ひとりの。別々の夜。 15


 すんすん、くすんっ、と鼻をすすり、くちびるを尖らせ、ソキは目をうるませた。

「ソキはちゃんと、迷子になっちゃったらなにをするのか知ってるです……。じっとして、動かないで、ロゼアちゃんを待っていなくちゃいけないです。どうして陛下は、迷子になっちゃたソキを動かそうとするです? こんなのはだめです……。えいえい、うーん……うーん、とれないです……」

 いいもん帰ったらソキはロゼアちゃんに言いつけ、あっ間違えたです、迷子の時にどうすればいいのかもう一回ちゃぁんときくです。

 もしかしてなんですけど『花嫁』の迷子と、『魔術師』のたまごのソキの迷子はちょっぴり違うかも知れないですしでもでも札やぁんやぁん、とぐいぐい迷子札をひっぱって、取れなくて、ソキはぷううっと頬をふくらませた。

 反省札にかけられていたのは呪い、対してこちらに付与されているのは祝福であるのだが、意思に反してちっとも取れてはくれないので、ソキにしてみればどちらも同じようなものである。

 もお、もおおぉっ、と怒りながらよちよちてち、よち、よち、とけんめいに廊下を歩き、ソキはふう、と息を吐き出して立ち止まった。

 ふにゃ、と笑み崩れて、ソキは編まれた髪にぺとりと両手をくっつける。綺麗な細い三つ編みを耳の上でくるりと巻き、お花の形に仕上げたそれは、朝のロゼアの力作だ。

 ぺた、ぺた、崩れないように気をつけながらそっと手で触って、ソキはやんやん、と頬を赤く染めて身をよじる。

「これはきっと、ロゼアちゃんがすきすきな髪形です……! だってぇ、ソキは、今日はかわい? て聞かなかったですのに、ロゼアちゃんはソキをぎゅぅして、きゃぁんきゃぁんぎゅぅってして、ソキはおはなさんだな。て言ったです。きゃぁあんソキはロゼアちゃんのかわいいおはなさんです? って言ったらいっぱい、いっぱい、いーっぱい! かわいいかわいいおはなさん。かわいいそき、ていてくれたですうきゃぁんやぁん!」

 はうぅはううぅ、ソキはロゼアちゃんのかわいいおはなさん、です、えへへへ、と照れた顔でもじもじしたのち、ソキは気を取り直しててし、と脚を踏み出した。はやく『学園』に帰って、いっぱいロゼアにくっつかないといけないのである。

 ロゼアは最近、なんだか、もしかして、ソキの気のせいでなければ、なんだかちょっと強めに、ぎゅぅ、をしてくれるようになったので。『花嫁』の時にはなかった、ちょっと強いぎゅう、なので。

 これはもうめいっぱい堪能しなければならないのである。

 ふにゃんふにゃん、もしかしてもしかしてなんですけどぉ、ロゼアちゃんはもしかしてっ、きゃあぁああんもしかしてソキのことがちょっとすきすきなんですかきゃあぁああんきゃあぁあんっ、とめいっぱいはしゃいで、ソキはただまっすぐに歩けばいいだけの廊下、の終着点へ辿りついた。

 『扉』は砂漠の王宮の果てにある。一番端っこ、くらいのことしかソキには分からない。東西南北、という方角があることは知っていても、いまひとつ、どれを当てはめればいいのかよく分からないからだ。

 とにかく一番端の、しんと静まり返った廊下の終着点。どの王宮でも、だいたいそういう位置にあるように。そこに『扉』があった。壁に直に、埋め込まれるように、目の錯覚を利用した絵画じみて、そこに『扉』はあった。

 ちかちか明滅する淡いひかりが、ひえた音のない空気に満ちている。ソキだけしかいない静まり返った廊下で立ち止まり、ソキは言い知れない不安にきゅぅと眉を寄せた。静かすぎる場所は、どうしても慣れない。

 はやく、はやく、ロゼアの元に帰らなくちゃ。冷たい指先を『扉』に伸ばす。乾いた空気を吸い込んで、教えられた魔術式をくちびるに乗せようとする。その時だった。くすくすくす、と笑い声が染み込んで響く。

『ど、コ、へ、い、く、ノ?』

 ちかちか。ソキの視界を覆い尽くすように降り注ぐ、明滅する魔力の残滓が。ソキの目を耳を意識を塞いで内側から声を響かせる。廊下に落ちた影を縫いとめるように。ソキの息を苦しくしていく。

 かたかたと指先が震えた。その声と痛みをどうしても忘れることができない。

『……こっちへオイデよ。ボクのかわいいお人形サン?』

 意思とは関係なく振り返った先。ひっそりとしたくらやみの広がる廊下の隅に。いびつな『扉』が見えた。古木を切りだして作られた、正規の『扉』とは違う。それは焼け焦げた木材を切り張りして、どうにか形だけ整えたような、『門』に見えた。

 白い壁にざらざらとした黒炭の、いびつな線が引かれている。ぽっかりと開いた空間には、下へ降りて行く階段が見えた。その先に。なにがあるのか、ソキは知っている。

 そこでソキは壊された。四年前、十の時に。一度だけの悪夢。けれども何度も、何度も繰り返したかのように。痛みと恐怖が魂にこびりついている。

 目の前に差し出された手が、見えるような気がした。それにどうしても逆らえない。手足に糸を穿たれた操り人形じみた動きで、ソキはよろよろと脚を踏み出した。

 ゆっくり、ゆっくり、ひどく時間をかけてほんの数歩の距離を歩み、ソキは『門』へ手を伸ばした。焼け焦げた木材に指先が触れる、寸前。音を立てて逆巻いた風が、足元からソキを包み込むように立ち上る。

 と、とと、とよろけて『門』から離れ、ソキは音を立てる心臓の上に、つよく手を押し当てた。ちかちか、乱反射する魔力に眩暈がする。誰かの魔力が、確かに、ソキを形なき意思から守ったのだ。

 けふ、とひりつく喉で咳をして、ソキはぱちぱち瞬きをする。

「なり、あ、く……?」

『未熟な守りなど一度きりダヨ。……オイデ』

「や、や! う、うぅ……!」

 背中を突き飛ばされたように。とと、と脚を踏み出すソキの体を、駆け寄ってきた誰かの腕がやんわりと抱きとめる。耳の奥で響く深淵の言葉をかき消すように。淡く息切れを起こした囁きが、ソキの耳に吹き込まれた。

「だめだよ。そっちはだめ。……だめだよ、君をひとりで行かせる訳にはいかないよ」

「……え、と?」

 ぱしぱし瞬きをして。ソキは抱きとめる腕にぐったりと体を預けてしまいながら、視線だけを動かしてそのひとを見た。見覚えのない、男だった。肌にちりちりと触れて行く魔力が、男を魔術師だとソキに告げている。

 砂漠の国の王宮魔術師。けれど、ソキには見覚えがなかった。十年前の事件や、『学園』に行く途中で、その時王宮にいた魔術師とはほぼ顔を合わせているのに。不思議そうにじっと見つめてくるソキの背を、男は慣れた仕草でぽんぽん、と叩く。

 どこかロゼアに似た仕草だった。

「……どなた、です?」

 男は砂漠の民特有の煮詰めた飴色の肌ではなく、よく日焼けした小麦色の肌をしていた。藍玉を砕いて染めたような髪と、眠りにつく砂漠の夜のような、落ち着いた黒色の瞳をしている男だった。

 肌に触れる魔力からは、水の気配がした。水属性の、黒魔術師。属性は違うのに。ロゼアと。ナリアンに。とてもよく似ている、とソキは思った。

「俺は、ジェイド。……きみはソキ?」

「ジェイド、さん。です。……あ!」

「ん?」

 いつの間にか、手足を縛る糸は断ち切られていた。首を絞められているような息苦しさも、だるさも、消えている。

 見えていた筈の焼け焦げた『門』すら消えていることに気がつかず、ソキは頬、首筋、額、と手を滑らせて触れてくるジェイドに、きらきらした目で拳を握る。

「砂漠の、筆頭魔術師さん、です! 本当にいたです……! フィオーレさんが、この間、あれ? うちの筆頭ってほんとうにいたっけじつは非実在じゃなかったっけ? とか言ってたですからソキはちょっぴり不安だったですけど、ほんとにいたです……! ジェイドさん、です……!」

「いるよ、いるよー。あははは、とりあえずフィオーレお前はあとでみぞおちを殴る」

 体調は崩していないね、と髪を指先でそっと撫で、ジェイドは微笑みながらこつ、とソキと額を重ね合わせた。

「間に合ってよかった。怖い想いをしたね、ごめんね。……さ、はやくロゼアの元へお帰り、お嬢さん」

「……ロゼアちゃんと、お知り合い、です?」

「うん? ……うん、一方的に知ってるよ」

 また今度時間を見つけて新入生に挨拶に行くから、その時にでもね、と微笑んで促すジェイドに見送られ、ソキは今度こそ『扉』を開く。

 ありがとうございました、と早口に言って姿を消したソキにひらひらと手を振ってから、ジェイドは『門』のあった場所に歩み寄り、がつっ、と音を立てて壁を蹴る。

 消えたそれを踏みにじるようにしながら、ジェイドは目を細め、口元だけで笑った。

「大人しくしてろよ、シーク。俺が許可取って殺してやるって言ってんだろ?」

「……ひっ、ひいいいいい我らが筆頭がなんか超お怒りなんだけどなんでなんかヤなことあったのっ?」

「あ。フィオーレだ。フィオーレおまえちょっと来い殴る」

 会議に遅刻して城内を彷徨っている、らしい筆頭を探しに来た白魔法使いを、男は微笑んで手招き。なんでなんでっ、と騒ぐのを、誰が非実在だ、と言って宣言通りに殴り倒した。


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