今はまだ、同じ速度で 16

 どうしても辛かったら我慢などしなくていい。ロゼアを呼びなさい、とソキに告げてくれたのはラーヴェだった。それはソキが『花嫁』と呼ばれて幾許も経たない頃。

 胸に咲く淡い想いをソキが恋だと自覚せず、それでも周囲が『花嫁』だと認めてしまうほど、うつくしく儚く育ち始めた頃のことだった。まだソキが、十にもならぬ頃。

 ロゼアがまだ、『傍付き』ではなく、その候補として学んでいる最中のことだった。人の気配を遠くに退けた部屋の中でうとうとと眠るソキに、ラーヴェはやさしく告げたのだ。

 ソキの『傍付き』候補はロゼアの他にも何人か存在していた。どの『花嫁』も、『花婿』もそうであるように。数人の候補の中から選ばれてはじめて、彼らは『傍付き』と呼ばれるようになる。

 選ぶのは『花嫁』当人だ。誰の意志もそこには介在しない。けれども、ラーヴェには、ソキが誰を選ぶのかもう分かっているようだった。

 時間をつくっては『花嫁』の元を訪れる候補たちに、ソキは同じように接していたつもりだし、誰のこともとても好きだったのだけれど。それでもその中から、ロゼアを、とラーヴェは言った。

 あなたがこれから選ぶであろう『傍付き』を、とは言わず。ロゼアを、とはきと、男は囁き告げたのだ。

 ソキすらまだ自覚しない恋の向かう先を、知っていたかのように。呼ぶ、というのは嫁ぎ先に、ではない。連れて行く、呼びよせる、という意味ではなかった。それは、連れて行って、という懇願だ。連れて逃げて、という願いだ。

 『花嫁』として嫁いだ先がどうしてもあなたを苦しませるのなら、辛くて耐えきれないというのなら。枯れてしまう前に。ロゼアを呼びなさい。あなたの『傍付き』、あなたの最愛を。

 そしてしあわせになってもいいのだと、告げた、たったひとりの存在だった。『花嫁』には決して許されないその恋の成就を。ひっそりと許してくれた、たったひとりの、ひとだった。

 あなたは、そうしてもいい。告げられた言葉に、ソキはどうしても問うことができなかった。喉にひっかかった言葉は、いまも響くことがない。あなたは、というのなら。それをできなかったのはだれなのかと。

「ソキさま」

 跪き、微笑む男がうるむ瞳のソキを呼ぶ。与えた手でそっとソキのてのひらを撫でながら、本当にしあわせそうに、囁く。

「ロゼアは、必ずや、あなたのことを守るでしょう。……彼はほんとうに、優秀に、育ちました」

「ラヴェ……そんなことを、いわないで……」

『そんなことをいわないで、ラヴェ。……ラーヴェ。わたしの『傍付き』、わたしの……XXの』

 思い出の中で、『花嫁』の声が男に囁く。熱を出し、寝台に伏してもなおうつくしく、あいらしくあった彼の『花嫁』が。ソキによく似た女性が、弱々しい力で男の手を両手で包みこんでいた。

 どこへもいかないで。ここにいて。そばにいて。そう告げる仕草で、うっとりと瞳をまどろませて。

『XXの『傍付き』はラヴェだけよ。誰がなんといっても、そう。……ラヴェが悪いのではないのだもの。XXがいけなかったの。XXが、まちがえて、しまったの……』

 嫁ぎ先がもう決まり、出立を明日に控えた夜のことだった。しあわせを願われながら、いやだと泣きじゃくり、『傍付き』と離れたくない、一緒にいたいと『花嫁』は訴え続けて、眠りにつき。その傍を離れた、ほんの僅かな間のことだった。

 ラヴェだと思ったの、ごめんなさい、と言って『花嫁』は泣いた。あなただと思ったの。あなたと。しあわせになれると、ゆめをみて、しまったの。

『ラヴェがいるから、XXは枯れないで、いきていられるの……。すきよ、すきよ。ラーヴェ、すき……』

 包み込むてのひら、指先に頬を擦りつけて、ラーヴェの『花嫁』は微笑んだ。

「ソキさま」

 花のようにうつくしく、あいらしく。落ちる雫のように瑞々しく、砕ける水滴のように儚く。よく笑う『花嫁』だった。涙を滲ませることや、泣いてしまうことは、ほとんどなかった。そこだけ、ソキは、似ていない。

 震えるソキの目尻を指先でなぞって、囁くように男は告げる。

「あなたさまに、お渡しするものがあります……若君は預かってくださいませんでしたので」

 レロクは、それを断固として拒否した。腕を組み苦虫を噛んだような顔をして。会えるからお前が渡せ、と言ってラーヴェが屋敷を辞すことを許したのだ。数日前にようやくその許しはくだされた。

 泣くのを我慢してなぁに、と首を傾げるソキに笑みを深めながら、ラーヴェはやられたな、と思う。ぎりぎりまで引き留め、長期休暇で首都まで戻ってくるだろうソキと、会えるように調整していたのだろう。

 レロクは会えたら、とは言わなかった。会えるから、と言った。そういうことだ。ふすん、と不満げに鼻を鳴らし、ソキはもぅー、と怒ったような、拗ねたような声でくちびるを尖らせた。

「おにいちゃん、いじわるですぅ……」

「いえ。お優しいのですよ」

 魔術師として家を出た妹が、それを逃せばもう永遠に会えぬであろう男に、確実に再会できるように仕組んでから手放すくらいには。

 そんなことは絶対にないのでラーヴェは騙されてると思うですと言わんばかりの白い目に笑いながら、男は懐に納めていたごく小さな木箱を取り出し、ソキの見る前でその蓋をずらした。

 中におさめられていたのは、細身の金鎖で繋がれた、宝石飾りだった。さんざめく光を封じたトルマリンが、開いたばかりの花の形に切りだされ、金鎖の先端で揺れている。ラーヴェの手がそれを摘みあげ、ソキのてのひらに滑り落とす。

 きゅぅ、と握り締めて、ソキはすぐに気がついた。繋いでいるのは金鎖ではない。ぞっとするほど滑らかによじり合わされた、絹糸だった。金に艶めく絹糸が、ひとつぶだけ揺れる宝石飾りを繋いでいる。

 それは、『花嫁』を飾る、装飾品ではない。

「ソキさまのものです。……レロクさまのものも、用意されていました。お母上から、あなたがたに」

「……これ」

「ええ。……『花嫁』の剣帯です」

 それは、『傍付き』へ贈る、祈りだ。 永久に、我が愛する者を守りたまえ、と。嫁いで行く『花嫁』が、『花婿』が。傍付きに残すもの。数代前に絶えた筈の祈り。どうしてかそれはしてはならぬとされて、だからなにひとつ残せないまま『花嫁』は嫁いで行く。それがあったことだけを、ひそやかに『花嫁』は知るのだ。

 家に残った当主の言葉で。星に捧ぐ歌と共に。

「どうか、ロゼアに。……若君は、さっそくラギに渡していましたが」

 ラギ、というのがソキの兄、レロクの『傍付き』の名である。聞けば、喜べ授けてやる受け取れ、と言い渡して顔に向かってぶん投げたのだという。いいか避けるなよ、と事前に告げてもいたらしい。

 おにいさまなんでそういうことするですかなんでなんですかと遠い目になり、息を吐き、ソキはふるふると首を振った。

「ソキは、もう誰とも結婚しませんですよ。……ロゼアちゃんに渡せない、です」

「ご存知の通り、剣帯飾りを男性に贈る、というのは恋の告白でもあります」

 そちらの意味でも、どうぞお好きに、と笑うラーヴェに、ソキはぶわりと頬を朱に染めた。やあぁん、と花飾りを握った手で腕や肩をやわやわと叩く。くすぐったそうに笑うラーヴェに、ソキはやんっ、と声をあげた。

「ソキ、しない! しないですよ!」

「そうですか」

「んもおおおぉ……! ラーヴェは、どうして、もぉ……! ……んー、んぅー!」

 やんやんやぁん、とむずかって恥ずかしがって声をあげたのち、ソキはぷ、とふくれながら首を傾げた。

「ラヴェ? ……ねえ、ねえ。ラヴェは知ってたです?」

「……なにをでしょうか」

「ソキのお母様は……ラーヴェを、好きだったんですよ。あいしてました」

 たったひとり。ひとりだけを。

「『花嫁』が……『傍付き』に恋することを。お母様が、ラヴェを、好きなの。……知っていたですか?」

 あなたと、しあわせになれると、ゆめをみてしまったの。すきよ。だいすき。あなただけをあいしていたの。囁く声は今も鮮やかで。ラーヴェは目を伏せ、はい、と頷いた。

「彼女は私の『花嫁』でした。どうして分からぬ筈がありましょうか」

「……ラヴェ」

 すがるような、声が、ほんとうによく似ている。はい、と返事をする男に、ソキは目をうるませながら問う。

「ラヴェは、ソキの……おとうさまじゃ、ないんですか……?」

 ふたりは、とてもよく、似ていた。きめの細かい白い肌、ラーヴェの金とも違う色合いの髪は光に透けると砂の色になる。砂漠の砂の色。それは、ソキの髪色と同一だった。うつくしい宝石のような輝きを灯す瞳は、まるで生き写しだと囁かれた。

 前当主の子は誰もが、緑系統の色を瞳に宿したが故に、それを確定させることは誰にもできなかったのだが。宝石のように透き通り艶めく碧の瞳を持つのは、レロクと、ソキの、ふたりきりだった。

 何度も、何度も、囁いた記憶のある問いに。返された答えは、変わらなかった。

「彼女は、私の『花嫁』でした。私は、彼女の『傍付き』でした。……そのことを、あなたはご存知である筈だ」

 頬を撫でる手はやさしく。ソキは目を伏せて、息を吸い込んだ。

「じゃあ……ラヴェは、お母様のこと、どう思ってたの……?」

 男は繰り返して告げる。彼女は私の『花嫁』でした。

「誰よりうつくしい私の『花嫁』。……彼女こそ最愛の……私の宝石」

 なにか告げようとして、ソキは背後を振り返る。姿は見えない。声も聞こえなかったが、ソキ、とロゼアに呼ばれた気がした。もう行かなくちゃ、とラーヴェの手を一度だけ強く握り、ソキはそこから指先を離した。

 男は跪いたまま、ソキに向かって頭を垂れる。

「ソキさま。どうぞ……どうぞ、お健やかに」

「……うん」

 その肩に指先を乗せて身を屈め、ソキは男の額にそっとくちびるを触れさせた。身を離し、なにも告げず、ゆっくりゆっくりとソキは立ち去っていく。立ち上がり、ラーヴェはその背を目を細めて眺めていた。

 人ごみにまぎれ、その姿がちいさくなり、見えにくくなっても。ソキがロゼアの元に帰りつき、その腕の中に抱きあげられてしまうまで、ずっと、見守り。やがて、身を翻して、雑踏の中へと消えて行った。

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