ひとりの。別々の夜。 27


「りょうちょ、やぁんやぁん……! 髪の毛がくしゅくしゅになっちゃうです。梳かすの、とっても大変なんですよ」

「……そうか。お前、自分で髪を梳かせるんだよな」

 愛娘の成長を目の当たりにした父親のような仕草で、寮長が目がしらを手で押さえた。寮で見ている分にはそう思えないのだが、普段ロゼアにやってもらっていることでも、そういえばソキはひとりで出来るのだった。

 そうだよな、お前ロゼアがいないでも『旅』して来れたんだもんな、としみじみと頷き、寮長はそんなことはいいですからおてがみをよろしくお願い致しますです、と差し出されるのに、そういえば、と言葉を重ねた。

「もう一通書いてくれるか。案内妖精あてに」

「リボンちゃん? ……お返事のおてがみなら、ソキは書くですよ?」

 リボンちゃんからのがあるならちゃんとくれないとだめです、と両手を差し出すと、寮長は苦笑いをして手紙を預かったりはしていないんだが、と言った。

 なんでもここ数日、『寮』に滞在している案内妖精は、とにかくロゼアを中心に怒りをぶちまけているらしい。主たる被害者はロゼア、次いでナリアン、メーシャ、寮長と続く。

 視線があっただけでも、お前誰の許可を得てアタシを見た、と特級の難癖をつけてくるので、扱いにくくて大変らしい。

 リボンちゃんったら今日もちからいっぱい理不尽です、と息を吐き、ソキは周りの苦労が分かるよな、と言ってくる寮長にこくりと頷いた。

「ソキは、じゃあ、リボンちゃん怒ったりしたらだめですよ? ってお手紙書けばいいです……? そんなことより、ソキがおうちに帰ってリボンちゃんにもただいま、をすればいいと思うです。ソキおうちかえる」

「俺もそれが最善だとは分かってるんだがな……」

「もおぉ……ソキはいつになったらおうち帰れるです? みぃんな、まだだめ、っていうぅ……」

 帰りたいなら。くすくす、笑い声が、ソキの中で囁いて行く。

『チカラを』

 密かに。

『貸してあげるヨ……?』

 一瞬。

『ボクのかわいいお人形さん』

 羽音のように反響する。

「……過去の事例を遡って調べたが、一ヶ月より長く使えなくなった例はなかった」

「い、いっかげ……つ、で、す……? ……ソキはもうげんきがなくなっちゃったです」

 ぶわっと涙ぐみ。目を手で押さえてしゃがみ込んだソキを、寮長は眉を寄せて見下ろした。ためらいがちに手を伸ばし、頭に触れ、拒絶される仕草がないことを確かめてから、ぽん、ぽん、と撫でる。

「安心しろ。そんなに長くはならねぇよ」

「ソキはそんなに長くロゼアちゃんと離れてたことないもん……ないです。ないんですぅ……」

「はいはい、そうだな。そうだな」

 お前の中の計算だと、学園に向かってきてた『旅』の日数とか、『花嫁』として旅行だのなんだのに行ってた期間の計算はどうなってるんだ、という微笑みで、寮長は適当に頷いた。

 ソキの中では、それらは別、もしくはなかったことにされているだけである。義務としてどうしようもなく放り込まれたことを除いて、一月、というのはあまりに長すぎて、途方もなくて、過ごせるとは思えなかった。

 廊下にしゃがみこんだまま、力なく動けなくなってしまったソキを見て息を吐き、分かったもうちょっとなんとかしてやるから、と寮長が告げる。

 日に一度、巡る途中に訪れて通り過ぎて行く筈の寮長が、もう一度楽音に姿を現したのは。その日の夜。

 湯を使わせてもらったソキがほかほかしながら、なんだかきもちわるくて眠れる気がしないです、と魔術師たちの茶会室でくちびるを尖らせていた時のことだった。

「ソキ」

 響いた声にのろのろ視線を向け、ソキはくにゃりと首を傾げた。今日はもう会わない筈の寮長が、ひどく疲れた顔をして茶会室の入口に立っている。

 魔術師たちの集まる一室は、寮の談話室に雰囲気がとてもよく似ていて、ソキはそこで寝ぼけていたような気持ちで瞬きをした。戻れない、という夢を見ていただけではないのだろうか。

 すすん、と鼻を鳴らしてあれ、あれ、と混乱した呟きを零すソキに、シルがゆっくりと歩み寄ってくる。男の顔色はやや青ざめていて、だるそうに見えた。

 寮長は体調が悪いです、ときゅぅと眉を寄せて不安がれば、男はさすがに日に何度もあっちこっち飛びまわればな、と言ってソキの前にしゃがみこむ。視線の高さをソキより下にして、寮長はゆっくりと口を開いた。

「夕食、どれくらい食べた? 薬は?」

「……ソキはお茶を飲んだです。お熱がないから、お薬は、ないんですよ」

「今日は眠れそうか?」

 問いかけてくる意図が分からず、ソキはふるふると首を横に振った。だよな、と深く息を吐き、寮長がソキに手を出せ、と告げる。分からないまま両手を揃えて差し出したソキの手の中に、ころん、と転がってきたのはちいさな布の包みだった。

 一枚の布を袋状にきゅっと結ぶ、リボンにつけられた紙札に、飴、と書かれている。ロゼアの字だった。

「あ……め、です? ロゼアちゃんの……? え、え……? え?」

「お前の方が詳しいだろうが、喉が痛くなった時の飴だそうだ。こっちが、気持ち悪くなった時の飴。食欲がなくて、どうしてもご飯を食べられそうにないなら、この焼き菓子を」

 もす、もす、と寮長が取り出してはソキの手に山と積んで行くそれには、ひとつひとつ紙札がくくられていた。

 紙札は全てロゼアの字で、丁寧に書かれている。ねむれない時の飴、ご飯を食べられない時のたまごぼうろ、寂しい時の匂い袋。それを鼻先へ持って行くと、ロゼアが普段から纏っている香水の匂いがした。

 ぐずっ、と涙ぐんでくちびるにきゅっと力をこめたソキに、仕上げはこれな、と寮長が背負っていたものを差し出す。

「あ……」

 ソキは布袋を膝の上にばらばらに落っことしてしまいながら、それに必死に手を伸ばした。

「あするうぅうう……! あする、あするっ、ソキのアスル……! あする、あすぅっ……」

「はぁあ、しんどかった……。ロゼアのヤロウ、遠慮なく押しつけやがって……」

「アスル……。りょうちょ、アスル、どうしたの……?」

 今俺ロゼアが遠慮なく押しつけたって言ったよな、とぬるい微笑みで。寮長はその場に腰を落として座りこむと、差し出された冷たい水を喉に通し、額に浮かんだ汗を指で拭った。

「こうでもしないと、戻れるまでに徹底的に体調崩すだろ、お前……。これで眠れるし、ちょっとは食えるな?」

「うゆ……。ロゼアちゃんに、ソキがげんきないです、って、言ったです……?」

「俺がわざわざ、言うまでもなく……」

 誰か帰る前に魔力くれ枯渇しそう、と呻きながら額に指先を押し当て、眩暈を払うように頭を振って。寮長はよろけながら立ち上がり、仕方がなさそうな笑みを不安がるソキに向けた。

「ロゼアが、お前の状態を分からないとでも思ってんのか?」

「……ロゼアちゃんが分かなないことないです」

「わ、か、ら、な、い、だろ? お前ほんと……すぐ発音サボりやがって」

 アスルをぎゅむぎゅむに抱きしめて頬をすりつけるソキに、そっと手が触れて行く。

「頑張れよ、ソキ。俺たちも頑張るから。もうちょっと待ってろ」

「……いっかげつ、です? やんやん……やぁん……」

「一ヶ月も連日、連絡係にされたらお前も嫌だろうけど俺はたぶん過労で死ぬ。だから大丈夫だ」

 じゃあまた明日くるから、それまでにゆっくり寝て、余裕があったら手紙でも書いてろよ、と言い残して。寮長は息を吐いて気を正し、魔力の補充を受けて『学園』へ戻って行った。空間が無理に揺れ動く。

 その歪を、ソキはもう受け止めて感じられるようになっていた。陸地は続いているのだという。国境から、隣国へ行くことはできるのだという。けれど、『学園』はこの世界の地続きに存在せず。歩いてそこへ辿りつくことはできない。

 魔力というか細い糸が、砕かれた世界の欠片を繋いでいる。特別なちからを持つほんの一握りのものだけが、己の意思で渡ることを許されて。ソキはアスルを抱きしめ、顔を埋めて目を閉じた。

『でも、もう分かっているダロウ? ボクのかわいいお人形さん』

 茶会室の喧騒が遠くなる。

『キミには』

 どこにいるのか分からなくなる。

『ソレが』

 わん、と反響する声が。言葉が。

『できるよ……』

 言葉がそれを告げる。でも、とソキはくちびるで音を綴った。

「がまん、しなきゃ、いけな……です。それは、したら、いけない……」

 なんでもできる、魔法のちからだ。予知魔術師の扱うちからは、望みをなにもかも叶えてしまう。けれどもそれがどういうことなのか。心を凍らせる過ちとして、ソキはそれを知っていた。

 知っていたような、気がした。そんな間違いなんて、ソキは今まで一度も、したことがないのに。繰り返し経験してしまったことのように、それはしてはいけないのだと、思って。それなのに。

『ソキちゃんは、我慢なんてしなくていい』

 柔らかな声が。

『ソキちゃんがしたいように、好きにしてよかったんだ』

 どこかで、ソキにそう囁いたことも。記憶の中にうっすら、残っているような。そんな気がした。




 さあ、と覚悟を決めた声で、風の魔法使いは虚空を睨む。

「運命の分岐点だ。……ソキちゃん」

 繋いでいた、まだぬくもりを宿す手を握って。繰り返した誓いのまま、もう一度囁く。

「今度こそ行こう、皆で。……俺たちみんなで、そこを、目指そうよ。ソキちゃん」

 持ち上げられた腕。指はひとつのところを、前を指差してぴんとしなる。前を。前だけを指し示して。瞳は強く。

「――覆す。俺たちの世界の、先へ」

 未来を、願った。


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