この世界がなければ、あの憎悪が生み出されることもなかったから。説得はもう出来ない。始まってしまったから。
分かりあうことはもう出来ない。始まってしまったから。許してあげることはもうできない。もう始まってしまったから。たくさん、殺されてしまったから。残された道は、たったひとつ。ひとつしか、私たちには残されていない。
戦いの終わりはあっけないものだった。その時。なんらかのきっかけで、ロゼアは己を支配する力から脱したのだという。言葉魔術師に操られるまま、予知魔術を乱発するソキを抱き上げて。敵味方入り混じるただ中で、ロゼアはソキに囁いた。
『愛しているよ、ソキ。『傍付き』として、『花嫁』のソキを、だけじゃない』
人形めいた面差しに。その瞬間だけ、己の意識を取り戻して。ソキはじっと、ロゼアを見ていた。
『たったひとりの、ひととして』
誰が。止める間もなかったのだという。
『俺をしあわせにしてくれる』
ロゼアは、宝石の埋め込まれた短剣を。魔術師として与えられた武器を鞘から抜き。
『ソキ』
ソキの胸を、刺し貫いた。
『あいしてる』
口付け。なんの言葉も聞くことはなく。ロゼアはソキを喪い、言葉魔術師の手から武器を奪い去った。茫然とする言葉魔術師に、ロゼアはソキを抱き上げたままで微笑み告げた。死ね、と一言。
暴走に近い放出のされ方をした太陽の魔力は、ロゼアの傍にいた者たちをことごとく蒸発させ、あるいは黒く炭化させて命を奪い。そして、戦いは終わった。あまりにあっけなく、唐突に。
しかし平和が訪れることはなかった。魔術師の弾圧が始まったのだ。大戦争のあとのように。生き残った魔術師たちが、ひとり、またひとりと命を失っていく中で。ぱきん、と壊れる音がした。
世界が、途絶え始めた音だった。岩石と砂ばかりとなった砂漠の国が、荒涼とした地が広がるばかりとなった白雪の国が。消える音だった。
世界はたったの三ヶ国となり。魔術師たちはひとりの例外もなく、『学園』へ閉じ込められた。残された国も、もう保たれることはない。
消滅を待つ日々であっても、もう魔術師を目にしたくないと。民の声に逆らえず、王は魔術師たちに別れを告げたのだ。だからこの世界も、『学園』も、ほどなく消えてしまうだろう。
明日、明後日のことでなくとも。一月先にはまだあろうとも。一年はもう巡らないと。ロゼアは、そのことを知っていた。日々は粛々と流れて行く。閉ざされた当初こそ、ロゼアを責める者もあったが、最近は声を掛けてくる者さえいなかった。
メーシャは戦いの中で倒れ、ナリアンはロゼアの姿をみると、目を伏せて拳を握る。どうして殺したの、とロゼアに問いを叩きつけたのは、ナリアンだっただろうか。それとも他の誰かだったのだろうか。
思い出せないまま、ロゼアは告げた答えを思い返す。ソキが望んだからだ。己の意思とは関係なく、泣き叫んでもどれだけ抗っても、魔術を使わされ。魔術師を殺し。人々を殺し。ロゼアに、殺させ続けたソキの。
とうとう、抵抗する意識が邪魔だと支配されきってしまう前に、ソキがロゼアへ告げた。最後の、ソキ自身の言葉だったからだ。ころして、とソキは泣いていた。
ころして、ころしてロゼアちゃんはやくはやくソキをこわしてソキを枯れさせておねがいもういやこんなのはいやですろぜあちゃんごめんなさいごめんなさいろぜあちゃん、ごめんなさい。そきが、ろぜあちゃん。ろぜあちゃん。
支配せよ、と言葉魔術師に告げられて。ソキは抗えず、ロゼアを操った。その後、支配権を言葉魔術師に受け渡して。抱きあげられた腕の中で、ずっと、ソキは泣いていた。
喉を切り裂こうとする刃を、熱によって溶かされ。噛もうとした舌を、口付けでしびれさせて。意識を壊されてしまう瞬間まで。たすけて、と言っていた。
たすけて、ごめんなさい、たすけて、ゆるして、ゆるして、ごめんなさい。たすけて。ごめんなさい。ころして。はやく。はやく。しなせて。おねがい。たすけて、たすけて。
壊されて。人形のようになったソキを抱いて、ずっと、ロゼアはその時を待っていた。ソキの望みを叶えるその瞬間を。だから、殺したのだと。告げたロゼアに、誰からも、もうその質問が向けられることはなかった。
あなたの為ならなんだってできた。ほんとう。
あなたの為ならなんだってできる。ほんとう。
だから教えて。なんでもいいの。どんなことだっていいの。
なんでも叶えられる。
あなたが願ってくれたなら。
死にゆく世界は静かだった。妖精たちの姿はいつの間にか消えていた。か細い糸を辿って、他の世界へ。幻獣たちが住む世界へ、移動したのだという。
シディは泣き腫らした目でボクはロゼアの傍にいますと告げ、その形を失うまで寄り添っていた。鉱石妖精、という種だったのだというシディは、妖精としての形を失うとうつくしい石になった。
それを取り上げたのは、ソキの案内妖精だった。妖精はやはり、泣き腫らした、荒れすさんだ目をしてロゼアのことを睨みつけ、これはアンタにはあげない、と言って飛び去った。それきり、戻ってはこなかった。
他の妖精たちを追いかけて、世界を渡ったのか。それともどこかで朽ちる時を待っているのか。ロゼアにはもう、分からないことだった。
ひとり、ひとりと、眠りにつく。終焉は静かな眠りとして訪れた。それは世界から切り離された魔術師たちへ贈られた、魔力というものからの慈悲であったのかも知れない。ひとり、ひとり、目覚めぬ者が増えていく。
今では起きているのは火の魔法使いと、ロゼアのふたりになっていた。火の魔法使いは、己のことを墓守と呼んだ。墓守はやりたいことがあるのならやっておきなさいな、と日課のようにロゼアに語りかけた。
話しかけている、と思うには、あまりに返事を期待しない、それでいて柔らかな声だった。物言わぬ木石を慈しむような響きだった。だからやはりそれは、語りかける、とするのが正しいのだった。
やりたいことなど、残っている訳がない。ソキが喪われた。それが、ロゼアの、すべてだった。
それなのに、思い出がそこかしこから語りかける。寮の部屋も、階段も、食堂も談話室も。木陰も、小道も、どこでさえ。ソキと過ごした思い出に満ちていた。
『ロゼアちゃん』
いまも。耳の傍であまく、柔らかな声が語りかける。
『ねえ、ねえ、ロゼアちゃん。あのね、あのね、ソキね。あのね……』
うん、と。返事をしても、その先が聞こえない。あのね、あのね、とけんめいに、なにか告げようとするソキの。たすけて、という悲鳴が、やわらかな思い出を引き裂いて消していく。
さいごの。愛告げられた瞬間に。言葉を告げようとふるえた唇が、声を発するより早く口付けた。
ある時から、ソキの声はその全てが言葉魔術師の道具だった。どんな言葉も魔術でしかなかった。たすけて、と告げたのが最後のソキの言葉。だからもうなにも、響かせる訳にはいかなかった。
たすけて、とソキは言った。ロゼアに。たすけて、と。だから。答えを聞くことは、どうしてもできなかった。
『……ききたい?』
幻が、ロゼアに語りかける。視線を落とすと、そこにはいつものようにソキがいた。いつの間にか、ずっと。ロゼアには、ソキが見えるようになっていた。気が狂ったのだと、眠り行く誰かがロゼアに言った。
幻が、それでも、本物のソキのように首をかしげる。繋いでいる手から、感じるぬくもりなどひとつもなく。言葉は空気を震わせず、体の内から響いてくるのに。それでも、ソキが言った。
『こたえを、ききたい? ロゼアちゃん。ねえねえ。……ソキが、どういう筈だったか、知りたい?』
それが紡ぐ、ソキ、という呼称は。やはり他人事めいていた。吐息に乗せて、ロゼアは告げる。
「知りたいよ」
『おねがい?』
ちょこり、と首を傾げてそれが問う。ロゼアは目を細めて、笑った。
「そうだな。うん。……うん、お願い」
『わかったです』
それじゃあね。こっち、こっち。こっちですよ。こっちにきて、と。それはロゼアの手を引っ張って、てちてち、つたない足取りで歩き出した。抱き上げよう、と思わず、ロゼアはそれについて歩く。
ロゼアが抱き上げるのは、それを、そうしようと望んだのは。望むのは。ソキ、たったひとりに対してのことで。だから、それを抱き上げよう、とは。思わなかった。
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