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「だぁいすきです! ……んっ」

 けほ、とソキは乾いた咳を吐き出し、眉を寄せてくちびるを指先で押さえた。どうしよう、ちょっとはしゃぎすぎちゃったです。

 帰るまで大丈夫かなぁ大丈夫ですよねきっとだいじょうぶです、よしソキのガッツと根性はここからですよっ、と気合いをいれててちてち歩き出したソキを、アイシェの声がそっと呼びとめた。

「……ソキさま、唐突に申し訳ございませんが、ひとつだけ、お願いがあるのです」

「はい?」

 きょとん、として、ソキはお屋敷の見える部屋の半ばで立ち止まり、アイシェを振り返った。ソキができることならいいですよ、と首を傾げて問うソキに、アイシェはふわり、穏やかに咲く花のように微笑む。

「ありがとうございます。実は恥ずかしながら、わたくし、とてもとても、喉が乾いてしまいました。空気が乾燥しているので、花梨湯で、少しだけ、喉を潤したいのです。わずかばかり、こちらでお待ちいただくことは、できますでしょうか? すぐに侍女が持ってまいります」

 すっと視線を動かしてアイシェが見た部屋の出入り口には、すでに侍女が控えていた。侍女はアイシェとソキの視線を受けると、無表情のままで一礼する。それに、ソキは思わずびくり、と身を震わせた。

 お屋敷の世話役たちは、ソキをみるとすぐに笑ってくれる。嬉しそうに、しあわせそうに、明るくふわりと微笑みかけてくれる。表情なく対応されたことなど、お屋敷では一度もなく、出先でもほとんどないことだった。

 えっと、とソキはためらいながら、アイシェに向かって頷いた。飲むの、ソキ、待ってるです。ほっと笑んだアイシェが侍女に目配せをする。すぐに心得た様子で立ち去った侍女を見送り、アイシェはソキをソファに招きながら告げた。

「ありがとうございます。……あの子が怖がらせてしまいましたか? あの子は、いつも表情に乏しいのです。あまり気になさらないでくださると助かります」

 特別に、ソキを歓迎していないとか、そういうことではないらしい。白雪で滞在させられた家の者たちとは、違うのだ。ほっと胸を撫で下ろしながら頷くと、続く会話を探すよりはやく、侍女が部屋に戻ってくる。

 どうぞ、と給仕されたのは陶器のカップがひとつだけ。中身はぬるまっているのか、湯気を立ててはいなかった。あまい、花梨のかおりが、ほのかに漂う。

 アイシェは侍女にありがとうと告げたのち、上品な仕草でカップをもちあげ、くちびるを潤すようにしてひとくち、飲み込んだ。こくん、と喉が鳴ったのち、アイシェはカップからくちびるを離し、ソキに微笑みかける。

「もしよろしければ、ひとくち、いかがですか? 飲みさしで、もうしわけないのですけれども」

 すこしだけ迷ったのち、ソキはありがたく申し出を受けることにした。頂きます、と言ってカップに両手を伸ばし、包み込むようにして持ち上げ、くちびるまで引き寄せる。一応、ふぅ、と吹き冷ましてからくちびるをつけ、こくん、と飲み込む。

 ひとくち飲んで、ほ、とソキは体の力を抜いた。ぬるくぬるく、つくられたのだろう。熱すぎず、それでいて冷えてしまうこともなく、ちょうどいい温度にぬるまった花梨湯は、ソキの喉をすこしも痛めることなく、するすると潤し落ちて行った。

 こく、ともうひとくちだけ頂いて、ソキは思わずほわん、と笑う。

「あまいです……ソキ、これ、好きです」

「わたくしもとても好きなのです。喉が楽になりますでしょう?」

 はい、とほっとしながらソキは頷いた。乾いて、ひきつった喉が、だいぶ楽になっている。帰って、ロゼアかメグミカにお茶を入れてもらって、あとは静かに過ごしていれば熱もでないだろう。

「ありがとうございますです。おいしかったです……んと」

 すこしだけ考えたのち、ソキは花梨湯を運んできてくれた侍女にも、ぺこりと頭を下げて囁いた。ありがとうございますです、おいしかったです。まだ年若い侍女は、アイシェから空になったカップを受け取りながら、ソキに微笑み返してくれた。

 ソキも嬉しくて、はにかんだ笑みで肩を震わせる。よかった。大丈夫。本当に、あの屋敷の者とは、違ったのだ。一礼して侍女が立ち去ると、アイシェもソファからすっと立ち上がる。

 ソキがソファから立ち上がろうとするよりはやく、伸びてきたアイシェの手が、そっとソキのてのひらを包みこんだ。

「ゆっくり参りましょう」

 普通に話してくれた方が好きです、とすこし残念に思いながら、ソキははぁいと頷いて立ち上がった。あれもこれもきっとぜんぶ、砂漠の王陛下が丁重にとか言ったからに違いないのである。

 じぶんはソキのことぽいってしたくせに、ぽいってしたくせにぃ、と内心ものすごく拗ねながら、ソキはアイシェと手を繋ぎ、指先にきゅぅと力を込めてから歩き出した。

 アイシェはやわらかな力でソキの手を包み込み、ゆるり、ゆるり、先導してハレムを歩き出す。いくつもの視線がふたりを見送った。ハレムの出口で手を離し、ソキは微笑むアイシェの顔をじっと見つめてから、ゆったり、うつくしく、一礼した。

「案内して頂き、ありがとうございました。……あのですね」

「はい」

「花梨湯、おいしかったです。ソキ、喉がちょっと楽になったですよ。ありがとうございました。……手もね」

 歩く時ね、繋いでくれてね、嬉しかったです。ソキまだちょっとひとりだと歩くの大変なので、助かりましたです。ありがとうございました、と告げるソキに、アイシェはやさしく、ふわりと微笑んで。

 じゃあソキ、ロゼアちゃんとこ帰るです、とてちてち歩き去っていく姿を、見送ってくれた。




 執務室で書類に署名を書きいれていた砂漠の王に、陛下ソキ戻ってきたです陛下にはぽいってされたですけどぉアイシェさんも侍女さんもとってもやさしかったですきれいだったです陛下にはぽいってされたですがアイシェさんねえ手を繋いでくれたんですよふわふわでした陛下はソキをぽいってしたですけどアイシェさんのねぇ侍女さんねぇかりんゆくれたですあまくっておいしかったです笑ってくれたですよソキねえうれしかったです陛下はソキのことぽいってしたですのにふたりともねえとってもねえソキに親切にしてくれたですよへいかはそきをぽいってしたですのにぃっ、とこころゆくまで文句を言って、ソキは執務室の前でふくれっつらをした。

 一応、王の前である。本当ならぷぷぷぷ、くらいに膨らませたかった頬は、ぷぅ、くらいでソキは頑張った。ソキはがんばったのである。むくれたらぜんぶ一緒だとかいう常識的な判断は砂漠の彼方に捨ててきた。

 だって陛下ソキのことぽいってしたです。

 ロゼアちゃんだってメグミカちゃんだってそんなことしないですのにぃもおおお、とこころゆくまで拗ね怒ってむくれるソキに、国王はさらさらと書類に名を書き入れ、呼び鈴を鳴らして文官に一式を手渡したのち、ようやく伏せていた眼差しを持ち上げてくれた。

 その瞳が、苦笑しきっている。はいはい悪かった、と砂漠の王は苦笑し、いくつか確認めいた質問をソキにしていたが、言葉を疑う様子は見られなかった。

 ハレムの他の部屋を勝手に見に行ったりはしなかったか。アイシェとその侍女以外に声をかけられたり言葉を交わしたりはしなかったか。帰りはどの道を通ってどこの出口から戻ってきたのか。

 帰路についてソキは分からないので、それはアイシェさんに確認してくださいですよ、ということをふんぞりかえって言いはなち、ソキはお部屋みたりお話したりはしていないです、と言った。

 そんなことよりアイシェさんきれいでした。アイシェさんねえふわんって笑ってくれたですよふわんって、それでいいにおいしたですふわふわであたたかかったです。

 手つないでくれたですよぉソキねえアイシェさん好きですソキがあるくの時間かかっちゃってもアイシェさんねえちゃぁんと一緒あるいてくれたですアイシェさんきれいなおねえさんですきゃあぁっ、とはしゃぐソキは、基本的に面食いである。

 きれいなひとやかわいいひとや格好いいひとというものが大好きだ。

 その上で、やさしく接してもらったことと微笑んでいてくれたことと、帰り道に手を繋いでくれたことがソキには殊更嬉しかったらしい。

 きれいなおねえさんにやさしくしてもらっちゃったですぅやぁんやぁん、と照れて恥じらうソキはきらんきらんでうるうるの輝きを放っていて、砂漠の王は思わず苦笑した。

 そうかそうかよかったなー、お前ホント顔かたちの整ったの好きだよなと呆れられて、ソキは満面の笑みでちからいっぱい頷いた。

「そうなんですよー! ソキねえロゼアちゃんがいちばんすきですぅー!」

「おまえ、ほんとう、ロゼア、すきだな……」

「すきすきです。えへん。……んと、それでは陛下、失礼致します。御用がありましたら、なんなりと、お申し付けください」

 するりと木の葉を撫でる風のごとく自然に一礼し、ソキはじゃあもうソキロゼアちゃんのところに帰るですので、と告げんばかりの笑顔で王の前を辞そうとした。

 分かった、と苦笑してソキを見送りかけ、王はああ、と吐息に乗せる囁きですこしばかり呼びとめてくる。

「その前に、もうひとつ」

「はい」

「お前にとって……恋とはなんだ。なにを、お前は、恋だと思って……それを、している」

 問う、王の瞳は冷えていた。興味がなさそうであり、それでいて、ごく真剣なまなざしだった。

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