迷宮は楽園の彼方 09



「これ? ……左側だけ、お部屋にあったよね、ウィッシュ。持ってってくれたの……? ずっと、ずっと、持っててくれたの?」

「フィアが、くれたから。大事にしてたよ。大事に……してるよ」

「うん。ありがとう、ウィッシュ。大好きよ。だいすきよ……左側、あるよ。もってくるね。待ってて、すぐだよ」

 言うなり、ぱっと立ち上がり、駆けて行こうとする足元を風の手で絡め取る。体勢を崩した姿に腕を伸ばして抱き寄せて、ウィッシュは違うよ、と言葉を告げた。

 自然のものにはあり得ない空気の抵抗、風の流れに目を白黒させるシフィアを、どこにもいかないで、と願うようにぎゅっと抱きしめながら。ウィッシュは違う、とむずがる幼子の声で何度も何度も繰り返した。

「違うよ、フィア。それじゃない。それじゃないよ……違う。左側は、どうしても、どうしても隠して……持って行けなかったから。俺が、俺の、代わりに、フィアの傍にいてって思って、それで……! でも、違うんだ。違うんだよ、フィア。それじゃない。俺の、しあわせ、は、それじゃなくて」

「うん。……うん、うん。ウィッシュ。……ウィッシュ、大丈夫。聞いてるよ」

 聞こえてるよ。どんな言葉も。どんなに掠れてしまっても、歪んでしまっても。そのものが旋律のように響く『花婿』の、稀有な、歌声のようなうるわしい声は。シフィアの元から消えてしまっても、なにも変わることがなかった。

 数年の、迷宮に落とされた時を経てなお。変質から守られたことを、シフィアは祈るように思う。なにに、どんな感謝をささげればいいのか、分からないくらい。尊くて、愛しくて、幸せだと思う。

「聞こえてるよ……!」

 どんな声も。どんな意思も。今度こそ、ひとつだって、聞き逃さない。

「ゆっくりでいいよ。焦らないで、ウィッシュ。私は、どこへも行かないから。ね?」

「うん」

 ほ、と緩んだ息を吐き出して。お気に入りの人形を取られまい、と腕にぎゅうと抱く幼子のようにシフィアを引き寄せたまま。

 ウィッシュは言葉の通り、立ち上がりも逃れもしようとしないでいてくれる『傍付き』に、うっとりとした視線を向けて囁いた。

「フィアだよ。……シフィアが、俺のしあわせだったよ。ずっとずっと……今でも、フィアが、俺のしあわせなんだよ。ぎゅぅって……フィアが抱きしめてくれた腕の中が、俺は一番しあわせで、だから。そこに、全部、置いて行ったよ……」

 いつか。その腕で他の誰かを抱き、それをしあわせだと思うことも全部、分かっていて。知っていて。けれどそうせずにはいられなかった。世界から切り離され閉じ込められるぬくもりの中、一瞬の永遠。そのぬくもりをしあわせだと思った。

 シフィアの熱が。嫁ぎ先には持って行ける筈もないそれが、『花婿』たるウィッシュのしあわせだった。だから、それをぜんぶおいていったよ、とウィッシュは微笑む。ねえ、ねえ、といとけない幼子の声で、歌うように囁く。

「だから、しあわせだったよね……? ふぃあ、俺がいなくなっても、ちゃんとしあわせでいてくれたよね? 俺のしあわせが、全部、一緒にいたもん。フィアと、ずっと、ずーっと、一緒だったから……だから、ごめんね、知ってたんだよ。俺がしあわせになれないこと。しあわせが、行く先にないこと。でも、しあわせになろうと思ったから、失敗しちゃったんだと思う。あ、でもね、今はね、その、楽しいこともあるよ。だから平気なんだ」

 アンタねいい加減になさいよ幸せなのも楽しいのも一種類で完結して置き去りにできるものじゃないしそういうものじゃないしそもそもそこから間違ってるし、アンタちゃんと楽しくて声あげて笑ったりしあわせそうにほわほわごはん食べてたりするんだから気が付きなさいよ有限なんかじゃなくてそこらへん漂う空気と一緒で、気がつけばそれがしあわせだと思えるし持ち運びできるものじゃなくて巡り合うもので生み出すものでいっぱいあんだからいつまでもうじうじうじうじしてるんじゃないわよ監禁すんぞこら、と怒った同僚、エノーラの言葉を半分くらい思い出し記憶の彼方にしまいこみ直しながら、ウィッシュはくちびるを噛んで俯くシフィアに心配そうに目を瞬かせた。

 どしたの、と声をかけるより早く。泣きそうな顔で微笑んだシフィアが身じろぎをして、ウィッシュの腕の中でほんのわずか距離をとる。

 くっついていた熱が離れて冷えた空気が肌を撫でた。ウィッシュがそれに、気持ちを落ち込ませるより早く。浮かんだ涙を指先で拭い去り、シフィアが満面の笑みで両腕を広げた。

「ウィッシュ! おいで……!」

 記憶の中の、いつかのように。変わらない響きで『傍付き』が『花婿』を呼ぶ。思わず、なにも考えずに体を寄せた『花婿』をぎゅぅ、と抱き締めて。シフィアは笑いだしそうな声で、ウィッシュ、と囁いた。

「しあわせ?」

「……うん」

「よかった。……よかった、ウィッシュ。しあわせなんだね。ウィッシュ、ウィッシュ……私の『花婿』、私の最愛の……私の宝石。ウィッシュ、ウィッシュ……」

 ぎゅう、と強く抱きしめられた腕の中で。ウィッシュは幸福に彩られた泣き声で告げられる。

「おかえりなさい……!」

 九年前に。嫁いで行く『花婿』に。最後に、かけた言葉の。

『……いってらっしゃい』

 それが、対だった。途絶える筈の。もう二度と聞けない筈の。ウィッシュはこくん、と頷いてシフィアをつよく抱きかえした。ただいま、と囁く。何度も、何度も。

 ただいま、シフィア。ただいま、俺のしあわせ。ただいま、俺の。『傍付き』、シフィア。歌うような声で、きよらかな響きで。何度も、何度も、繰り返した。




 シフィアがいれたものですからね、と囁き、なまぬるい香草茶を給仕するラギの手指は、白い絹の手袋で作られていた。

 恐らくは『お屋敷』に常駐する手芸部門の者たちが、まあ若様ったらまあまあ若様ったらぁっ、と微笑ましく思いながら手早く仕上げてくれたものに違いない。

 それはラギの手にしっくり合っていたが、どこか物慣れない雰囲気も同時に漂わせている。ふかふかのソファに身を沈めながら陶杯を手に取り、飲み口に唇をくっつけながら、ウィッシュは呆れた気持ちで俺さぁ、と言った。

「そういう、ラギの、レロクのちっちゃいワガママを一個も聞き逃さないで全部きいちゃうトコとか、昔からちょっとすごいなぁって思ってる」

「お褒めにあずかり光栄です、ウィッシュさま」

「ラギ! こらっ、らぎいいい! 俺の許可なく誰かに褒められて喜ぶでないわウィッシュおまえもだ! かってにほめるなばぁかばぁああか!」

 簡素な椅子の前にシフィアとアルサールを揃って正座させながら説教していたレロクから、理不尽そのものの叱責が飛んでくる。それにラギはうっとりと目を細め、満ちた吐息でレロク、と囁いた。

 その理不尽でちょっとおばかっぽい所がもう本当にたまらないかわいい、と言わんばかりの横顔を、香草茶をずずず、とすすって飲みながら首を傾げて。

 ウィッシュはぱちぱち瞬きをし、ああああもおおおお、と椅子の上でじたじたと暴れているレロクに目を向けた。

 あのじたじたが、単純に体の大きさとしてもうすこしちんまりしていればちたぱた、くらいになるので。ソキとレロクってほぉんとうにそっくりだよな言うと怒られるから言わないけど、と思い、ウィッシュはのんびりと口を開いた。

「レロクが俺のフィアとアルを返してくれないからいけないんじゃん?」

「ぐだぐだ言うでないわ! お説教中だ! 大人しく待っておれ!」

「……俺は、レロクに、シフィアとアルサールを怒っても良いよ? とか言ってないのにさぁ……なー、ラギ?」

 そうだよな、レロクばっかりずるいよな、と唇を尖らせるウィッシュに、ラギは微笑みながら手を伸ばしてくれた。なでなでなで、と髪を愛でる手に拗ねながら頭をすりつけていると、あああぁああっ、とレロクが声をあげる。

「らぎいいいい! おまえっ! おまえはああぁあああっ」

「……ラギ? ちょっと今すぐその手を離してくれる? ウィッシュはなでなでがだいすきなんだよ? だから私が! 私がするんだからわたしがするんだからあぁあラギはやったらいけないんだよ……! そうでしょ? そうだよね、アルサール!」

「この惨事を完璧に理解していてなお実行するラギさんに戦慄しか覚えないから俺を巻き込むな話しかけるなお願いだから……! ラギさん笑ってないで! ちょまっ、ほんと笑ってないで! 話を聞いてください笑ってないで……!」

 ウィッシュの傍らに蹲るようにして口元に手を押し当て、肩を震わせるラギは、相当なにかが面白かったのだろう。時折楽しそうにむせながら笑っているのをちらりと眺め、ウィッシュはのんびりと息を吐きだした。

 ソキはどうかは知らないが、レロクと同い年の『花婿』たちの間で、それは常識に近い事実のひとつだった。レロクのラギは笑いの沸点が超低い。ついでに愉快犯である。

 その言葉の意味や概念を『お屋敷』にいる時に理解することはなかったが、一端外に出たからこそ、ウィッシュは正確にそれを捕らえていた。ラギはわりと愉快犯である。

 はー、と息を吐いて陶杯を指先で包み、ウィッシュはとりあえずお説教を終わらせることにしたらしいレロクの、八つ当たりに満ちたお怒りの声を聞き流す。ぼんやりと室内に視線を巡らせると、午後に差し掛かる陽光が甘く室内を輝かせていた。

 『お屋敷』はどこの部屋でも、満ちる光は優しくて濾されている。ほ、と息を吐きながら、ウィッシュはまたもうひとくち、なまぬるい香草茶を口に含んで、飲み込んだ。反射的な吐き気がしない、わけではないのだけれど。

 飲み込めることが不思議だった。舌先はまだその味を覚えている。ふふ、と笑ってウィッシュは目を伏せた。

 あの迷宮はまだこびりついて消えないけれど。この楽園からそれは遠く。ようやく、長い、ながい旅を終えた気持ちで、ウィッシュは息を吸い込んだ。迷宮は楽園の彼方にあり。ウィッシュはもうそこからいなくなっていて。

 もう二度と、永遠に。そこへ閉じ込められてしまうことはなく。閉ざされてしまうことは、ないのだ。

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