そして焔と踊れ 09

 走ったせいでまた咳き込み、苦しくて動けなくなっていたのだろう。涙を浮かべながら口元を手でおおい、しゃがみこむリトリアの姿は、講師室からそう離れることなく見つけることが出来た。

 ほっと息を吐きながら歩み寄ると、びくんっ、と全身を震わせてリトリアが視線を持ち上げる。すとるさん。声なく綴った花色の唇に、僅かに血がにじんでいた。すとるさん。震えながら囁き、リトリアがむずがるように首を振る。

「ごめんなさい……ごめんなさい、だいじょうぶです。すぐ、すぐ、よくなるから……」

「リトリア」

「ほ、ほんとうなの。だから心配しないで、ストルさん。めいわく、かけない、から」

 いう間にも乾いた咳を繰り返すリトリアの傍らに、ストルは膝をついてしゃがみ込んだ。リトリア、と呼びかける。じわじわと涙を浮かばせた瞳から、ころりと、涙が零れ落ちた。

「よば、ない、で……」

「どうしてだ」

 指先を伸ばして、涙を拭ってやる。次々と溢れてくる涙に触れるストルの指を、そのぬくもりを、リトリアは拒否しようとはしなかった。しゃくりあげながらストルのことを見つめる瞳が、怯えながらも淡く、恋に染まっていく。

 すきなの。あなたがすき。瞳で、触れる指先にあまく震える肌で、力を失っていく体で。全身でそう告げながら、リトリアはストルに向かって両腕を伸ばした。

「……期待しちゃうから」

「期待?」

「うん……」

 おいで、と開かれた腕の中に体を寄せて、リトリアは泣きながらストルの胸に顔を伏せる。

「やさしくしないで、抱きしめないで……撫でないで、呼ばないで……!」

「リトリア」

「わたしのこと、きらいなくせに……やさしくしないで……やだ、やだぁっ」

 こんなのやだ、やだ、と泣きじゃくるリトリアを抱き寄せて。ストルは溜息をつきながら、ぽんぽん、と背を撫でてやった。甘えながらすがりつく全身が、抱きしめて、と告げている。

 抱きしめて、撫でて、いつものように。名前を呼んで、やさしくして。好きって、いって。離さないで傍にいさせて寂しかった。会いたかった。リトリア、と名を呼ぶと怯えるように震える身体が、逃げようとする。

 目を閉じて泣きながら、掠れた声が、きらいにならないで、と囁き告げた。きらいにならないで、いいこにしてるから。いいこにしてるから、やさしくしないで。きたいしちゃうから。おねがい。もうやさしく、しないで。

 おねがいストルさん、おねがい。淡く甘く繰り返す声に、深く息を吐き。

「――分かった」

 そう、一言告げて。ストルは強く、リトリアを抱く腕に力を込めた。その体がどこへも逃げていかないように。優しさはなく。痛みすら与えるであろう、強い力で。





 右の前髪を巻き込みながら頭の後ろまで編み込まれた細い三つ編みに、学園の保健医のひとりたる男レグルスは、手が込んでいるな、としみじみ感心した。

 相手が女性であったのならそうは思わなかっただろうが、たった今、不機嫌な顔をしてレグルスが椅子に座り向き合う机の上に、ばさりとばかり書類を投げ渡した相手は男性である。

 レグルスより年齢は一回り以上下ではあるが、白魔術師ならば誰もが一定の敬意を持って向きあわずにはいられない男。白魔法使い、フィオーレそのひとだった。

 学園に来る前に、正装でなければいけない用事で動いていたのだというフィオーレは、連れだって現れたレディと共に、やけにきらびやかな印象の魔術師の正装、それも儀礼用のものに身を包みこんでいた。

 正装は基本的に、その魔術師の髪色に合わせた布地で作られる。レディが着るそれは薄い薄い砂の色にも見える黄色に、金糸で細かい星空を模した刺繍のなされた星降の魔術師の礼装。

 フィオーレがまとうものはたっぷりの白を混ぜ込んだ桃色の布地に、火のような赤で植物模様の縫い付けがされた砂漠の魔術師の礼装だった。

 魔術師たちの最高位、ある意味ではその適性を持つ魔術師たちの長である二人がこうした礼装に袖を通す機会は意外なほど、多い。

 ひどい時は月の半分ほどを礼装で出歩かなければいけない為か、フィオーレもレディも非常に着なれて堂々としていたのだが、それでも二人がその服のまま、学園を訪れるなど今までなかったことだった。

 着替えなければ学園を訪れてはいけない、という規則がある訳ではないのだが。殊更己の魔力量に上限がないのだ、と示すその服を、二人はあまり好んではいない。

 なにか、まだ、着ていなければいけない用事があるのだろう。礼服の時には必ず髪を編んでひえた花の香りを漂わせる男の、強張った面差しから不機嫌と苛立ちを感じ取りながら、レグルスは投げてよこされた書類を整え、どうした、と問いかけた。

 灰緑色の、二色が混ざり合わず溶け合わず、ただ不思議にゆらゆらと濃淡だけを変える特殊な瞳が、怒りと、悲しみ、後悔と、苦しさをよぎらせ、レグルスを見た。ともに入室してきたレディは、疲れきっているのだろう。

 部屋の隅にある一人用のソファに身を沈めたまま、目を閉じて動こうとしていない。眠っている訳ではないとレグルスは知っている。罪のあがないのように。周期的にしか、レディはそれをすることができない。

 怒り震える声で、白魔法使いが告げる。

「……俺たちはなんで気がつかなかったんだろう、と思って。いや、気がつかないようにされてたから、気がつかなかっただけなんだけど。さすがは、リィだよ。もうさすがとしか言いようがないね。発想とやり口が俺とまるで一緒だもんな……!」

「フィオーレ。なんの話だ」

「リィの話だよ。リィの体調、その悪化が著しくて回復も遅い、その理由の話!」

 嘲笑う声の響きで吐き捨て、フィオーレは口唇に力を込めた。ふるふる、首が横に振られる。己を落ち着かせる為にだろう。肺のあたりに手を押し当てて深呼吸を繰り返すフィオーレに、レグルスは念のためだが、とそれを問うた。

「リトリアのこと、でいいのか? お前は在学時代から時々……本当に稀に、彼女のことをそう呼ぶが」

「……ああなに、気がついてたの。俺も気をつけてあんまり呼ばないようにしてた筈なんだけど」

 感情が荒れるとどうしてもだめだね、と相手の息の根を止めたがる物騒な光の宿る眼差しで、やわらかな微笑みを浮かべ、フィオーレがレグルスの目を見つめる。

 ごく慎重に、なにかを探り出そうとする視線。好きにさせてやりながら、レグルスは静かに、首を横に振った。

「なにか理由があったとしても、俺はそれを知らん。……落ち着いてくれ、白魔法使い。我らが最高位。リトリアの体調について、なにか分かったんだろう?」

「うん。……うん、そう。わかった。わかったよ……分かるように、なったからね」

 ごめんなさい八つ当たりした、落ち着く、と苦しげに告げながら、フィオーレは眼差しでレグルスへ渡した書類を読むように告げた。それはここ数年の、リトリアの健康管理書類をひとまとめにしたものだった。

 レグルスも何度も目にしたことのある、それ。ぱらぱらとめくりながらこれがどうした、と眉を寄せるレグルスに、フィオーレの指先が伸ばされる。とん、と指先が置かれたのは折れ線でグラフが描かれたひとつの図だった。

 体重の推移、と書かれている。学園にいた二年前、十三から、卒業したのちの十五歳までと、王宮魔術師になってからのここ数ヶ月のものが、細かい管理記録として残されていた。

 大きな変化はないが、ここ最近は不安定に、上下に揺れているのが分かる。これがなんだ、と問うレグルスに、フィオーレは苛立って舌打ちをした。

「まだ分かんないか……それと、見えてない? レグルス」

「見えていない……?」

「いい、わかった。説明するより、俺が解いた方が早い」

 いうなりフィオーレは、レグルスの眉間に指先を押し当てた。色をつけるなら、白。際立って白い魔力が、レグルスの目元を中心に流しこまれて行く。

 驚くレグルスに動かないで、と告げ、フィオーレは肺の奥まで息を吸い込んだ。ひややかな声が、世界へと告げる。

「『痛みと共に紡がれたいつわりの夢よ。花開く悲鳴の揺りかごよ。俺はその痛みと悲鳴を消し去る者。遠く、遠くへいつわりは運ばれる。響き続ける悲鳴はやがて消え、まどろみを見つめ続ける瞳はまことの世界を取り戻す。痛みも、悲鳴も、悲しみも、消えていく。消えろ、もうそれは必要ない……!』……レグルス、目をあけて。それでもっかい、図、見て」

 これがリィが、リトリアが、俺たちに隠し続けていたものだよ、と告げる声に、レグルスはいつの間にか閉じていた瞼を持ち上げた。淡く藤色に揺らめく透明なきらめきが、空気に溶け消えていくさまが見えた。

 リトリアの、魔力だ。まばたきをしながら息を吸い込んで、レグルスはフィオーレが指先をとん、と下ろす紙に目を向ける。体重だけが書かれていた筈のグラフに、身長の推移を表す表示が増えていた。

 まるで、たったいま、新しく書き加えられたかのように。予知魔術を使った隠蔽にぞっとする思いを感じながら、レグルスはそのグラフを見つめ、なんだこれは、と低く呻いた。記録されているのは二年間の変化。そうである筈なのに。

 リトリアの身長も、体重も、ほぼ水平な直線が引かれているのみだった。

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