ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 18
「めい、れい……」
たどたどしく繰り返し、リトリアはそれになにを感じることもなく、ただ素直に頷いた。
「……はい。ご命令に従います。……私は、なにを?」
痛ましげに。一度、閉じた瞼を震わせて。ジェイドは息をはき、首を振って、リトリアをまっすぐに見た。
「とりあえず」
かつ、と一度だけ足音を立て。ジェイドが部屋へ踏み込んでくる。それきり足音のないしなやかな歩みでリトリアの前まできた男は、視線を重ねたまま、少女の座る椅子の前にしゃがみ込んだ。
微笑み、ごめんね、と囁かれる。両手が伸ばされた。
「や……!」
反射的に体をひねって逃げようとしたのは、その手がリトリアへ触れたからだ。頬に、そっと、てのひらが触れる。肌に。それを許したくなど、ないのに。ストルでも、ツフィアでもない、誰かに。触れられることを許したくなど、ないのに。
ごめん、と囁きながらジェイドはリトリアから手を引かず、頬に手を押し当て、それを首筋へ滑らせ、考え込むようにしながら額へと押し当てた。
ふるふる、震えて嫌がるリトリアに息をはき、ジェイドはやはり一度フィオーレに診てもらうのが一番か、とひとりごち、ばさりと音を立てて魔術師のローブから袖を抜く。
「リトリア」
そのローブで少女の体を包み込んで。
「……ごめんな」
ジェイドは、そうするのに慣れた仕草で、リトリアの体を抱き上げた。いやがるのを宥めるようにぽんぽん、と背を撫でながら、ジェイドが部屋の扉へ向かって歩き出す。
目を開いていなければ、歩いている、ということすら分からないような。静かな、なんの不安もない、ゆったりとした歩き方だった。はなして、いや、とむずがりながら、リトリアはジェイドの肩ごしに、連れ出された廊下をみる。
そこから広がる外の景色。ひえた空の色を、みる。乾いた、冷たい空気が喉を軋ませた。それに、けふ、と咳き込んで。リトリアは耐えきれず、ジェイドの腕の中で涙を零した。
どれくらいの時間が経ったのだろう。リトリアが連れてこられたのは八月の終わり。それから、どれくらいの時間が過ぎてしまって。わからなくて。けれど。ひとつだけ、確かなのは。
リトリアはツフィアに手を引かれることも、ストルと踊ることも、できなかった。ふたりの名を呼び泣くばかりのリトリアの背を、そっと撫でて歩きながら。ジェイドはもう一度、悔いるように、ごめんな、と言った。
ごめんな、リトリア。ほんとうに、ごめん。繰り返し、繰り返し、謝られたけれど。リトリアは泣きやむことができず。ジェイドは、ふたりの元へ帰っていいよ、とは、言わなかった。帰れるとも。言ってはくれなかった。
うわああぁああっと悲鳴をあげながらジェイドの腕からリトリアを受け取り、寝台に座らせて、まずまっさきにフィオーレは少女の体を抱きしめた。
室内で待っていた者たちも、じわりじわりと、そこにリトリアがいる、ということを受け入れられたのだろう。誰かが涙まじりによかったと呟き、リトリアの耳元でもフィオーレが、涙声でごめんな、と囁いた。
そんなことは気にしなくていいので、とりあえずちょっと離してほしい。
だいじょうぶですから、ともぞもぞ身動きして訴えれば、ああ相変わらずなんでいうかひとみしりっていうかそうなんだけどストルとツフィア以外にはデレ無いよねお前、と溜息をついたフィオーレが、ぽんぽんと背を撫でた後にようやく離れてくれる。
ほっと息を吐きながら座り直し、リトリアは眼前のフィオーレをじっとみて、首を傾げた。
「フィオーレさん……ちょっと、痩せた……?」
というか、やつれたような、疲れた顔をしている。部屋に集った魔術師たちは誰もかれもがそんな風であったのだけれど、フィオーレは特にそれを感じさせた。言われた瞬間に、感情を堪える為だろう。
一度強く瞼を閉ざしたフィオーレは、ゆるゆると息を吐き出しながら頷いた。
「ちょっとね……でも、俺のことなんて……俺の、心配なんて、しなくて、いいんだよ……!」
あの部屋を閉ざす魔力が誰のものだったか、リトリアも、それくらいのことは分かってただろ、と苦しげに告げられて、リトリアは眉を寄せながら首を反対方向へ傾けた。リトリアが囚われていた部屋は、ずっと、誰かの魔力に包まれていた。
それは思考を鈍く、体の動きを自由にはさせず、それでいて強制的に抑えつけられる水面のように、魔力はまったく動かなかった。何度か瞬きをしてこくりと頷き、リトリアはずっと、と問いかけた。
ずっと、フィオーレが、守っていてくれたの、と。白魔法使いは顔を両手で覆い、そこでまもってたとかいってくれることにおれのりょうしんがたえきれない、と呻いて、そのまま動かなくなった。
ちょっと反省するなら場所を選びなさいよっ、とフィオーレの体を横から蹴ったのはエノーラだった。白雪の国の錬金術師である女性が、どうして、砂漠の国にいるのだろう。
エノーラさん、とやや嬉しそうな顔で囁くリトリアに、女性はぱっと顔を明るくして腕を伸ばしてくる。が、直前で、抱きしめてもあまり良い反応を得られないことを思い出したのだろう。
あああもうストルほんとまじ、ほんとまじっ、と呪うような呻きをぼたぼたと落とし、エノーラは仕方なく、リトリアの髪を撫でることで己の欲求と折り合いをつけたようだった。
なでなでなで、と可愛がる動きでリトリアの頭を撫でながら、瞳を覗き込んでエノーラは笑う。
「ひさしぶり。……ひさしぶりね、リトリアちゃん。気分はどう?」
「飲むか? 体も温まるだろう」
言いながら、湯気の立つマグカップをリトリアに持たせてくれたのは、チェチェリアだった。その傍らにはパルウェも立っている。二人ともやや疲れた顔をしているが、リトリアをみる瞳は穏やかな喜びに輝いていた。
チェチェリアは楽音の魔術師、パルウェは学園に勤務する魔術師である筈だ。エノーラと同じく、そう簡単に国を離れられない筈なのに。
どうしたんだろう、とふり積もっていく疑問を問うこともできず、リトリアはこくんと頷き、チェチェリアのくれたココアをひとくち、喉に通した。あたたかくて、あまくて、とても、安心した。
「……食欲はあるのかな。おなかすいてるならなにか持ってこようか? 俺、運んで来れるよ?」
「いや、お花さんはもう大人しくこの部屋にいて欲しい」
リトリアを囲む女性たちから一歩退く形で、部屋にはユーニャと、ウィッシュの姿もあった。ユーニャさん、ウィッシュさんと笑って手を振るリトリアに、二人はほわりと和んだ笑みで手を振り返してくれる。
寮長はどうしても学園を離れられなかったから俺たちが代表で来たよ、と囁くユーニャに、リトリアはよく分からないまでも、そうなんですかと頷いた。と、いうか、と苛々した様子で吐き捨てたのは、レディだった。
火の魔法使い。
「本当に大丈夫なんでしょうね? なんの影響もないんでしょうね……!」
「え、ええぇっと……うん、たぶん……?」
「これだから、他国出身者は……! だから私とか、砂漠出身者に相談なさいって言ったでしょう! 馬鹿! あなたたち、ほんとだめっ! 監禁のルールとマナーと作法が全然わかってないっ!」
あのやり方はいくら魔術師であっても法律にひっかかるでしょうがっ、と叫ぶレディに、涙ぐんだフィオーレが監禁はどのみち法律にひっかかるだろうがっ、と叫び返す。レディは、ふふん、となぜか自慢げに胸を張って答えた。
なぜか。どうしてか。自慢げだった。
「だから分かってないっていうのよ。いい? 砂漠にはちゃーんと! 監禁に対する法律があるんだから!」
「え……? ……えっ、いまのおれにはりかいできないっていうか、いやいっしょうりかい、したく、ないんだけど。ちなみにどんな?」
「どんなって。だから、期間とか、ルールとかマナーとか作法についてよ?」
あなたなにを言っているのとばかり訝しむレディに、いやお前がなにを言ってるんだ、とばかり室内の視線が集中する。
やだやだやだおれかんきんとかきらい、ちょうきらい、と半分死んだ目で呻くウィッシュを、そうだねー、とユーニャが慰めていた。
室内の微妙な沈黙を代表して、仕方なく、本当に仕方なく、こころゆくまで仕方がなさそうに、のろのろとチェチェリアが片手をあげた。
「レディ」
「なに?」
「監禁、に……ルールと、マナーは……普通、存在しない」
なぜならそれは犯罪だからである。ええええそうかなぁ、と言わんばかり首を傾げ、レディはあっさりと、まあいいわ今はそんなこと、と言い放った。ちっともそんなことではないのだが。
とりあえず話が先へ進まないし、それは今論ずるべきではないと、室内の誰もが分かっていたのだろう。
これだから砂漠は、と部屋の隅で静観していたロリエスがぼそりと呟き、シンシア、キアラ、ジュノーたち花舞の魔術師たちもこくこくと頷いている。室内にはキムルの姿もあった。
チェチェリアの夫たる、楽音の錬金術師。男はリトリアを部屋から連れ出したジェイドとなにかと話していて、視線に気がつくとやさしく微笑み、ひらひらと手を振ってくれた。
いったい、どうしてこんな数の魔術師たちが、集まっているというのだろう。リトリアと、特に親しい者ばかり。その中でも特に、各分野に精通した、腕ききの者ばかりが。
はぁ、と様々な衝撃から立ち直ったフィオーレが、とりあえず体調確認と回復だけ終わらせるのでエノーラお願いそこどいて、と懇願し、許されているのを眺めながら、リトリアは不思議に思ったのだが。
なんとなく、場の雰囲気が安堵しながらも張り詰めていたので、どうしたの、とその一言を、くちびるに乗せることができなかった。
室内を何度も見回し、扉にすがるような目を向け、こちらへ向かってくる足音がないか、注意深く確認しながら。何度も、何度も、待ちながら、リトリアはどうしても尋ねることができなかった。
ストルと、ツフィアの姿は。ないままだった。
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