迷宮は楽園の彼方 おまけ:前
ふくらまされた頬、涙の浮かぶ瞳、つんと尖ったくちびる。やぁんやぁっ、とてしてし足先を床で打ち鳴らす姿はどこか子兎めいている。
お前そんなことしたらまた足首痛めるぞと思いながら、寮長はソキからぎこちなく視線を外し、臓腑の底から溜息をついて天井を仰いだ。んもおおおっ、と半泣きで怒ってぐずる声が傍らから響く。
「りょうちょ! ソキはぁ、そのお手紙をちょうだいちょうだい? って言ってるんですよ?」
はいっ、ほら、はやくはやくぅ、とばかり差し出されたちまこい両てのひらを見つめ、シルは意識のぐらつきを感じながらおまえいいかげんにしろよ、と呻いた。
『花嫁』のおねだりは微かに魔術めいていて、従わねばならぬ、という強制力すら与えながら響く。それがどの『花嫁』であってもそうなのか、相手が予知魔術師という稀有で危険種指定されているものだからなのかの確証は持てず。
お前ほんと保護者どもの傍にいないと碌なことしねぇなと呻き、寮長は額に指先を押し当てた。魔力を循環させると、僅かばかり意識が鮮明さを取り戻す。
「これはロゼアに来た手紙だろうが……。渡しに行くなら預けてやってもいいんだが。お前なんて言った……?」
「たいへんたいへんです! 女の子からのお手紙、です……! ソキは、こっそり。こっそりですよ? ぽいってしてくるです。ぽいです! だからぁ、りょうちょ? はやく、はやく、はやくぅ……! ロゼアちゃんが来ちゃうです、はやくはやくううう!」
「お前……! ロゼアに一回躾されなおしてこい……!」
いやあぁああ寮長がソキにいじわるをするですうううっ、と涙目でぐずられて、シルは頭を抱えたい気持ちになった。気力を振り絞り、手紙を渡してしまいたくなっている己を叱咤しながら、平手でソキの頭をぱぁんっと叩く。教育的指導である。
ソキは叩かれた頭にぱっと両手をあて、ぱちぱちぱち、となにが起きたのか理解できない様子で瞬きをした。二秒。火でも付けられたかのようにふやああぁああああっ、と泣き声をあげたソキの前に、寮長はしゃがみ込んで話しかける。
涙がたっぷり浮かんだ瞳は、意地のように涙を頬に伝わせてはいなかった。
涙ぐんだりぐずったりするだけで。それも本当にすぐするだけで。いざ泣く、というのはソキにはあまり見ないことだった。
「いいか、ソキ……。ひとの手紙を勝手にこっそり捨てようとするんじゃない、そしてひとを唆すんじゃない……!」
「りょうちょが、りょうちょがソキをひっぱたいたです……! ひどいことをされましたです……! ……ソキはあとでロリせんせに言いつけにいっちゃうです。りょうちょ、ソキをいじめう」
「自分に都合のいい所だけ要約して俺の女神にあれこれ吹きこむんじゃない……! あと! ああああもうしっかり発音しろって俺はこないだも! 言ったよなっ……? う、じゃないだろ、う、じゃ……! る。ら、り、る、れ、ろ。言ってみろ、ほら。……耳を手で塞ぐな……!」
苛立ちが強制力を凌駕したのか、シルは手慣れた動きでソキに両手を伸ばし、ふわふわもちもち柔らかな頬を指先で摘んだ。なにをされるのか理解したソキがやあぁんと頭を左右に動かして抵抗するが、シルは微笑んで両頬を左右に引っ張った。
教育的指導である。決して、柔らかくてよく伸びるから頻繁に引っ張りたくなっているとかそういうことではないのである。決して。
「ほーらほーら反省したかー? まったく、長期休暇は自分を駄目にする休暇じゃねぇんだぞ……?」
「やあぁあああほっぺ伸びちゃうですううう! ソキがのびちゃうですううう! たいへんなことですうううう! かわいくなくなっちゃうですううううう! やあああああやあぁああああいやああああああっ! やぁあんやぁああんやあぁーっ!」
「寮長」
今日こそぶち殺すぞ、という微笑みで、シルの腕に手をかけたのはナリアンだった。走ってきたのか多少息切れを起こしながら、業火のような瞳で寮長を睨みつける。
「手を離してください切り刻みますよ」
「ソキが俺の言うことを聞いてハッキリ発音すれば俺だって折檻しないんだがな?」
「ソキはぁちゃぁああああんとっ、は、つ、お、ん! しています、で、す、ぅー! 寮長、はぁ、きっと、ソキに、いじわるさん。を、したぁい、だ、け、で、すぅー……。ナリアンくん。ソキのほっぺ、のびちゃったです? たいへんです……ソキかわいくなくなっちゃうかもです……」
ふるりと体を震わせて怯えるソキに、しゃがみ込んだナリアンが視線を重ねてくれる。大丈夫だよ、ソキちゃん。大丈夫、大丈夫。花に触れていくその風のように優しく。淡く響く意思が、ソキの心を宥めて行く。
『ほっぺ、伸びてないよ。かわいいよ。だぁいじょうぶ。……ね? 不安なら、あとでロゼアにみてもらおうね。その間に俺は、これを切って埋めて処理してくるから! ……ああああやだほんっとにやだこんなのが俺の先生の想い人だなんていうことがもうほんとにやだロリエス先生はやく目をさましてください騙されてる……!』
「……ソキ、ロゼアちゃんの、かわいい? 大丈夫です?」
「うん。今日もソキちゃんは、ロゼアのかわいい、だよ」
はああぁああ俺の妹ほんっとかわいいなかわいいなぁよし寮長を殺そうっ、とうきうき弾む笑顔で立ち上がり、ナリアンは腕をぐるぐると回しながら首を傾げてみせた。
『で、寮長? 死因はなにが良いですか?』
「お前その前にソキを叱れよ……! ロゼア宛ての手紙を勝手に捨ててくるからちょうだいとか言ったんだぞ?」
「やあぁあんりょうちょ! いっちゃだめええぇええっ!」
寮長の腹を手でぺちんぺちん叩きながら怒るソキを抱き寄せるように離しながら、ナリアンは愕然とした目でシルを見つめた。
たぶん本人は本気で怒って叩いてるのに痛くない所かくすぐったくてこそばゆくて可愛い感じがするとか砂漠の教育にまじ戦慄しかしねぇ、と口元を引きつらせながら腹あたりをさすりつつ、寮長が視線にふふんと笑い返す。
「なんだよ? ナリアン」
「寮長が……正しかった、だと……! ソキちゃん? それはだめだよ。いけないよ? どうしてそんなことしようとしたの……? ロゼアも、ソキちゃんがそんなことしたらいけない、っていうよ。かなしいよ。だめだよ」
「いやお前それ口に出してまで驚くことなのか……?」
あっ、すみません話しかけないで頂けますか本当、と横顔に浮かばせながら寮長を無視して、ナリアンは涙目でぷくぷく頬をふくらませて拗ね怒るソキに、視線を重ねて囁きかけた。
だって、だって、だってっ、とソキはちたぱた暴れながら、寮長がソキには絶対届かない高い棚の上に置いてしまった手紙を、じーっとくちびるを尖らせて睨みつける。
「女の子からのお手紙、です。ソキには分かっちゃったです。お屋敷からです。これはたいへんなことです……!」
『……大変なお知らせなら、ロゼアの手にちゃんと渡さなきゃだめでしょう? ソキちゃん』
「ぷ、ぷ、ぷぅ! ちぁうもん! あれ、あれはきっと、きっと、ろぜあちゃんのおみあいのおてぁみ、ですぅ……! おにいちゃんがそきをいじめぇうぅ……! うやあぁああああめえええ! ふにゃあぁあああっ!」
棚の前でぴょっ、ぴょっ、と。本人的には恐らく飛び跳ねて手を伸ばしているつもりであろう、いっしょうけんめい背伸びっ、そりかえりっ、腕を伸ばしてぷるぷるぷるっ、としながらふるふる震えている姿をしみじみと眺め、ナリアンはううん、としばし眉を寄せて考え込んだ。
『ロゼアに……お見合いの手紙? って言ったのかな? ……いじめる?』
「解読が必要なほど発音がアレなことを怒れよナリアン。保護者だろ……?」
『あっ、話しかけないで頂けますか寮長』
ほんと辞めて頂けますかほんとに心から、と真顔で嫌がるナリアンに笑い、寮長はがっと反抗期まっただ中の後輩の腕を掴んだ。
触るなって言ってるだろうわあぁああんやだあああぁっ、とじったばた暴れるのにお前入学の時よりは元気になって可愛くなくなったよなぁと囁き落とし、寮長はんしょ、んしょっ、と無駄な抵抗を続けているソキをのんびりと見やった。
「見合いならいつものお前の兄から来るような書状で届くだろ? それは普通の手紙だ。シフィア、とかいう女からの」
「ぴっ……ぴゃあぁあああたいへんですううううたいへんですううううううっ! きゃうっ」
せのびいいいそりかえりいいいっ、のしすぎで後ろにころんと倒れ込み、ソキはちたぱた両手足を動かしてむずがった。
「ロゼアちゃんはシフィアさんがすきすきですぅううう! ソキちゃぁんとしってるううううう! いやぁいやぁあああだめえええ……! ううぅ、うううぅう……ろぜあちゃ、ろぜあちゃがとられちゃう……そき、そき、ろぜあちゃのお傍にいたいです……ロゼアちゃんをとっちゃだめなの……」
「……うん?」
ひょい、とソキを床から腕の中へ抱きあげ、ロゼアがよく分からない呟きで首を傾げる。
「どうしたんだよ、ソキ。なんのはなし?」
「……ぐずっ。ソキがロゼアちゃんのいちばん、かわいい、です?」
「うん。もちろん。……それで、なんの話をしてたの? 床にころんてなってたのはなんで?」
ふにゃああああきゃあぁああんやぁああんろぜあちゃんがソキをいちばん、にかわいいっていったああぁっ、とふにゃふにゃ喜んで体をすり付け、首筋に腕を回してぎゅっと抱きつき。
ソキははふん、と満足そうに息を吐き、すりすりすり、とロゼアの肩に頬をすりつけた。
「ロゼアちゃん。おかえりなさい。ぎゅぅは?」
「うん。ただいま、ソキ。ぎゅう? ぎゅうもして欲しいの?」
「ろぜあちゃん? そきはぁ、ぎゅぅ。して? て、いってるですよ?」
はやくぅはやくう、と甘くとろけきったふあふあの声で幾度もねだられて、ロゼアはうん、と頷いた。ソキの体が腕の中から落ちてしまわないよう、ゆるやかに抱きなおし、指先でとんとんとん、と背を弾くようにやわり、撫でて行く。
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