ひとりの。別々の夜。 25

 知らない廊下を歩いて行く。まっすぐな道を歩いて行く。天井の高い、ひどく狭い場所を歩いて行く。後ろを振り返ることが難しいくらいの。足元を見るのすら難しいくらいの。

 知らない、まっすぐな、狭い場所を歩いて行く。足音の響かない、ひどく柔らかい場所を歩いて行く。布の上を踏んで行くようだった。あるいは、捩じられた大量の糸の上を。織りあげられることが叶わなかった糸の上を。

 白い糸の上を。運命の上を歩いて行く。ソキは手を引く者の顔を見上げた。なぜだか、そこだけ暗くてよく見えない。誰に手を引かれているのか分からず、ソキはてちてち歩いて行く。怖い相手でないことは確かだった。

 それはたぶん、懐かしくて、大好きで、安心できる誰かだった。手の熱をぬくもりだと感じた。

 ねえ、ねえ、と歩く速度でゆらゆらと繋いだ手を揺らしながら、ソキはじゃれるような声で誰かに囁く。

「ソキはどこへ歩いているの? ……ソキをどこへ連れて行くです?」

「どこ、かな……。なんて言えばいいんだろうね」

「あ、あー! ナリアンくん、です! ソキ、ちゃんとわかったぁ! ナリアンくんですぅ!」

 幾度か聞いた覚えのあるナリアンの肉声とはすこし違う気がしたけれど、それは確かにソキと同じ年に入学した、風の魔法使いのものだった。低く柔らかく丁寧な囁きに、五月の新緑の葉先、光を弾くきらめきがそっと宿る。

 頭上から降ってくる声にご機嫌になりながら、ソキはナリアンくんナリアンくん、と笑って、てちてちと歩いた。

「ソキはナリアンくんとお散歩をしているです。きっと、きっと、ロゼアちゃんのところへ行くです!」

「うん。うん、そうだね。ロゼアのところ。……ロゼアのところへ、行こうね」

「きゃぁんきゃぁあああん! ソキはロゼアちゃんのところへ! 行くですううう!」

 なぜだか随分と長い間、会えていない気がした。楽音に留められたのは数日であるのに。それよりずっと長い時間、ソキはロゼアに会うことができないでいるような、そんな気がした。

 それは数ヶ月や、数年といった時の連なりのようで。それをもう何回も、何重にも繰り返して、永遠のような長さで会うことが叶わないでいるような気がした。どうしてだろう。

 どうしていつも、会えなくなってしまうのだろう。ソキはいつも、いつだって、どんな時だって、ロゼアの傍にいたくて、一緒にいたくて、それだけが望みなのに。

 どんな時も、どんなに迷っても、どんなに惑っても、それだけがソキに残されるたったひとつの望みで、希望なのに。どうしてたったそれだけのことが、いつだってうまく行かないのだろう。

 ソキはナリアンの指先を、ぎゅっと握って鼻をすすりあげた。

「ナリアンくん」

「うん。なに、ソキちゃん」

 返事をして、微笑む声で名前を呼んでくれる。その言葉のやり方は、ロゼアのものにとてもよく似ている。ゆらゆらと腕を揺らし、ぎゅ、ぎゅぅ、と手に力をこめて握りこみながら、ナリアンの声が囁いてくる。

 なに、ソキちゃん。ソキは息を吸い込んだ。道の先はまだ見えない。

「ソキは、また、まちがえてしまったです……?」

 みんなが、とても、一生懸命に頑張ってくれているのに。くれたのに。ソキがそれを理解できるのは、いつもいつも、最後の最後のことだった。最後の一呼吸。息が途絶える寸前に。

 また駄目だった。まだ駄目だった。たくさん間違えてしまった。そしてまた、ソキはロゼアと一緒にいることすら叶わなかったのだと。ソキがきっと我慢のきかないわがままだからいけないです、と鼻をすすると、ナリアンの声が違うよと囁く。

 狭い道で手を離すことも、撫でることも、立ち止まって抱きしめることもできないから。その声ひとつで抱きしめるような、暖かな響き。

「どれが、誰が、間違えたなんて……そういうのじゃないんだよ、きっと」

「でも、でも、でもぉ……!」

「それに、もしも……もし、間違えてしまってても、ちょっとくらいなら大丈夫だよ。俺がどうにかしてあげられるし、メーシャだって、ロゼアだって……力になれる。間違わないことが大事なんじゃないんだよ、きっと。それを、俺はもう、間違いとか、そうじゃないとか、そういう風にも呼びたくはないんだけど……なにか、あって。なにかあった時に。それで、そこから、どうするか。ずっと一緒に考えていけたらって、思うよ」

 なんの間違いもないことが正解じゃなかった。たぶん、これはそういうこと。それだけのこと。だから、もう大丈夫なんだよ。ぐずるソキを宥めるように、ナリアンの声が囁いて行く。

 道の先が見えない。どこまで続いているか分からない場所を、二人は手を繋いで歩いて行く。

「ソキちゃんは、我慢なんてしなくていい。ソキちゃんがしたいように、好きにしてよかったんだ。いつも、ロゼアはそう言っていたよ。我慢しなくていい、して欲しいことを言って、教えてって。……ねえ、俺にはよく分からないけど、いまでも、それをたぶん、ちゃんとは、分からないままだけど。ねえ、ソキちゃん。それは、それが、ロゼアのせいいっぱいだったんじゃないかな」

「ロゼアちゃんの……?」

「そう。傍にいたい、ってどうしても言えないようにされたロゼアの。傍にいるよ、って。そういうのがせいいっぱいの、ロゼアの」

 求めて。自分から求めて、欲しいって言って、願って渇望して手を伸ばして欲しい。何回も何回もそれを願った。何度でもそれを期待した。たった一度だけでもよかった。求めてくれたら。求めてさえくれたら。

「言葉は、難しいね。ほんのすこし、違うだけで、伝えたいことが伝わらなかったり……伝えている筈のことが、分からなかったりする。俺にはね、ソキちゃん。ずっと、ロゼアの言いたいことが分かってたよ。傍にいるよって、いうのは」

 立ち止まって、繋いだ手に力をこめて。ナリアンが微笑む。

「ソキちゃんが傍にいてって言ってくれる限りに、ずーっと離れない。そういうことだよ」

「……それは、ロゼアちゃんが、ロゼアちゃんの気持ちで、ソキのお傍にいたいっていうことです?」

「そうだよ。きっと、ずっと、そういうことだったんだよ」

 くすくす、と笑って。よく分からない、と眉を寄せるソキに、言葉が告げる。

「ロゼアの望みは、ソキちゃんの望みを叶えること。望みというか……なんて言ってたっけ。生きがい? 趣味? ……うん、ロゼアは呼吸するのと同じくらいの感じで、ソキちゃんの好きなようにするのが、好きというか趣味というか……ソキちゃんが全てなんだな、って思う。ロゼアの中は、ソキちゃんへの気持ちでいっぱいに満ちていて、だからそれを失うと生きていけないくらいなんだけど。それなのに、もしソキちゃんがロゼアを嫌うようなことがあったら、傍から離れるよって思ってる」

「ソキそんなことないないです! ソキ、ロゼアちゃん好きだもん!」

 なにがあっても。なにをされたとしても。どんなことがあっても。繰り返した世界の中、幾重にもからまった運命、その中で生きてきた命をぜんぶかけてもいい。誓える。

「ソキはロゼアちゃんが大好き。ずっと、ずっと、大好きです。きらいになることなんてないです」

「うん、うん。そうだよね。そうだったよね……ソキちゃん。俺は思うんだけど、ロゼアもそれ、無意識に分かってるんじゃないかな……」

 つまり。

「ロゼアの傍にいるよって、その起こり得ない可能性ひとつを除いて、なにがあっても離れないよってことだよソキちゃん……。それってアレだよねロゼア。最初から全然離れる気なかったよねロゼア……俺はいまでも不思議なんだけど、ソキちゃんを嫁がせるのが『傍付き』の役目だったとしても、ほんとにそれできたのかなっていうか全然そうは思えないっていうか、ソキちゃんが直前でやだやだって言って連れて逃げるよね毎回絶対そうだよね……! ああ、でもなんかいくつか、そうでないのもあったっけ……ソキちゃんのお呼ばれが遅いとか、ソキちゃんの歳がいまよりもっとちっちゃいとか、あの、今の俺たちとは違う差の世界は……それでも、それなりに幸せに閉じてるから、ここへ来ることはないけれど」

 途中から完全にひとりごとになったそれを聞きながら、ソキは分からないですと頬をふくらませた。てちてちてち、と歩いて行く。

「もう、ソキはどうすればいいですか……!」

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