ひとりの。別々の夜。 07
意識の向こうで、ごくちいさな金属音が空気を揺らす。それがソキにとっての、朝の始まりの合図だった。運動に行ってきたロゼアが、戻ってきた音だったからだ。
常に人の目と気配のする中心で育てられたソキは、そもそも圧倒的な静寂というものに慣れないし、それをとても苦手としているが、中でも鍵を開ける金属音というのは異質なものだった。
『お屋敷』のソキの部屋に、閉められる扉、というものはついていても、殆ど役目を果たしたことがない。そこは開け放たれているか、必要があって閉じられているかのどちらかで、単純に空間を区切る板として存在していた。
閉じられた密室、というのが『お屋敷』にはない。ごく正確にするなら、『花嫁』が移動できる範囲、知覚できる世界のすべて、として存在している『お屋敷』という空間において、鍵をかけていい部屋、というのはひとつとしてないのだった。
閉じられた部屋で、『傍付き』とふたりになってはいけないからだ。誰の目も手も届かない空間で、手を伸ばす誘惑を『花嫁』は振りきることが出来ない。だから部屋に鍵をかけてはいけないし、ふたりきりになど、なることは許されなかったのだ。
昔、ロゼアがソキの『傍付き』を辞めさせられかかって、それから戻ってきた時に。ロゼアが部屋に鍵をかけて、ソキとずっと二人きりで傍にいてくれた気がするのだけれど。
その時のことをソキは上手に思い出せないし、覚えていることができなかったので、総合的になかったこと、にされている。枯れかけ、正気を失いかけた間のことを、覚えていられる『花嫁』はいない。
ん、とすこし考え込むようなロゼアの声が遠くで聞こえる。そんなに離れていないで、早く傍に戻ってきてほしいのに。
あんまり眠くて、暖かな布にくるまれきっているソキは、ぽかぽかでうっとりしていて、目を開けることも声を出すことも出来なかった。ソキの全身を包み込むぬくもりは、今日はなんだか特別にしあわせな、いいにおいがする。
うと、うと、と再び眠りに落ちかけながら、ソキはいっしょうけんめい考えて、頷いた。ロゼアにぎゅっとしてもらった時の、いいにおいと同じである。ふにゃふにゃ笑いながらその布にくしくし頬をすり付けるソキの、髪にそっと指先が触れた。
ソキ。一度、名前が零れて肌に触れる。星灯りのように暗闇に瞬く。くらやみを明るくするひかりの声。夜明けを告げるロゼアの声。
寝乱れた前髪を、額に触れながら指先が丁寧に整えていく。頬をくすぐったいくらい何度も、何度も柔らかく撫でた手の先が、耳をすっぽり包み込んで首の後ろにも触れてくる。
くしくし、爪の先でくすぐられて、ソキはきゃぁっと笑って瞼を持ち上げた。ねむくてねむくてとろとろの眼差しで、傍らに腰かけ、微笑んでいるロゼアをぼんやりと見上げる。
「ろぜ、あ、ちゃー、ん……こしょって、しちゃ、だぁ、めぇー……。くすぐたい、で、す、うー……」
「おはよう、ソキ。……くすぐるのは、嫌?」
「ん、んー……くすぐったく、て、ソキは、きゃぁてする、ですけどぉ……ロゼアちゃんに、触ってもらえるのは、とっても、とっても、うれしです……。ろぜあちゃ、ソキを、だっこして、ぎゅってして、おはよ、て、して? ソキ、ねむたいですけど、がんばっておきる……」
微笑むロゼアに両腕を伸ばして、ソキはふわふわした声で目覚めの挨拶をねだった。
寝る時に、ロゼアのおやすみ、があるとすぐに気持ちよく眠れるように。起きる時にもだっこと、ぎゅぅで、おはよう、と言ってもらえると、ソキはすぐにぱちっと起きることができるのである。
ん、と笑いながら、ロゼアがソキをひょいと抱き上げ、膝の上に降ろして抱き寄せる。ぽん、ぽん、と背に触れる手の熱は、なんだかお昼寝の前のそれと似ていた。
すぐにまた、うと、うと、としてロゼアの肩に頬をぺとっとくっつけるソキの耳元で、満ち足りた、柔らかな声が囁く。
「今日はよく眠れた?」
「ねむ、た、です……。おふとん、あったかくて、いいにおい……きもちかたです……」
「そっか。よかった。……ソキ、ソキ。ソキはまだ眠たいな」
頭にロゼアの頬がくっつけられて、ちいさく笑いが零れて行く。
「眠っていいよ、ソキ。大丈夫。今日はずっと傍にいるよ」
「ん、ん……でも、朝です。朝は起きないといけない、です……ロゼアちゃん、おはよう、して……?」
「起きたい? ……今日はおやすみの日だよ、ソキ。昨日は土曜日だったろ。今日は、日曜日。だから、頑張って起きなくても良い日だよ。眠たくなくなるまで、ゆっくり寝てていいんだよ」
ぽん、ぽん、とロゼアの手に撫でられて、ソキはうと、うと、と意識を淡くくずして行く。ロゼアの腕は暖かくて、気持ちよくて、体のどこにも力が入らなくなる。服に染み込む熱で、ひとつになる。
ん、ん、と寝心地の良い場所を探して無意識に身じろいで、ソキはロゼアにぎゅっと抱きつきなおした。すー、と息を吸い込んで、ソキはぱち、と目を開いた。すぐにまたゆるゆる閉じてしまいそうになるまぶたを、ぱち、ぱち、とさせて。
ソキは眠たくて仕方のない眼差しで、ロゼアを見つめて首を傾げる。
「ろぜあちゃん。お汗のにおいが、するぅー……?」
「ん? ……うん。嫌?」
嫌ならすぐ拭ってくるよ。ちょっとだけ待ってて、と囁くロゼアに、ぎゅむっ、と体をくっつけて。ソキは鼻先をロゼアの肩辺りに寄せて、すんすん、においをかいでみた。
ぱちん、と閉じてしまう目を頑張ってあけて、ソキは右、左、となんとか頭を振ってみせる。
「ややないです。ろぜあちゃん、うんどう、おわて、そのままきたです……? めずらしです……」
「そっか。……ソキ、俺のが大丈夫なら、ソキのも俺は大丈夫だろ?」
「う? ……ん、んー……? ……ん」
ねむたいので。とりあえず頷いておくです、という感いっぱいにこくり、と頷くソキにロゼアの笑みが深くなる。ぽん、ぽん、と背を撫でられながら、ソキは耳元でしっとりと響くあまい声に体を震わせた。
「じゃあ……もう、俺に会いに来る前に、誰かとお風呂行かないでいいだろ、ソキ。俺に会って、聞いてからでも大丈夫だろ。ソキの髪も、肌も、夜寝る前とお休みの日に俺がすればいいだろ……? ……服は俺が選んだのにしような。ソキ、ソキ。そーき」
「……もしかしてなんですけどぉ?」
「うん?」
もう目も開けないくらい眠くて、半分寝ぼけながら、ソキはすこしだけくちびるを尖らせた。
「ろぜあちゃんは、ソキのおていれを、できなかた、です。ふきげんさん、だったです……?」
「……ソキ。もう他の人に頼むのやめような。俺がすればいいだろ」
髪も。肌も。服も靴も。ぜんぶ、ぜんぶ。して、って言ったろ。抱く腕にやんわり力をこめて告げるロゼアに、ソキは言ったです、とこくりと頷いて。そのまま、ころん、と眠りに転んで落っこちてしまった。
たっぷり眠ったソキが、ロゼアにおはよう、をしてもらえたのは、太陽がすっかり登り切ってしまった頃だった。休日とはいえ、食堂もがらんとしている時間帯のことである。
いーっぱい寝たです、と満足げにだっこされて現れたソキに、そろそろ様子を見に行こうかと思っていたんだけど、とメーシャが首を傾げて笑った。
「その様子だと心配ないみたいだね。……俺も、ハリアスの所へ行こうかな」
「メーシャくんは、今日はハリアスちゃんと、でーと、です? ……ハリアスちゃんに、ソキを忘れないでください、って言っておいてくださいですよ……。いいなぁ、ソキもハリアスちゃんに構ってもらいたいです」
「え? じゃあ、ソキは俺がロゼアを独占してもいいの? 交換ならいいよ」
デートコースにロゼアを引っ張って回る、とかそれはそれで楽しそうだと思うし、すごく、と目をきらりとさせながら提案するメーシャに、ソキは慌てて首を振った。
「だ・め! だめ……! ロゼアちゃんはソキの! ソキのなんですうううメーシャくんはだめ……! だめですよ、だめです。ソキは、駄目、って言ってます。わか、わ、わかったぁ……っ? 分かりましたですか……?」
「分かった、分かった。ごめんね、ソキ。冗談だよ?」
笑いながら宥めてくるメーシャに、ソキは不安げな表情で幾度も瞬きをした。
「……メーシャくんが一緒にあそぼ、て言ったら、ロゼアちゃんは行っちゃうかもです。だって、だって、この間、ソキも一緒? ソキも行くです。ソキはいいこにしてるです、って言ったのに、メーシャくんとナリアンくんと一緒に、ロゼアちゃんは、だんしかい? というのに、行っちゃったです……。ソキはひとりで残されたです。それで、とんでもないめにあったです……ルルク先輩にお酒を飲ませちゃったのは誰だったんですか……」
「え? あれ、寮で女子会してたんじゃなかったんだ?」
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