ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 26

 窓のない、外の見えない、光の差し込まない、外部から完全に切り離された部屋に、時間の感覚というものは存在しないに等しかった。この場所に連れて来られて何日が経過しているのか。

 ふり積もった月日が、何年くらいになっているのか。どれくらい、ストルとツフィアに会えていないのか。リトリアにはよく分からなかった。ただ、ずっと昔のように思う。

 ストルに大切に髪を梳いてもらったのも、ツフィアに仕方がないわねと苦笑されながらも、行くわよ、と手を差しのべられてそれを繋いで歩いたのも。大切で、きれいで、きらきらした思い出は、ぜんぶ、ぜんぶ、ずぅっと昔に置いてきてしまったように思う。

 それはこの部屋の外にあった。それで、ずっと、リトリアが迎えに来てくれるのを待っているのだ。

 ここにあるよ、とそれらが囁くのは閉ざされた扉の向こう。鍵がかけられ、魔術的な封印もされた、かたく閉ざされた扉の向こう。力のない、魔力を封じられたままのリトリアには、とうてい手の届かない場所に置き去りにされているのだ。

 どうすればそれに手が届くだろう。どうすればそれを大切に抱きしめたままでいられたのだろう。そうすればひとりきりだって寂しくはなかったのに。愛してくれた記憶をこの胸の中にちゃんと、抱きしめておくことができたのなら。

 リトリアはきっと、どんなつらいことだって耐えられたのに。どんなことだって出来たのに。思い出が遠くて、いまはもう、なにもできない。

 不意に。風がふわりと動いた気がして、歌っていたくちびるを結んで、リトリアはゆるく首を傾げた。誰か来たのだろうか。この部屋を訪れる者は限られていて、その誰もが訪問の予定にはすこしばかりはやいような気がしたのだけれど。

 正確でない時間間隔しか持たないから、間違えてしまったのかも知れなかった。扉に視線を向ける。はい、と返事をするよりはやく、ためらいがちなノックの音。どうぞ、と囁き告げれば扉はあっけなく、鍵を開かれ足音が響いた。

 現れたひとを、リトリアはきょとん、として見つめてしまう。

「……だぁれ?」

 青年だった。まだ年若い、身長がとても高い青年だ。褐色の肌に、銀の短髪。紫の水晶めいた瞳の、優しげな面差しをした青年である。風の気配がした。風の。魔術の。

「だれ……?」

 魔術師であることは間違いがなく、けれども、リトリアには見覚えのない相手だった。青年は困ったように笑いながら戸惑うリトリアの眼前に歩み寄ると、その場に膝をつくようにすとん、としゃがみ込み、その瞳を覗き込んでくる。

『こんにちは。……はじめまして』

 やわらかに香る、花のように。意思を灯した魔力が、揺れた。

『俺は、ナリアン。もうすこしで学園を卒業する、風の……黒魔術師。花舞の王宮魔術師になる者です』

「ナリアン、さん……?」

『できれば、あなたの話相手になってくれないかと、女王陛下が……俺で、いいかな』

 花舞の女王がそう告げたのであれば、そこにどんな思惑があるにせよ、リトリアにしてみれば命令に等しい。戸惑いながらもこくんと頷くと、ほっとしたように深い宝石色の瞳が揺れた。夥しい魔力を秘めた瞳。

 フィオーレやレディから感じ取るそれと、同じ印象を青年は持っていた。思わず微笑んで、リトリアは理解する。魔法使いだ。リトリアに面会を許された、三人目の魔法使い。

 これからこの世界の為の奉仕者となる彼は、数えて三つ目の、リトリアの魔力の封印具に他ならなかった。それでも、まだ学園を卒業しきっていない立場故か。それとも、なにか他に理由があるのか。

 ただ話相手としか、この青年には告げられていないようだけれど。

 リトリアは息を吸い込み、たどたどしく、慣れない響きとしてナリアンの名を紡ぐ。それをきちんと呼べるくらいになった時。この青年はきっと、リトリアの枷のひとつにされるのだろう。




 もう授業もないし、試験もすべて終わってしまったから、卒業の日が決まって花舞の王宮へ迎えられるまでは暇なのだ、と微笑んで。ナリアンはよく『棺』を訪れ、リトリアにたくさんの話をしてくれた。

 来れば必ず三日ぶり、昨日も来たけど今日も来たよ、五日も来られなくてごめんね、と告げてくれるので、ナリアンが訪れるようになってから、リトリアはにわかに日が進んで行く感覚、というのを思い出していた。

 一日はリトリアの手の届かない、どこか遠くで降り積もり、死んでいくのだけれど。その数を数えられる。時の流れがゆっくり、手元まで戻ってくる。

 そのことを、誰もいない空虚を、さびしいと。くるしいと、つらいという、感覚まで、ゆるゆると戻ってきたのだけれど。

 リトリアがそれに押しつぶされてしまう前に、ナリアンはトン、と扉を叩き、風をまとって現れる。こんにちは、リトリアちゃん。おはなし、してもいいかな。目を会わせて、柔らかく微笑んで。

 ひとりきりのさみしさを、ほんのすこしだけ、忘れさせてくれるひとだと。リトリアは、ナリアンを、そういう風に感じ始めていた。

「……手間、ではない、ですか?」

『手間?』

 おかしな言葉を聞いてしまった、という風に笑って。ナリアンは運び込んで来たマグカップに温かなココアを注ぎ入れ、リトリアの前にことん、とおいてくれた。外は冬であるらしい。

 『棺』には常に暖かな光が満ち、温度も一定で穏やかなばかりだから、寒さも感じたりはしないのだけれど。今日は冷えるから温かくしてね、と笑うナリアンの手渡してくれたブランケットが陽の熱を宿していて。

 湯気のたつココアは、すこし熱いくらいで。体も、指先も、冷えていたことを思い出してしまったようで。泣きそうになりながら、リトリアはこくん、とココアを飲みこんだ。あたたかくて、あまくて、とてもおいしい。

「ここへ来るのは……許可が必要、でしょう? その、申請とか……なにか持ってくるのも、お話する内容、だって」

『俺はそんなの、手間だなんて思ったことないよ』

 ふ、と大人びた表情で。仕方がないなぁ、と言わんばかりの微笑みで、ナリアンはリトリアの向いの椅子を引き、そこへ腰を落ち着かせた。

『俺は確かに女王陛下の頼みでここに来ることを許されたけど……ずっと通ってるのは俺の意思だ』

「どうしてですか……?」

『……俺は、君のことを知ってたよ。君に会う前から』

 リトリアの問いに笑みを深めて囁き、ナリアンはおたべ、とクッキーを差し出した。白い小皿にざらりと袋から流しだされただけのクッキーは山になっていて、どれも形はいびつだったけれど、とてもおいしそうに焼き上がっていた。

『俺の担当教員は、ロリエス先生。……先生は、時々、君の話をしてくれた』

「どうして……? どんな、おはなし?」

『どうしてかな。俺が……話を、してみたいけど、それがうまくできない子がいて……どうすればいいのかな、って相談したから、だったような気がする。俺のね、同期は……三人いて。ロゼアと、メーシャと、ソキちゃんっていうんだ。ロゼアとメーシャは男で、ソキちゃんは女の子。三年半とすこし……今年の夏至の日でもう四年になるけど、その四年間、俺はソキちゃんとこうして話ができたことは、ないんだ』

 俺がすごく授業をつめて、忙しく学んだってことはもう話したよね。

 俺は学園の中でも相当慌ただしく学んだ方だと思うけど、俺にそういう時間がなかったとか、そういうことじゃないんだよ、と目を伏せて笑って。ナリアンは囁くように魔力をくゆらせた。

『入学式の前に、ソキちゃんとはじめて会った時……ロゼアの腕の中で熱を出して、苦しそうに、辛そうにしながら、あの子はうとうとしてた。ソキ、ってロゼアに呼ばれて、うっすら目を開いて、俺とメーシャをみて……恥ずかしそうに笑った。ひとみしりするんだ、ってロゼアが笑って、挨拶できる? ってソキちゃんに聞いた。ソキちゃんはやっぱり、すごく恥ずかしそうに、照れた風に、ほんとにちいさな声で、ソキですよ、って言ってくれた。ナリアンくん、メーシャくん、こんばんは。……ロゼアちゃん、ソキ、ごあいさつできた? ちゃんとできた? って笑って、それで』

 うん、ちゃんとできたよ。いいこだな、ってロゼアに告げられて、本当に幸せそうに笑って目を閉じてしまった。ねむたいですって呟いて、それで終わり。それがたぶん、ちゃんと話ができた、最初で最後。

 ソキちゃんは入学式にも出られなかったし、授業も、もちろん実技もそうだけど座学だって受けたことはないんだよ、一回も。ずっと、ずぅっとロゼアの部屋で眠ってる。起き上がれないんだ。

 たまに体調が良くて動けたとしても、ソキちゃんは魔術師が怖いって言って、部屋の外に出てこようとはしなくて。話がね、できないんだよ、とナリアンは悲しげに微笑んだ。

『時々、メーシャくんと一緒にソキちゃんに会いに行った。ロゼアに、調子はどう? って聞いて。今日は起きられてる、元気だよ、って言ってくれる日を選んで。おはなししていい? できる? ってお願いして。……ロゼアがソキちゃんを抱き起こして、ナリアンとメーシャだよ、って言ってくれる。おはなしできるか? ソキ。大丈夫、怖くないよって言ってくれて……ソキちゃんは恥ずかしがるみたいにロゼアの背中にくっついて、隠れたまま、俺たちを見てる。ほんとに怖くないのかなって、考えてくれてた。……でも、起きていられないんだろうね。すぐ、うとうと眠そうにして、ロゼアにくっついたまま寝ちゃうんだ。ロゼアはごめんなって言ってくれる。いつも。ごめんな、無理みたいだって。ひとみしり、するんだって。昔から。まだすごくちいさいころは、ロゼアにもそうやってたんだって。大人の、うまれた時から傍にいる世話役のひとの脚にぎゅぅってくっついて、恥ずかしそうにしながら、でもじぃっと見てくれたんだって。どこかへ行こうとすると、寂しそうにするから、嫌ってる訳じゃないんだって……』

 ナリアンのことも、メーシャのことも、ソキは怖がってないよ。だから、もうすこし、慣れればきっと。告げるロゼアに、ナリアンはいつも、頷いて仕方がないねと苦笑したけれど。

 そのもうすこし、の時間を積み重ねるよりはやく、ナリアンの卒業が決まってしまったから。

『手紙のね、話を……ロリエス先生はしてくれたんだ。手紙を書けばいいんじゃないか、って。会って話すことができないのなら、書いて託せばいいんじゃないかって……君のくれた手紙の話も、してくれた。いまも』

 それは魔術師たちを繋ぐか細い糸であるのだと。それは今も途切れずに存在していて、リトリアを助けようとしているのだと。

 ナリアンは戸惑うリトリアに笑いかけ、いつかきっとここから出られるよ、と言った。この『棺』の外へ。きっといつか君を連れて行くよ、と。

 そう聞こえた気がした。


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