ひとりの。別々の夜。 18

 この王宮で、王に意見をちゃんと言い聞かせられる者はごく限られている。その数少ない一人、リトリアは、溜息とも嗚咽ともつかない風に空気を重たく震わせ、泣き濡れたような花藤色の瞳で王を正面から見つめた。

 ともかく、とやや気を取り直した、まっすぐな声が囁く。

「このような形で、ソキちゃんの進路を決めてはいけません……し、決められない、と我が陛下、あなたも分かっておられるでしょう……? どうしてこういうことをなさるのですか……」

「ものは試しに?」

「試さないでください、お願いします……!」

 くすくす、と肩を震わせて楽しげにする楽音の王に、確かにリトリアは言葉を届かせることのできる数少ない一人ではあるのだが。それ以上に、てのひらでころころ転がされて遊ばれることが多いのを、リトリアは誰よりも知っていた。

 もう、と嘆きに震える声を落とし何度も瞬きをして、とにかく、とリトリアはきゅっと手を握って顔をあげた。すぐに気を取り直せるのがリトリアの良い所、と王の傍にある文官たちからの評価は高い。

「さあ、陛下。キムルさん、エノーラさんたちから報告が届くまで、まだ時間がございます。その間、ソキちゃんの面倒を私に任せて頂けませんでしょうか……? ね、ソキちゃん? ソキちゃんも、陛下より、私の方がいいですよね……? ね、ねっ? えーっと、えーっと……ロゼアくん! そう、チェチェから聞いたロゼアくんの話をしてあげる……!」

「ソキ、リトリアさんと一緒にいるぅー!」

 ソキを釣りたかったらロゼアを出せあいつハイパーちょろいぞ、と教えてくれた寮長に、リトリアは心の底から感謝した。

 肩を震わせて笑っている楽音の王は、己の魔術師が必死になって離そうとしている行動を面白がっているだけで、気分を害した風には見えなかった。

 それにほっと安堵しながら、リトリアは差し出した手を、その指先をきゅぅ、と握って立ち上がったソキに、それじゃあ行きましょうね、と微笑みかけた。

 ソキはこくん、と頷き、にこにこ見守っていた楽音の王が意外な驚きに目を見張るほど、うつくしい仕草で一礼する。

「それでは、陛下。失礼致します。またお目にかかる機会を楽しみにしております」

「失礼致します、陛下。また後ほど。……さ、ソキちゃん。こっちよ」

「はーい。……ねえねえ、ロゼアちゃんのおはなし、です? どんなおはなし?」

 てち、てち、よち、よち、歩きながら、ソキはこしょこしょとリトリアに囁きかける。リトリアは部屋の扉を押し開き、ソキちゃんが聞きたいおはなしを、と囁き返した。




 今日はお泊まりだよ、とキムルがソキをじっと見つめながら囁いたのは、リトリアの部屋に来て二時間ばかりが経過した頃だった。本来ならとうにお昼寝の時間である。

 しかし慣れない場所とリトリアと会話をする興奮が、ソキから上手い具合に眠りを遠ざけ、それでいて微妙なだるさを全身に広げてしまっている頃だった。ふぁ、とちいさくあくびをして、けれども眠れるような気もせず。

 それでいて鈍い疲労を瞳に塗りつけて、ソキはぱちぱちぱちんっ、と瞬きをした。ゆっくり、ゆっくり、首を傾げて眉を寄せる。

「ソキは、ロゼアちゃんの所へ帰るんですよ?」

「うん。でもね、今日はお泊まりしようね」

「キムルさん? ソキはぁ、ロゼアちゃんのとこに、帰りたい、って言ってるんですよ?」

 くちびるを尖らせて言い聞かせようとするソキに、キムルが困った顔でなにかを告げるより早く。ちいさな円卓の向いに腰かけていたリトリアが、やや青ざめた面差しで立ち上がった。

「キムルさん、チェチェは」

「……連絡は、なんとか。今日は『学園』に泊まりだね。……ソキちゃん、今日は、みぃんなお泊まりなんだよ。その国にいるひとは、その国に。『学園』にいる者は、『学園』に、いなければいけない。ソキちゃんだけじゃない。分かるね?」

「でも、でも……でもぉ……」

 うるっと涙が滲みそうになるのを、瞼の上からてのひらでぺとりと押さえて。ソキはすんすん鼻を鳴らし、目を閉じ俯いたままで呟いた。

「ソキ、ロゼアちゃんに、お泊まりしていいです? って、聞いてない、ですし……お泊まりの、準備も、していないですし……。それに、それに、ソキは、ソキ……ソキ、いやです……。お泊まりは、いやです……。ロゼアちゃんのところへ帰してくださいです……お願いです。お願い……」

「一刻も早くの、努力はしよう。約束する。でも、今日は聞き分けてくれないかな」

「……なんでですか?」

 引きつって、くしゃくしゃで、なんとか絞り出したような声だった。全身に力をこめて、泣いてしまうのだけはどうにか堪えている。瞼を押さえるソキの指先が白く、力をこめて震えるさまを見つめながら、キムルはゆっくりと言葉を紡いだ。

「『扉』が使えないんだ。今、各国の王宮魔術師たちの中でも、僕のような錬金術師、それに空間魔術師や、『扉』に関する知識技術を持った者たちが復旧にあたっている。原因の特定を含めて、ね。……でも、教えたように、『扉』は元々やや不安定なものなんだよ。時々、こうして使えなくなる。数日すれば、元通りになる。その、元通りになるまでの時間を、たくさんの努力で短くすることはできる。でも、どんなに短くても、それは今日にはならないんだ」

「あした……明日になれば、帰れますか? 明日まで、明日まで、がまんです……?」

「誰もが、そうなるように、努力するよ」

 おやくそくしてくれないなら、ソキは嫌です、かえるです、とぐずるのに苦笑して、キムルはリトリアに視線を流した。頼んだよ、とばかり微笑みかけられて、リトリアは力なく頷いた。

 できる限りのことはしますけれど、と呻くリトリアによろしくと告げ、キムルは足早に部屋を出て行った。『扉』の調整に取り掛かるのだろう。部屋の前の廊下は、行きかう魔術師たちで慌ただしい。

 リトリアの能力が、あるいは個人が、そこへ助力を求められることはない。火のようなざわめきはキムルが扉を開けた瞬間、ふわりと室内に触れ、閉じると再び遮断される。

 それを悲しいとか、苦しいとか、思ってはいけないとリトリアはくちびるに力をこめた。そうなるよう、そうあるよう、選んだのは他ならぬリトリアだ。

 目を伏せて、祈るように名を呟く。瞼に浮かぶ二人は、どちらも『扉』を調整する適性があった記憶はないが。優秀な魔術師であることは確かだから。その力が正しく導かれれば、動き回る彼らの助力になるのは、間違いがないことだった。

 リトリアは息を吐き、目を閉じ震えるソキの前に歩み寄る。しゃがみ込み、ソキちゃん、とそっと名を呼べば、いやいやと甘えた仕草で首が振られた。

「そき、おとまりするですって、ろぜあちゃに、いてない、もん……。これは、むだん、がいはく、なんですよ。いけないことです。いけないことです……。ロゼアちゃんが、お泊まり、だめ、って、言ってる、かも、です。もしそうなら、たいへんなことです……」

「……えっと、えっとね。その、ね……その」

「いけないことです……。ロゼアちゃんが、ソキをきらいになったら、どうしよう……」

 それはない、と瞬間的にリトリアは真顔になった。そんなことで嫌いになるような相手である筈がない。

 深く話したことや、関わったことすらなかったが、チェチェリアから伝え聞くロゼアというひとは、それはそれはもうこよなくこのうえなく心おきなくソキのことがものすごく力いっぱい大好きだからである。

 なにせ、授業中ずっと苛々して不機嫌で、それでいてそれをチェチェリアにぶつけようともせず内側でくすぶらせるようなことがあっても。

 授業が終わり、ソキがてちてちと迎えに来るだけでその不機嫌が霧散し、あっさりとほわほわの穏やかな上機嫌になること十数回、との話である。

 ちなみにロゼアは、ソキの足音が聞こえなくてもその姿が見えなくても、迎えに来てくれたことがすぐに分かるらしい。チェチェリアより先に気がつかなかったことは、これまで一度もなかったらしかった。

 ロゼアの機嫌が傾いでいる時はソキを呼べばいい、というのが、担当教員としての報告書にも書き加えられている程だった。機嫌のみならず、魔力の不安定にも効くらしい。

 五王とその側近魔術師たちにおいて、ソキは対ロゼア用万能薬とみなされている。不慮の事故で『学園』に残されたチェチェリアを想って、リトリアは拳を握った。

「手紙を、書くのはどう……? お手紙で、今日はお泊まりします、って言うのは?」

「おてぁみ。……おてがみ、届く? 届くです?」

 じゃあなんでソキは届かないの、と言わんばかり尖らされるくちびるに、リトリアは根気強く囁きかけた。『扉』の安定調整の過程で、実験的に物を送ることがあって。その時に『学園』に向けて届くように、お願いしようね。

 大丈夫、どこか別の所へ行方不明になってしまうことはなくて、駄目なら届かないで戻ってくるし、戻らないならこれまで、届いていなかったことはなかった筈だから。

 それでね、ものが届いて、これなら安全に行き来できるなってなったら、ソキちゃんも帰れるからね。だからその為にも、お手紙を書いて出して届けてもらおうね。きっとロゼアくん、喜ぶよ、と付け加えられて、ソキはきゅうぅ、と眉を寄せた。

「……ロゼアちゃん、喜ぶ? ……よろこぶ? ほんと?」

「ほ、ほんと、ほんと! きっと、とーっても、嬉しいと思います。ね? お手紙書いて、お泊まりします、って言おう? そうしたら、ソキちゃんは無断外泊じゃなくなるし、それに」

 きっとたぶん今頃すごくご機嫌うるわしくない感じになってるロゼアくんも落ち着いてくれることを祈ってみたりするから待っててねチェチェ待っててね手紙書いてもらうからもうちょっとだけ頑張ってねっ、と祈るリトリアの内心など、知らず。

 ソキはすん、すん、と鼻をすすって、おてぁみかくです、とふわほわしきった声で告げた。

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