ひとりの。別々の夜。 20


 急いでそれだけを綴ったらしい。便箋は一枚きりで、書かれていたのはそれが全てだった。ソキは何度も、何度もそれを頭から読みなおし、のた、のた、のた、と瞬きをしてあくびをする。

「んん……。ソキは、ねる、ことに、するです」

「……そうなの?」

「ロゼアちゃんが、おやすみなさい、をしてくれたです。ソキは、だから、ちゃぁんといいこでねれるです……ふぁ」

 よちよち、てちて、と心持ち早足に寝台に戻り、よじよじよじ、とぬくもりを宿した布の上にあがって。ソキはもう一度手紙を頭から読み、まるでそこにロゼアがいるかのように、こくん、と甘えた仕草で頷いた。

「ろぜあちゃん、おやすみなさい。……キムルさん、ありがとうございましたです。リトリアさんも、ソキと一緒におやすみなさいをするです。遅くまで起こしてしまってたです……ソキはごめんなさいをします。リトリアさん、ごめんなさいでした。ソキはもう、ちゃんと眠れるですよ」

「うん。……ううん、どういたしまして」

「朝になったらまた、返事を書くといい。届けられるようにしておくよ」

 小走りに寝台へ戻るリトリアと違って、キムルはまだ眠らない予定のようだった。眠る寸前の表情で、キムルさんはねむらないですか、と問うソキに、もうすこしばかりね、と笑い交じりの返事が返る。

 それではふたりとも、よく眠るんだよ、と囁くキムルの声が耳から消え、扉がぱたんと閉じるより早く。ソキはロゼアの手紙を胸に抱いたまま、くぅ、と穏やかな寝息を響かせた。




 朝食をお出かけ仕様にしてもらい、ソキは『扉』の前にちょこんとばかり座りこんだ。目の前ではない。忙しく動きまわり、あるいは集中してなにかを探る魔術師たちの邪魔にならない、一定距離を挟んだ前である。

 香草茶を注いでもらった保温筒をんしょんしょと広げた布の上に置き、ほわほわの焼き立て白パンの入った編み籠を置き、そわそわと『扉』に視線を投げかける。

 まだ、まだ、ねえねえまぁだ、と言わんばかりの催促の視線に、数人の魔術師が苦笑いで振りかえり、もう数人が額に手を押し当てて天を仰いだ。

 リトリア、と救いを求めて呻く声に応えるように、廊下の向こうから足早に、藤色の少女がやってくる。

 もう、と笑う声はソキを咎めているようでもあり、暖かくそのわがままを受け入れているような響きだった。リトリアの声は、常に柔らかく響く。

 それが誰に対してもそうであるのか、ソキに対してだけ、周囲が言うようにお姉さんらしく頑張っている結果であるのかは、未だに分からないことだった。

 ソキは、あさごはんはー、ここでー、た、べ、る、で、す、ぅー、と歌うように告げてえへんとばかり胸を張る同朋の前に、楽音の予知魔術師は苦笑しながらしゃがみこんだ。

「駄目でしょう? ちょっと目を離した隙に、いなくなったら」

「ソキはちゃーんと、リトリアさんに、朝ごはんをおべんとにしてもらっていいです? って聞いたですー。リトリアさんは、ソキに、いいですよ、って言ったですー。食堂のお姉さんたちも、おでかけするの? いいねぇ、って、言ってた、で・す・うー!」

「……言った……? かしら……」

 恐らく、今日の身の振り方について、王からの伝言を賜っていた最中であったと思うのだが。うっすらと服の端を引かれたような、それに対してなにか返事をしたような、気がしなくもなく。

 リトリアはううぅん、と眉を寄せながら、己の朝の適当さをひとしきり悔いた。リトリアさんは言ったですソキは嘘ついてないですえへへん、とふんぞり返って主張したのち、いただきます、と告げてほわほわの白パンをほおばった。

 あむ、あむ、あむ、と食べながら、視線を向けるのは『扉』である。腹の虫がせわしなく主張するおなかに手をあてながら、リトリアは頬を染めて同じ場所を見た。

「まだ……えっと、その、だいぶ、すごく、もうすこし、終わらないと思います。だから、ね? ソキちゃん、ここじゃなくて、食堂で食べましょう?」

「リトリアさんは、食堂でご飯を食べるです。いってらっしゃいですー!」

 ひとのはなし、きかない。ぺかーっとばかり輝く笑顔で背後にそう文字を浮かばせ、ソキは額に手をあてて沈黙するリトリアに、ぴこぴこと手を振った。

 いってらっしゃいをー、した、ですからぁー、ソキはここにいるですー、いってらっしゃいしたですぅー、とふにゃふにゃ歌うようにご機嫌で呟き、ソキはあむ、あむ、と白パンをひとつ平らげ、一緒に用意してもらった濡れ布巾でちまちまと指先を拭った。

 籠の中にいれてもらった白パンは、もうひとつある。それと見つめあうようにソキはむむむっと眉を寄せ、ちょこ、と首を傾げて考えてから深々と頷いた。

「これは、お昼のソキとはんぶんこです。ですので、ソキはこっちを食べます。うさぎさんりんごー!」

 なんと二切れもあるんですよ、と誰にともなくすごいでしょうと自慢して、ソキはまたちまちまと指先を拭ってから、それを持ち上げた。

 うさぎの頭からちまちま、ちまりとかじりながら、ソキはしゃがみこんで半眼になっているリトリアを、不思議そうに眺めやった。

「リトリアさん、どうしました? あっ、うさぎさんりんごはねぇ、食堂のお姉さんがねぇ、うさぎさんなら食べられるかなー? って言って、ソキに特別にむいてくれたんですよ。でもリトリアさんも、お願いすればうさぎさんりんごにしてくれると思うです。甘くって瑞々しくっておいしいです!」

「ソキちゃんの、朝ごはんは……もしかして、もしかしなくても、そのパンひとつとりんご二切れ……?」

「ソキはおなかいぃっぱい、食べたです」

 しゃくしゃく、ごくん、とりんごを飲み込んで、ソキはちまちまと指先を拭った。場にロゼアがいたのなら、完璧に飽きている、と判断してあの手この手で食事を続けさせただろう。

 しかしソキの食事事情に精通した『傍付き』はこの場におらず、王宮魔術師たちはその事実を知らない。リトリアも、『学園』に向かう最中に傍で見ていたこともあり、逆に、あの時よりは少ないけれどソキの食事量はこれくらい、と思ってしまった。

 おなかいっぱいならしょうがないね、と心配しきった目で溜息をつき、『扉』から視線を外さないソキに囁きかける。

「それじゃあ、すぐに戻るから……どこか移動したくなったら、必ず王宮魔術師の誰かに声をかけてね」

「ソキ、ロゼアちゃんの所へ帰りたいです」

「うん。……うん、そうね。そうだよね……」

 それ以外のどこかへなど、行きたくはならないのだと。拗ねた声で主張するソキに、リトリアは手を伸ばした。ソキがどうしても、と言って聞かなかった為に昨日と変わらない髪型は、寝乱れてくしゃくしゃになってしまっている。

 形の崩れた、髪で編まれた花のかたちを、もうすこしどうにか見栄え良く整えて。リトリアは、大丈夫ですから、と囁いた。ソキは視線を向けずにちいさく頷く。なにがですか、と尋ねることはできなかった。

 その日も、ソキは昼寝をすることができず。日が沈み、夜が訪れた。




 普段なら眠っている筈の時間に起きていたせいで、ソキの機嫌も体調もゆるゆると悪くなっていた。元々、朝になったら帰れるという思いが機嫌を良くさせていただけなので、他に上向いて行く理由などある筈もない。

 昼を回り、日が沈み出し、あたりが暗くなると、ソキはぶすうううっとして誰とも口を利かなくなった。借りたクッションをぎゅむぎゅむと抱きつぶしながら、そこに頬をくっつけて『扉』を見つめ続けている。

 そこに、日中慌ただしく動きまわっていた魔術師たちの姿はない。僅かに二名が『扉』の前で書きものをし、考え込み、時折言葉を交わしているだけで、解決に繋がるような行動をなにもしていない、というようにソキには見えた。

 陽が落ちる頃、もうしばらくかかるようだから今日もリトリアと一緒にお泊まりしてお行き、というようなことを、誰かがソキに告げたのだが。それをソキは聞かないふりしたので、知らない、ということにしていた。

 『扉』の接続は停止状態であるのだという。それがどういう風な、どういう状態で、どういうことをすればそうなって、どうすれば直るのか、というのを、誰かがソキにちゃんと丁寧に教えてくれたのだが。

 とりあえず今日も帰れないし、明日も駄目だと思うし、明後日もまだ難しい、まで聞いた所でソキはふぎゃあぁあああっと荒れた威嚇の叫びでばたばた暴れて、なかったことにしたので、つまり明後日までまだ帰れないかもしれないなんていうことは、ソキはちっとも知らないのである。

 手紙を送るのも、調整の一環で行われていることだった。その調整も様子見となってしまったせいで、ソキの手元には昨夜と比べてもう一通、ロゼアからの手紙があるばかりである。それは昼前に届けられた。

 淡い光を放つ封筒が『扉』の前に突然に現れ、今まさに誰かがそこで持つ手を離したかのように、廊下に落ちて行ったのである。恐らくは朝に書かれた、ロゼアからの手紙だった。

 眠れたかを心配し、起きられたことを褒め、朝食を食べられる分だけは食べるように、と綴られた手紙を読んで、それをぎゅぅと胸にかき抱き、ソキはうるんだ目でくちびるを尖らせた。

 ソキはちゃぁんと朝ごはんを食べられたんですよ、と主張はしょんぼりとしていて、傍らでリトリアが遠い目をしていた。

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