ひとりの。別々の夜。 28


 アスルからはロゼアの匂いがした。ロゼアが好んで身に纏う、香水の匂いだった。瓶から直接香るものではなく、ロゼアの肌に乗せられて、淡く立ち上って行く匂い。ソキはアスルに顔を埋め、ふんすふんす匂いを嗅いで寂しがった。

 瑞々しい新緑と、柑橘系の果物と、緑茶の香りがほんのり甘く染み込んでいく。頬と額をアスルにくしくしすりつけて、ロゼアちゃぁん、と呼びかける。

「アスルがいい匂いするぅ……。ねえねえ、アスルぅ。もしかしてなんですけど、ソキがいないから、ロゼアちゃんにぎゅぅしてもらて寝てたです? ロゼアちゃんのぎゅぅ、で寝るのはソキのなんですよ? いいですか? ソキのなんですよぉ……? ……でもこれはもしかして、もしかしてなんですけどぉ! 間接、ぎゅぅ、ということです? ふにゃぁんうやんやんやんきゃぁあんはうぅううう! ソキも、ソキもアスルをぎゅぅってしてあげるぅ……! えい! ……んん。やっぱり、ロゼアちゃんのほんとのぎゅぅがいいです。ねー、アスル。ねー……」

 ぎゅむりと抱きつぶしたアスルに頬をくっつけて、ソキはくちびるを尖らせた。ほにゃほにゃふわふわ響くソキの声は、寝静まった部屋にほよほよと漂うばかりで、はきとは響かない。

 深く眠りについたリトリアの吐息だけが、ソキの声のほかに耳に触れて行く全てだった。部屋は灯篭に封じられたちいさな火が揺れていて、起きているには心細くなく、書物を読んで時間をつぶすには頼りない。

 寝台に椅子を寄せ、上半身だけを伏せてすうすうと眠るリトリアをちらりと見つめ、ソキは申し訳なさに瞬きをした。

 もしかしてひとりの方がよく眠れるかも知れないから、とリトリアが寝台を提供してくれたのに。結局ソキは、アスルといちゃいちゃするばかりで眠りにつくことができないでいる。

 リトリアが眠ってしまったのは、手を繋いでもらって横になったソキが、くうくうと眠るふりをしたせいだ。安心したのだろう。よかった、さすがロゼアくん、と嬉しそうに囁き、ほどなく伏せて眠ってしまった。

 繋いだ手はいつの間にか外れていて、リトリアの指はシーツをやわりと握りこんでいた。その手も、ソキと同じように誰かを求めている。寂しいと訴えている。ひとりは嫌だと、告げている。そんな風に見えた。

 ソキではその気持ちを、紛らわせることはできても満たせない。リトリアが、ソキの苦しさを消すことができなかったように。二人で寄り添っているのに。ずっと、ひとりの。別々の夜を過ごしていた。

 そのひとは、どうしてリトリアの傍にいてくれないのだろう。ソキと同じように、どうしても、傍に行けない理由があるのだろうか。考えて、ソキは悲しい気持ちで瞬きをした。

 リトリアも、そのひとの傍に行ってはいけない理由があるのだろうか。求めているのに。心からその存在を求めているのに。それはあまりに辛いことだった。ソキには今はアスルがいるけれど、リトリアにはぎゅっとできるものもない。

 ソキはそわそわと薄暗い室内を見回し、数日間の記憶を探って考え、しゅんと肩を落とした。やっぱり、ぎゅっとできるものは無かった気がする。

 あんまり柔らかに抱きつぶせないクッションがいくつかあったが、それはつまり身を預けたり座り込んだりする用で、寂しかったり悲しかったり、眠かったりする時にぎゅっとするものは、リトリアの部屋にはないのだった。

 服とね、靴と、髪飾り。鞄や、装飾品。毎日、それから特別な時に身につけるいくつかのもの。身を飾るいくつかのもの。それは贈り物として、リトリアの元を訪れるのだという。無記名で。

 まるで名を綴ればリトリアが拒否するのではと思っているかのように。そんなことないんですけどね、とリトリアは困ったように、泣きそうに目を伏せて囁いた。誰がくれたかなんて、箱を開けた瞬間に分かる。

 贈り物がリトリアを選んで訪れたその瞬間にさえ。特別な胸のときめきが、予感が、リトリアにそっと囁きかけてくれる。あのひとが、あのひとの。あのひとからの。分からない筈がない。

 ソキちゃんだって、それがロゼアくんからなら分かるでしょう、と囁かれて、頷かない理由などなかった。

 それから、時々本が届く。児童書や、歴史書や、政治文化風習物語。様々な本が届く。まるできまぐれな揃えで。

 通りがかりに目について、たまたま手に取って、これが好きそうこれに目を通せば、これを、とふと願ってくれたかのような統一感の無さで。

 それから綺麗なつくりの万年筆と、インク。質の良い便箋と封筒。時にはかき取り用の帳面が数冊。願うように、祈るように。暖かななにかを確かに宿して、それらはリトリアの元を訪れる。

 服たちとはまた違う風に。完璧に痕跡を消した、どうあっても後を追えない匿名から。触れればリトリアに害が及ぶのだと、だから消してしまわなければならないと、そう思っている風に。違うのに、とリトリアは血色の声で囁いた。

 もし、もしも、本当にそうであるのだとしたら。王はそれを私の元へ届けてくれることはない。昔から、ずっと。あのひとたちは私にとても優しくしてくれて、それ故に、痛みや傷や苦しみ悲しみからは最大限遠ざけて守ってくれようとする。

 だからそれがもし罪なのだとしたら。私がいくら手を伸ばし乞うたとしても、あのひとたちがそれを許してくれることはない。私が、いくら、頼んでも。大人しくしていても。

 あのひとが、やりもしない罪に怯えられて、どこにも姿を現すことを許してもらえないように。

 寝物語に、ほろほろと。ソキが強張ったリトリアの、大事なひとたちに纏わるおはなしのなかで、藤色の少女は響かない声でそう告げた。溶けてしまいそうな朝露の声で。透明な、しんと染みいる水のような声で。

 ストルとツフィアの名を、リトリアは一度として出しはしなかったが、その気持ちをソキは分かるような気がした。そこだけ、そこも、ソキとリトリアは逆なのだった。

 会えなくなったから、ソキはロゼアのことを呼び続けるけれど。会えなくなってしまったから、リトリアはそのどちらもを呼びはしないのだ。会いたいと叫ぶソキとは逆に。

 会いたくなってしまうから、と口をつぐむ。その声が届きさえすれば、どんな手段を使っても、必ず、ロゼアはソキの元へ来てくれるのを知っている。届きさえすれば。届いた時に。

 来てくれないかもしれない、とリトリアは怯えて口を閉ざす。もし、もしも、もしかしたら。届いて、それで来てくれないかも知れない、と怖がって、リトリアは大切なひとの名前を胸に秘める。

 そんなことにはならないのに。

「ロゼアちゃん……。ソキがロゼアちゃんに会えないのは、きっと、ソキの呼び方がいけないに違いないです。ロゼアちゃんは、聞こえたら、ちゃぁんとソキの所にお迎えに来てくれるもん。約束です。絶対、です。だからソキの呼ぶのがまだロゼアちゃんには聞こえてないに違いないです。ロゼアちゃんろぜあちゃん。……それとも、嫁ぎ先がやんやんじゃないから、おむかえにきてくれないです? そん、そんなことは、ないです……きっと、きっと、ソキのかんちがいです……ソキはロゼアちゃんにおあいしたくて、いっぱい呼んでるです。だからまだ、きっと、きこえてないです」

 ぐずっ、と鼻をすすりあげてアスルに顔を擦りつけ、ソキはろぜあちゃぁん、としょんぼりした声で呼びやった。

「『扉』が使えなくなっちゃったから、いけないです……。きっと、きっと、ロゼアちゃんは、ソキをお迎えに行く用意をしてくれてるもん。それで、『扉』が使えるようになるのを、ソキとおんなじに待っててくれてるだけです。……ソキも、待ってるです。『扉』を見に行くです……!」

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