ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 20


 リトリアはもどかしく首をふり、言葉にならぬ意識を反映したように動きを迷わせるペンを、じわりと涙の浮かんだ瞳でみた。声が出れば、もっとちゃんと、伝えられるのに。

 言葉魔術師を殺害してはいけない。その理由を、リトリアは正確には知らないのだけれど。してはいけない、という事実だけは分かっていた。がり、と紙をひっかけてペンが動く。

『だめ』

 ジェイドは、ふ、と笑みを深めて君がそう言うなら、と微笑ましそうに告げた。少女らしい潔癖さと優しさが、それを受け入れさせないとでも思ったのだろう。そういう気持ちがないとは言わない。

 けれど、違うのだ。もどかしい。そんな優しい理由でリトリアは言っているのではないのに。ペンが迷いながら動きかけるのをさえぎるように。くすくすくす、とシークの笑い声が響いた。

 予知魔術師の魔力の暴走を、利用を恐れるあまり封じ込めた弊害を嘲笑い、哀れむような笑みだった。シークさん。声なさぬくちびるを動かし、リトリアが呼びかける。

 その、震える意思に。言葉魔術師は勿忘草の瞳を持ち上げ、ゆるく微笑みを深めてみせた。親しげな。毒のしたたる、おぞましい笑み。

「キミたちがとてもトテモ気になっているコトを、最初にヒトツ教えておいてあげようネ?」

「シーク」

 エノーラとラティを挑発するな、と言わんばかり厳しい声で名を呼ぶジェイドに、言葉魔術師はアア怖い、と笑いながら囁き、鉄柵の向こうでゆるりと脚を組みかえた。背もたれに体を預け、悠々とした態度で、シークは咎められたことを完全に無視して言葉を響かせる。

「ナニモしていないヨ? お人形チャンハ、ボクのやったことに、なーんにも、してない」

「それは……」

「イイヨ。証明でもなんでも、すればイイ。書いてあげようネ」

 フィオーレが鉄柵に駆け寄り、シークへ向かってバインダーと筆記具を投げ渡す。鉄柵と男が座る椅子の間には距離があり、差し出した程度では指先が触れることすら叶わない。

 シークは微笑み、椅子に座ったままで腰を浮かそうともせず、投げられたそれを受け取った。さらさらと文字を書き入れていく様を見つめながら、リトリアはぼんやりと考える。

 シークは動くことができないのだろうか。見えないだけで、なにか魔術的な拘束を受けているのかも知れない。リトリアが聞いても恐らくは教えてくれないことであるし、目視だけでは未熟な魔術師たる少女に、それが分かることもなかった。

 強制的に魔力を封じられた状態であるから、リトリアの意識は気をつよく持ち続けていないと、ぼんやりとしてしまって思考がうまくまとまらない。あの部屋の中にいた時と同じように。もうその外にいる筈なのに。

 自由に、してもらった筈なのに。周りには信頼できる親しいひとたちが、守ってくれている筈なのに。ひかりあふれる空間で、ひどく冷えた気持ちで、リトリアは考える。

 ここは、ひとりきりで、とてもさみしい。

『……カワイソウなお人形チャン』

 笑い声が忍び込むように、リトリアに触れていく。声ではなく、空気ふるわせる音ではなく。体の内側から染み込んでくる、それは魔力そのものにすら似て。言葉魔術師の意思が、予知魔術師に語りかける。

『ストルと、ツフィアが、今どうしているかも知らないんだネ……?』

 ストルさん。ツフィア。たすけて。

『あのフタリは、キミを』

 ひとりきりで。

『助けに来てはくれないヨ……』

 ここはさみしい。

「ハイ、書けたよ。どうぞお好きに?」

 夢と現を淡く行き来しているかのように、リトリアの意識はどちらが現実なのかで僅かばかり、迷った。どちらにもシークの声が響いている。笑い交じりのいびつな声が。フィオーレが閉じて差し出されるバインダーを投げ渡すように要求し、受け取り、眉を寄せながら確認している。

 複写式の紙を切り取り、とんとん、と白魔法使いの指先がバインダーを叩いた。告げる。

「正しさのみであれ、偽りは燃え落ちよ」

 それは静かな声だった。静かな、静かな声だった。感情という感情がまるで凪いでしまったような、それでいて泣きだしそうな、青く深く染め抜かれ、底が見えない湖面のような声だった。

 フィオーレはかつての同僚を、今は罪人として鉄柵の向こうに幽閉する男をまっすぐに見据えながら、淡々と声を紡いで囁きかけた。

「正しくあれば祝福を、偽りあれば赤き炎で塵と化せ。火よ、青き火よ……偽りなければ踊りたまえ」

 ごう、と音を立て、くらやみを照らし出したのは青い火だった。はらりと黒い塵と化してのひらの中で朽ちていく紙を見据えながら、フィオーレはお前さぁ、とシークに向かって息を吐き出した。

「それを今証明できるなら、もっとはやくしろよ……リトリアがかわいそうだったろ?」

「ボクは最初から、お人形ちゃんが関わってるだなんて一回もいわなかったヨ? 関係あると思うのカイ? って聞いただけだろうに。カワイソウナお人形チャン。だぁれにも信じてもらえなかったんだネ……?」

「お前、なんでリトリアになら話しするって言ったわけ? 答えろよ、シーク」

 苛立ちながらも、ひどく静かな声でフィオーレは尋ねていた。あとお前そうやってわざと人が傷つくようなこと言うのもやめろよ、と不愉快げに吐き捨てながらも、その声音には火の魔法使いがみせたような憎悪の色は現れなかった。

 リトリアは眠りにつく寸前のような、穏やかなまどろみのなかで想う。この二人はもしかしたら、ほんとうに。リトリアが知らなかっただけで。真実、友人同士であったのかも知れないのだと。

 シークは勿忘草の瞳をそぅっと細め、それまでとはすこし違う穏やかさで口元をゆるく和ませた。

「さぁ……どうしてだったか、忘れてしまったヨ。でも……キミには話したくないネ」

「なんでだよ」

「秘密ダヨ。さあ……さあ、白魔法使い、いいのカイ? こわぁい魔法使いのオンナノコと占星術師チャンが睨んでいるよ」

 フィオーレは真顔で、それは分かってるからいまおれふりむかない、と頷き告げた後、そろそろとぎこちなく視線を地に伏せ、深く息を吐き出した。それを最後に、情を切り捨てることにしたようだった。

 ふと持ち上げられた視線はひどく冷たく、言葉魔術師は満足げに笑みを深める。

 ソレデイインダヨ、と口唇の動きで告げられるのにも眉を寄せただけで鉄柵から数歩距離を取り、フィオーレはジェイド、と砂漠の魔術師らを束ねる王の側近たる男に呼びかけた。

 もういいよ、と告げられるのに苦笑して、ジェイドはぽん、とリトリアの両肩にてのひらを乗せる。さあ、と耳元で、やさしい声がリトリアを促した。

「君が聞くんだ」

 なぜ『砂漠の花嫁』を誘拐したのか。どうして、そんなことをしようと思ったのか。リトリアの意思を読みとってペンはするすると紙の上を動き回り、文字を書き終えるとぱたりと横倒しになる。

 リトリアは言葉の書きしるされたノートをシークに向かって掲げ、こたえて、とくちびるを動かした。ぼんやりする。いきがくるしい。めまいが、する。なんにも、うまく、かんがえられない。

 シークは、哀れむようにリトリアを眺めた。

「キミには分かる筈ダヨ、リトリアちゃん」

 ぱちん、と目の前で光が弾けたように。その瞬間、リトリアの意識が澄み渡った。濁され乱されていた水が、きよらかに甘く透き通るように。己という意識が手元まで戻り、呼吸が楽になる。

 魔力が、ほんのすこし、体を巡って流れるのを感じた。とくとくと流れる血液のように。指先まで届けられる魔力が、リトリアの意識と呼吸を守っている。は、と息を吸い込むリトリアに笑いながら、シークは首を傾げて囁き告げた。

「キミだって、ツフィアを見た瞬間に『そう』感じた筈だ……これはボクたちの本能ダネ。キミがツフィアのお人形チャンであるのと同じように……彼女が、ボクの、お人形さんだった。それだけのコトさ」

「……どういうことだ?」

 訝しむジェイドの声に応えることなく、がり、と音を立ててノートにペンが走っていく。

『でも、ツフィアはわたしにそんなことしない……! ツフィアは、わたしを、壊したりなんか……!』

「キミはたまたま、まだ、そうされていなかっただけなのかも知れないダロウ? ツフィアに使われたことがあるカイ? ないだろう? カワイソウにねぇ、お人形チャン。キミは、キミこそが、ツフィアに用意されたお人形チャンなのに。キミはいらないって言われたも同然ダヨ。一度も使われたことがないんじゃネェ……」

『わたしは、ちゃんと……ちゃんと、ツフィアの力になれるもの! ツフィアが、そうしたい、って思ってさえくれれば、わたしちゃんと……できるもの! わたし、ツフィアの助けになれるもの!』

 その為にがんばろう、って決めたの。だからわたし、一人前の魔術師になって、ちゃんと、ツフィアの。ツフィアのちからに。なれる。できる。がりがりがりと音を立て、乱れる文字がリトリアの意思を紙の上に刻み込んで行く。

 かんしゃくを起す寸前の表情で椅子の上で身を強張らせるリトリアに眉を寄せ、ジェイドが指先でフィオーレを呼んだ。なんの話をしているか分かるか、こころあたりは。ない、俺には分からない。

 レディとラティは。私たちにも。分からない。これじゃまずい。こんな風であれば共謀して疑いを晴らしたとも受け取られてしまう。でも真偽判定の炎は青だと。レディ、あなたも知っている筈。

 あれは厳密な判定であるが故、ほんのすこしの言葉の差異で結果が分かれてしまうこともあると。そしてあれは言葉魔術師。言葉を、つかう、専門家よ。頭の上で奏でられていく響きを、リトリアは耳にしていながらも視線を向けなかった。

 くすくす、笑う声が、耳元で響いている。

『キミは、ツフィアの助けにはなれないよ、お人形チャン……だって』

「ツフィアは、いま」

 がっ、と。紙面につきたてるような音を立てて止まったペンに、魔術師たちの囀りが一瞬にして静まり返る。ほんの僅かな空白だった。誰も、リトリアがなんと問いかけ、シークがなにを告げたのかを聞いていなかった。

 息をつめてレディがリトリアの手からノートを奪い、そこに書かれた文字に視線を落とす。予知魔術師は問いかけていた。ツフィアが、いまどこで、なにをしているのか。知っていたらわたしに教えて。

 鉄柵の向こう、言葉魔術師が哄笑する。

「アア、カワイソウニカワイソウニ、ダレもキミにソレをオシエテくれなかったんダネ! 君のダイジなツフィアが、ストルが! キミを庇い、キミを助けようとしたタメニ!」

「……ほんと?」

「ツフィアは幽閉され、ストルは拘束サレテイル! キミの無実ガ証明サレヨウト、自由ニなるかはワカラナイ! カワイソウニ、お人形チャン! カワイソウなツフィアとストル、キミを愛したばっかりに!」

 自由を奪われ羽根をもがれた。二度と飛び立つことはない。君の愛したあの二人は、君が愛したそれ故に。リトリアは椅子から立ちあがって、鉄柵を背に魔術師たちに問いかけた。

「……ほんとに?」

 その喉元には手が触れている。書きこまれた封印式を乱しかき消し、リトリアはおおきく息を吸い込んだ。リトリア、とフィオーレが手を伸ばして叫ぶ。だめだ、やめろ、と告げられるのを拒絶するように。

 リトリアは己の魔力を解き放ち、その場の全員に叩きつけた。




 予知魔術師リトリアに、五ヶ国に対する反逆の意思あり。

 魔力の封印に、その場に同席した魔法使い二名が対処。意識の喪失。昏倒を確認。協議の後、予知魔術師の封印を決定。しかるべき処置を行い、その身柄は花舞の王宮へ移送。最深部。『棺』と呼ばれる空間に、幽閉が決定。

 報告は淡々と、魔術師たちの間を流れ。嘆願書をいくら送れども、処分の撤回は、ならず。時だけが、流れた。

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