ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 33
逃げてください、と囁いてロゼアは笑った。血に伏せ倒れ動かない魔術師から、姿も魔力も完全に隠してしまう魔術具として作られた外套を引き剥がし、それをリトリアに投げ渡しながら。
その腕に目を閉じたソキを抱いて、泣きそうに笑いながら囁いた。
「逃げてください、あなたたちだけでも。……そき?」
ソキ、そき。だいじょうぶ。ずっとずっと一緒だよ。俺はどこにも行かない。どこにも。ずっと、ずっとソキの傍にいるよ。ロゼアくん、ソキちゃん、と叫んで伸ばした手が届くことはなく。
リトリアはストルとツフィアに腕を引かれ、国境の砦へと体を滑り込ませた。堅牢な門が閉じられる寸前、リトリアは振り返ってロゼアをみる。彼は花嫁に口付けているようにも見えた。
なにか淡く言葉を聞きとめていたのかも知れない。同朋の魔力は消えてしまうことなく、か細くまだそこにあったから。ロゼアがゆっくりと立ち上がり、ソキを抱きしめて幸福そうに微笑む。無慈悲な砂漠の太陽を思わせる魔力が放出された。
門が閉じる。リトリアがみた二人の姿の、それが最後だった。
この砦を出て、砂漠の国を横断して、さらにもうひとつ砦を抜けなければ白雪の国へは辿りつけない。伸ばした指先をなにかがすりぬけて足元へ落ちていくような感覚。手をいくら伸ばしても届かない場所に未来が置かれてしまった。
そこへ辿りつきたいのに。そこへ繋がる道が塗りつぶされて行く。目の前から。足元から。がらがらと崩れて立っていられない。どぉん、と音を立てて砦全体が揺れ動く。
リトリアの他にはどこからも悲鳴ひとつあがらないのは、やはり付近の避難が完全になされているからだった。恐ろしい魔力の、雑音めいた振動が肌を痛ませるくらいに空気を震わせている。
豪雨の夜に遠くで、雷が落ちた日のことを思い出した。なにもかも塗りつぶされて行く。雨に。冷たい雨とくらやみに。そして部屋の中に閉ざされて。なまぬるい息苦しさが鎖のように絡みつき、その場所から何処へも行くことができない。
あんなにどこかへいきたかったのに。
「駄目よ、どの通路もそうだけれど、ここからは特に罠が多くて通れない。解除に時間がかかり過ぎるわ。ストル!」
「分かってる。他の……はっ、誘導されているとしか思えないな。魔力を帯びない廊下はひとつだけだ」
「行くしかないネ。立ち止まっていても追いつかれるダケさ。ロゼアくんの魔力も……モウ尽きる頃だヨ」
太陽の黒魔術師。ロゼアの魔力は、暑い夏の日の強い日差しと、それが地に投げ落とし揺らめく陽炎の、ゆらゆらした旋律のように聞こえていた。怖いくらいに純度の高い、輝きすぎる音楽のようだった。
たったひとりにだけ、やさしく、子守唄ように。柔らかにほどけ、ゆるくゆるく編みあげられる布ようにつつみこむ。頬を包む手の熱のように変化するのが、リトリアはとても好きだったのに。
砦の向こう側で叩きつけられるロゼアのそれは、ただ熱を帯びていた。なんの音も聞こえない。なんの旋律にも思えない。ただ、ただ、熱だ。悲鳴ですらない。嘆きですらない。
憎悪と、絶望。そこから産まれる黒い熱の魔力。はじめてそれを、怖い、と思った。
「……リトリアちゃん」
悔いるように。リトリアを呼ぶシークの声が、頬を打つように響いて己を取り戻させる。え、と呟き目を瞬かせ、リトリアはあたりを見回した。どこにいるかは、ちゃんと覚えている。
楽音から砂漠へ続いて行く国境の、砦の建物の中だ。木と石が組み合わさって作られた回廊は、どこか見覚えがあるようにも思えたし、まったく初めて目にするもののようでもあった。
あたりはしんと静まり返っていて、もうどこからも、なんの音も響いてこない。ぞっとして、リトリアは来た道を振り返ろうとした。叫ぼうとした口ごと視界をてのひらが塞ぎ、頭をあたたかな腕が抱き寄せる。
「リトリア。前へ……先へ、行くしか、もう」
「ストルさん……」
「大丈夫だ、リトリア。君は必ず、俺が守るから」
頭を抱いた腕を離し、眼前に片膝をついて微笑みかけてくるストルが、てのひらを伸ばしてリトリアの頬を撫でる。その温かさに、指先の感触に。リトリアは震えがはしるほど、泣きたい、と思った。
このやさしいひとは、どうしてここにいるのだろう。もっと穏やかな場所で、仲間たちに囲まれて、王宮魔術師として王と国の為に誇りと喜びを持って尽くす、そんな未来が、たしかに、どこかに、あった筈なのに。
涙ぐむ視線を動かして、リトリアは微笑みかけてくれるツフィアをみた。このいとしいひとを、たいせつなひとを、どうしてむかえにいってしまったのだろう。
もしかしたら無実と自由が認められ、誰もと分かり合い、ぎこちなく微笑みながらも背を伸ばし歩んで行く、そんな未来もあったかもしれないのに。どうしてふたりはここで、わらっていてくれるのだろう。
きまっている。しっている、とリトリアは嗤った。わたしがふたりをよんだからだ。
「ストルさん。……ツフィア」
「なんだ? リトリア」
「リトリア、なに?」
わたしがふたりをよびさえしなければ、とざされないみらいが、まだどこかにあったはずなのに。
「……ごめんね」
誰も、いない、廊下のただなかで。はじめからひとりだったと、リトリアは気がついた。だから悲しくて、ストルに甘えてしまった。だから寂しくて、ツフィアに手を伸ばしてしまった。
二人はそれを受け入れ、許して、愛してくれたけれど。そんなことをするべきじゃなかった。リトリアは微笑みながら、戸惑う二人から視線を外し、一歩離れた場所に立つシークに視線を合わせた。
「シークさん」
「……ウン」
言葉魔術師は、リトリアの言葉を、想いを分かっているようだった。苦笑いをしながら、ゆるく片手を差し伸べてくる。リトリアは微笑んだまま、ストルとツフィアからふらりと離れ、差し出されたその手に指先を伸ばす。
「ごめんなさい……。ごめんなさい、シークさん。わたし、あなたのいうことを聞けない。ストルさんと、ツフィアと、一緒に、シークさんのことも、シークさんのせかいに連れて行ってあげられない……」
「ウン」
「でも……でも、力を貸して、シークさん。……『あなたの人形のように私は歌い』」
てのひらに。指先を与えて、握られるさまを見つめ。その熱を感じて、リトリアは目を閉じた。
「『なにもかも、なにもかも。願いを叶える力となりましょう』」
「……キミは、どうしたかったノ?」
リトリアの体をそっと抱き寄せながら、シークが問いかける。ストルとツフィアの叫びを聞かせないよう、リトリアの耳を手で塞ぐその男に、少女は微笑み、囁いた。
「みんなが……」
「ウン」
「しあわせ、で、いて……ほしかった、だけなの……」
もうひとりじゃないよって、わらって。だきしめてほしかった、だけなの。頬を伝い流れる涙を指先で拭ってやりながら、シークはウン、と頷いた。そうだね、そうだ。それだけだったよね。頷いて、息を吸い込んで、笑って。
目を閉じたまま、リトリアは歌った。
『イイカイ、リトリアちゃん。手紙を送ったらイケナイよ』
『……てがみ?』
『ソウ。ボクにはもう、送ってはイケナイ。……じゃないと、悪いオオカミが、キミを欲しいト思ってしまうからネ?』
優しさは毒のように、ぐずぐずと心を腐らせた。それが欲しいと思わせてしまった。それなくては生きていけないと思うくらいの衝動を、キミだって分かっている筈だよ。
くらやみのなかで囁かれて、リトリアはちいさく頷いた。
『でも、さびしくない? かなしくならない? ひとりだもの。ずっと、ずっと、ひとりだもの……』
『大丈夫サ』
キミが、ボクに、手紙をくれた。それがたとえこの一度ダケだとしても。そのことをボクはずっとずっと覚えてる。だから、さびしくはならない。いいね、リトリアちゃん。
くらやみのなかから抜けださせようと、そっと背を押す声がした。
『――ボクに捕まってはいけないよ』
とん、と足を踏み出すように。長い夢から醒めるように。
息を吸い込み、リトリアはまぶたを持ち上げた。いつのまに座りこんでいたのか、力なく地についた両腕がリトリアの体を支えていた。びょう、と音を立てて過ぎ去って行く風が荒い。
夕陽も落ちきる寸前であるのか、あたりは濃い闇とやきついた光の残滓に包まれていた。見渡す限り、そこは瓦礫の山だった。あたりにはなにもない。瓦礫の他には。あたりには誰もいない。リトリアの他には。
死の深いにおいがあたりを包み込んでいた。リトリアは顔を覆うようにてのひらを押し当て、嗚咽を堪えてくちびるをかむ。
「ごめんなさい……」
あたりにはなにもない。ちかくには、だれもいない。ただ、荒れた音で吹く風だけがリトリアに寄り添っていた。その日。楽音と砂漠を繋ぐ国境が砕かれ、世界はふたつに分断された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます