今はまだ、同じ速度で 45


 ソキは立ち止まり、不思議がって首を傾げながらもくちびるをひらく。言葉に迷うことはなかった。

「そのひとの腕の中で、なんの不安もなく、目をとじて。安心して、きもちよくって、どきどきして……うれしくて、しあわせで、しあわせで……こんな、しあわせは、ほかにどこにもないと、おもう、たったひとりのひとが、いたら。それが、恋、です。ソキの恋です。恋しい、ただひとりの、ひと」

 その腕の中でなら、目を閉じられる。そのぬくもりに心から、安らぐことができる。そのいとおしさが。ソキの抱く、たったひとつの、恋だ。まっすぐ、迷わず、うっとりとして告げたソキに、砂漠の王はなまぬるい笑みを浮かべて頷いた。

 お前それどう考えてもロゼアだろロゼアのだっこだろ、と言わんばかりの表情で、王はわかったもういい、とソキの退室を許し、ひらひらと手を振る。はいそれでは行きますと一礼し、ソキはちょこんと首を傾げた。

 好奇心だった。他意はなかった。

「陛下は、いるです? 好きな人」

「……は?」

「ぎゅぅってされると、安心して、きもちくって、うっとりして、どきどきして、やぁんてなるひとですよ」

 いねぇよ、といわんばかり砂漠の王の笑みが深まりかけ。なぜか、視線が天井へ逸らされた。あれ、と思い見守るソキの視線の先、国王はよろよろとした仕草で執務机に伏せ、うわあぁ、となぜかうんざりしたような声をあげて首を振る。

 いやまさかそんなねぇよ、ねぇよ、アイシェ、ああくっそ、と呻き、顔をあげて、王はふるふると首を振った。頬がやや赤い。

「……ソキ」

「はい」

「最後の、俺の質問は忘れろ。いいな」

 ソキは、はぁい、と返事をして一礼した。執務室を出る。ソキは振り返らず、ロゼアとメグミカの待つ部屋へ歩いて行った。執務室に残された王がソキの質問に、心当たりが、ものすごくあり。

 それをなぜか認めたくなくて抵抗していることなど、知る由もなかった。

 ふにゃふにゃ上機嫌にほわんほわんした歌を響かせながら、ソキはてちてち、けふっ、てちて、こふっ、やぁあっ、ててちべちんっ、むくっ、てって、と部屋の前まで辿りついた。しっかりとした作りの扉を、ぺっちぺっちてのひらで叩く。

「ろーぜーあーちゃーん。めぐちゃーん。あー、けー……けふ」

 室内から押し殺した悲鳴がいくつもあがり、即座に扉が開かれる。ソキ、と苦しげな声で呼ぶロゼアに抱きあげられて、ようやく、ソキはふしゅ、と体の力を抜くことができた。

 足早に寝台に運ばれながら、ソキはくったりとロゼアの腕に身を預ける。

「ロゼアちゃぁん……けふ、ん、んぅー……」

「ソキ、ソキ。どこへ行ってたんだよ……! ああ、ごめん。なに? なに、ソキ」

 頬をてのひらで包むように撫でられながら、ソキはなんでしたっけ、とのたのた瞬きをした。ロゼアに抱きあげられたまま寝台に横になって、背をぽんぽん、と撫でられながら、ソキはゆるゆると意識を溶かして行く。

 なにかを囁いた気がするのだけれど。なにを言ってしまったのか、分からないまま。ソキはロゼアがぎゅぅと抱き締めて、うん、と泣きそうな、幸福に揺れる声で囁いてくれたことだけを、覚えて。ころん、と眠りに落ちてしまった。




 晴れ渡った空は半透明に青くみえた。くるくると遊ぶように吹きぬけていく風は、砂と緑と水の匂いを王宮に循環させている。瑞々しく生きた風だった。死と血の匂いは、どこにも感じ取れない。そのことに、なぜか、心から安心できた。

 ほっと息を吐きながら、ソキはだめですよだめですよロゼアちゃん、いいですかだめですよーぉ、とロゼアに言い聞かせ、ちらりと廊下の先へと視線をやった。砂漠の王宮にある魔術師たちの居室がある区画。

 その一番奥の、廊下の果てに、『学園』へと繋がる『扉』があった。『扉』は、最近どうも調子が悪いらしい。一応もう一回点検するから待ってて、と言われてから、もう結構な時間が経過していたのだが、終わる様子は見られなかった。

 ソキはロゼアの腕に抱きあげられたまま、まだですか、とはふんと息を吐き出しかけて。繋いだ手の内側をこしょりとくすぐられ、きゃぁ、とはしゃいだ声をあげて笑った。

「ろぜあちゃん、こしょってしたぁー! したですぅー! ソキちゃんとわかったですよー?」

「ん? そう?」

「きゃあ! またこしょってしたぁ! やぁんやぁー!」

 そきさっきだめだっていったですよぉーっ、と砂糖菓子のような声で笑いながら、ソキはロゼアと手を繋いだまま、離そうとはしていなかった。

 もぉー、と笑いながらロゼアの指を数本、きゅぅと握っていると、『扉』の点検をしていた白魔法使いがげっそりとした顔で振り返り、お待たせしました、と囁いた。

「もういいよ通れるよ……。うううぅ吸い込む空気が物理的に甘い」

 それでソキは体調ほんとにどうなの、と義務感漂う溜息たっぷりの問いかけに、ソキはロゼアの腕の中から、上機嫌に胸を張って言った。

「ソキはー、きょうー、げーんーきーでーすー!」

「うん。そうだな。学園に戻ったら寝ような、ソキ」

 ソキの体調はすぐれないままだった。寝台から起き上がって動くことはできるのだが、すぐに乾いた咳を繰り返し、そのまま熱を出してしまうことも多かった。一晩、ゆっくり眠れば熱は引くのだが、咳は残り、歩いたりすればすぐに悪化する。

 今日もソキは普通に起き上がれたのだが、ロゼアの腕の中から降ろされないままだった。主張するソキの頬を指先で撫でながら、ロゼアはすぐ寝ような、と言い聞かせている。

 ソキはそれを完全に聞き流している態度で、はぁーいわかったですー、と頷き、ふらふらと足を動かした。ひとりで歩けないにしても、メグミカにもらった布のやわらかな靴をはいて帰れることが、とにかく嬉しくてならなかった。

「……ろぜあちゃん」

「うん?」

 開かれた『扉』へ足を踏み出す寸前、ソキはロゼアをみあげ、囁くように名を呼んだ。

「ソキね、ソキね……」

 不意に。長期休暇のはじまりから、砂漠へ戻る旅のことや。『お屋敷』で交わした兄との会話。たくさんの、重ねた決意が胸をかけ巡って行く。泣きそうになりながら息を吸い込み、ソキはちいさく囁いた。

「ロゼアちゃんと、一緒に、いたいです……」

 ロゼアは繋いだ手に力を込め、うん、と目を細めて微笑んでくれた。本当は。その微笑みと、言葉の響きと。指先の熱と、胸いっぱいのしあわせと。やさしい、眼差しを。ずっと、覚えていて。そして。あと、一年で。

 ソキはこのあたたかな手を離そうと思ったのだけれど。ひたすらに、一心に、ただ、ロゼアの幸福だけを願って。しあわせになって、と祈りながら。繋ぐ、手を、離そうと。今も思っているのだけれど。それも本当なのだけれど。

 離れたくない、とはじめて。

 ソキは己の願いを優先させて、それをなんとか、口に出した。『花嫁』だった、と告げたロゼアに。もう『花嫁』ではない、ソキが。愛するからこそ、離れるのが『花嫁』の習い。永遠の愛の代わりに。永遠の恋の誓いに。けれど。

 もう『花嫁』ではないソキが、もう『傍付き』でないロゼアになら、それを望んでも許されるような気がして。ソキは震えるほどの罪悪感に息をつめながら、ロゼアの肩にそっと額をくっつけた。目を閉じる。

 それでもまだ、怖くて。好き、と。恋を告げることは、できなかった。

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