ひとりの。別々の夜。 17


 慣れないかも知れないけど、我が君は怖い方ではないからそう緊張しないでも大丈夫だからね、と囁き残して。キムルはソファにちょこりと腰かけたソキの肩を撫で、王の執務室からいなくなってしまった。

 かすかな音を立ててしまる『扉』に、取り残されたような気持ちになる。きゅぅ、と眉を寄せて落ち着かないソキに、室内にいる文官や護衛の兵士たちから、忍び笑いが向けられた。

「……んん」

 こういうときは。どうすればいいんだっけ。考えながら、ソキはソファに背筋を伸ばして座りなおし、見つめるどの視線にもやんわりと微笑み返した。そうすると自然に、染み付けられた教育が顔を出して囁きかけてくる。

 表情は、仕草は、手の動かし方、置く位置、指先で乱れた服をそっと整えて、くちびるを閉ざして、ソキは己をいったん整え終えた。魔術師のたまごのソキは、王の前でどうすればいいのか、まだすこし分からない。

 砂漠の王は、ソキの出身国で主君だけれど、丁寧に接するよりはいつもの通りにしていた方が要求が通りやすいことが分かったので、最近はそうしているだけで。

 あとあんまりロゼアによく似ているので、ついうっかり普段の通りに接しているだけで。

 陛下もそれでいいかなってあんまり注意したりしないですから、ソキはこういう時に魔術師のたまごさんがどうすればいいのか分からないです。

 失敗です、とくちびるを尖らせて文句を言いたい気分を堪えながら、ソキは室内を淡く満たす感嘆の吐息に微笑みを深め、ゆるく視線を手元に伏せた。

 この間からロゼアがこまめに指先のおていれをしてくれるので、今日も爪先は淡く真珠色に艶めいていた。指先に色を乗せられる時間。そこがロゼアの好みに整えられていくひとときは、かけがえのないものだ。

 『お屋敷』にいた時、ロゼアがそうしてくれることは、多いようですくなかった。そこにはだいたい『運営』の意見が挟まったし、次に『旅行』に行く相手の服や色の好みに合わせ、整えられていくことが圧倒的に多かったからだ。

 ロゼアだけの好き、でソキが整えられたのは、その目をかいくぐって苦心した末の、ほんの数度に数えられるだろう。

 は、と幸せな息をもらして、胸元に手を押し当てる。ソキを自分の好みで思うさま整えることに、ロゼアは最近とても楽しそうで、時間をたくさん持ってくれていた。それに、最近、ロゼアはソキをぎゅぅ、と抱き締めてくれる。

 ような気がするのである。

 体が覚えているより、ほんのわずか。ほんのすこしだけ。力をこめて、ぎゅぅ、と抱き締めてくれているような。そんな気がして。ソキは目をうるませて頬を赤く染め、瞬きをしながら考えた。

 もしかして。ほんとうのほんとうに、もしかして、なのだけれど。ロゼアはソキのことを好きになってくれたのではないだろうか。

「だって、だってぎゅぅが……そんなの、『お屋敷』にいた時はしてくれなかったですし……。いっぱい、いっぱい、お手入れも……前からしてくれてるですけど、最近、とくに、いっぱいしてくれるようになった、ですし……。はぅ……ロゼアちゃんはもしかしてソキのこと、ソキのこと……!」

「うん、うん。ロゼアがソキのこと?」

「ちょっぴり好きになってきてくれたのかもです、はうぅ……。……う? ……びゃあああ!」

 いつの間にか。顔を覗き込んで悪戯っぽく問いかけていた楽音の王に、ソキは思い切り驚いた声をあげて、ソファの上でぷるぷると震えた。ついうっかり考えごとをしていたせいで、ここがどこなのか、をすっかり忘れてしまっていた。

 ふるふると小動物的な身の震わせ方をしながら、ソキはおずおず、楽音の王に向かって頭を下げた。

「失礼をいたしました……」

「はい。次からはしないようにね。……それで?」

「そ、それ、で……?」

 緊張するソキに、あまり若い子いじめるのはどうかと思いますよ、と助けの声が飛ぶが、楽音の王はそれを柔らかな笑みで無視してみせた。王はソキに手を伸ばし、さらさらの髪を指先で弄びながら、目を覗き込んで囁いてくる。

「ロゼアとは、いまどのような関係なのかな?」

「え、えっと、えっと……えっとぉ……?」

「私の魔術師、チェチェリアの大事な生徒のことですからね。王としてそこは知っておかないと」

 我が王はじつに滑らかにものすごい嘘をつく、というか目的の為にさほど手段を選んでくださらないのがほんとまじ珠に傷というか傷というか致命傷、と部屋で呻く文官たちと王を見比べながら、ソキは戸惑った風に何度も目を瞬かせた。

 えっと、えっと、と両手の指先をもじもじ擦り合せながら、頬を赤くして俯いてしまう。

「ソキはロゼアちゃんにとっても手間暇をかけてもらったです……。今日のお服ですとか、靴ですとか、髪とか、んと……今日は全部ロゼアちゃんのすきすきにしてもらったですから、今日のソキはかんぺきにぜぇんぶ! ロゼアちゃんのすきすきなんですよ」

「うん。……うん?  ……ああ、そういえば彼はストルと同じ砂漠系男子でしたね。……はい、それで?」

「そ、それで、です……? えっと、えっと……!」

 ソキは室内で粛々と王が片付けた仕事を整理している文官たちに助けを求めたが、微笑まれるかそっと視線をそらされるかのどちらかで、救いの声すらかからなかった。

 えっと、えっと、と目をぱちぱちさせながら、ソキはうるんだ目でくちびるを尖らせる。

「それで、です……? 陛下はソキになにを聞きたいんですか……?」

「先日、予知魔術師を二人並べて可愛がりたいんですよね、と言ったら『砂漠の』にお前なに考えてんだよ馬鹿偏るにも程があるだろうが予知魔独占禁止法案とか作られたくなかったら諦めろ、と暴言を吐かれたもので。それでは時々遊びに来る機会を狙うとして、そうするとやっぱり恋人を確保しておくのが一番だと思うんです。ね? ロゼアくんが楽音の王宮魔術師していたら、ソキはたくさん顔を見に来たくなりますものね? もちろん泊って行ってもいいですし、他の王に楽音の王宮魔術師がいいな、楽音にいきたいな、楽音で働きたいな、と言ってもいいんですよ?」

 拒否権、という言葉がソキの頭をちらつき、音速でどこかへと消えて行った。告げられた内容を懸命に考えながらも、ソキはつん、つん、と指先を突き合わせてしょんぼりと肩を落とす。

「ソキ、ロゼアちゃんの恋人、じゃないです……。でもお顔は見に来たいです……。ロゼアちゃんは、『学園』を卒業したら、楽音の王宮魔術師さんになるんですか……?」

「チェチェリアもうちの魔術師ですし、同じ属性のキムルもいますからね」

「……ソキはロゼアちゃんと同じ所へ行きたいです。陛下、ソキはすっごく頑張るですから、ロゼアちゃんが楽音の、王宮魔術師さんになるでしたら……ソキ、なんにもしないで大人しくしていますから、だから」

 一緒にしてください、と願う言葉は。ノックと失礼しますという悲鳴じみた声と共に開かれた扉の向こうから、現れたリトリアによって阻止された。遠くから走ってきたのだろう。

 ぜい、と肩で息をしながら、リトリアは早足で歩み寄り、王とソキの間に体を滑り込ませるようにして告げた。

「もう! いけません、陛下……! 諦めてください、と先日もお願いしたではありませんか……!」

「リトリア? 私はただ、予知魔術師が希望を言葉にして告げたのだから、これは予知ではないかな? その言葉を捻じ曲げようとすると、魔力消費やらなんやかんやでとても大変なことになるのではないかな? いいの? よくないよね? と次の会議で他の王たちにちょっと言ってみたりするだけですよ?」

「魔力漏れさえ起こしていなければ、いくら未熟な魔術師のたまごであるといえど、私たちの言葉がそのまま全部予知になったりすることはありませんと、私は先日もご説明申し上げたではありませんか……! 陛下分かっていて言っているでしょう……!」

 楽音の王はうるわしく笑みを深め、そうだったかな、と嘯いてみせた。そうだったんです、と涙ぐんで力説するリトリアに、室内からはいくつか応援めいた視線が向けられるものの、ソキの時と同じように言葉がかけられることはなかった。

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