そして焔と踊れ 04
廊下は授業中特有の、ざわめきを孕んだ静寂に満ちていた。扉の向こうでは魔術を語る声、あるいは歴史を紐とき明らかにする言葉が響き、建物のそこかしこでいくつもの魔力が揺らめいている。
食堂から保健室へ戻る途中、リトリアはその静けさをどこか落ち着かない気持ちで喉に通し、どきどきと弾む胸にゆびさきを押し当てた。なんとなく罪悪感があるのは、授業をさぼって出歩いているような気がするからだった。
卒業してもうしばらく経過するのに、なぜか、いけないことをしている気分になる。誰とも会わないように、そっと歩いているせいもあるだろう。リトリアが定期的に『学園』を訪れることになった理由を知るのは、ほんのひとにぎり。
寮長と保健医であるレグルスくらいのもので、話すことを強く咎められている訳ではないが、リトリアも聞かれてもはぐらかすようにしている。
食堂で会ったユーニャが深く事情を聞かず、やんわりと苦笑しながら、調子が悪いならあまり出歩かないでよく眠るんだよ、と言うに留めてくれたのは本当に幸いなことだった。
いつの間にか立ち止まっていた歩みを再開させながら、リトリアはどこか怖々と空気を喉に通して行く。『向こう側の世界』の毒のような熱さを、『中間区』の空気に感じることはこれまでも一度もなかったのだが、怖いと思ってしまうことはもう仕方がないだろう。
それでも、ひと呼吸ごと、体からだるい痛みがゆるゆると消し去られて行くのを感じた。きよらかな空気は確かにリトリアの体を回復させ、白魔術よりも効果的に癒し、清めて行くのだった。
『向こう側の世界』の大気は、リトリアにしてみれば確かに毒なのだ。ある程度回復した状態であれば持ちこたえられる、とそれだけのことで。いずれまた喉は焼かれ、全身が鈍い痛みを発して動けなくなるだろう。
そうなる前に学園へ戻り、回復させ、その繰り返し。ゆったりとした足運びで廊下を進みながら、リトリアは先日、白魔法使いが告げた言葉を思い出していた。
『それでも、もうすこし心を強く持てれば、というか。精神的に安定すれば、毒にやられることもない、と思う』
それは恐らく、リトリアに聞かせるつもりのない言葉だった。面と向かって告げられたのではなく、夢うつつの声としてリトリアがそれを勝手に聞いてしまっただけなのだから。
それは確か、レディに連れられてほんの一時間、学園を訪れ、帰ってきた夜のことであったように思う。
記憶はすこしだけ曖昧で完全な確信を持つことができなかったが、部屋で眠るリトリアの体調を確認しに訪れたフィオーレが、レディになにかを問われそう告げていた。リトリアも、レディも、フィオーレも、王宮魔術師だ。
そうそう個人的な都合で出歩ける訳ではなく、その夜も、乾いた咳をするリトリアを心配した楽音の王が、多少無理を言ってレディを呼びだした末のことであったのだ。
白魔術師たちが予測した結果では三ヶ月に一度、ほんの数時間、学園を訪れれば保たれる筈の体調は、その想定よりはるかに早く崩れてしまっている。
その理由を、フィオーレは告げたのだ。あまりに精神的な安定を欠いている。恐らくはそのせいで毒の巡りが早い、と。レディは舌打ちし、呪うように、リトリアのいとしいふたりの名を呟いた。
あのふたりが傍にいないせいだ、と言わんばかりの声の響き。ちがうの、とリトリアは声も出せずに思ったことを覚えている。
ちがうのちがうのつふぃあとすとるさんのせいじゃないの、わたしがいけないのわたしがわるいこだからいけないの、だからふたりはとおくへいってしまったのもうあえないのあいたくないっていわれたのわたしのせいなの。
わたしが。さびしいのもがまんできない、わるいこだから。あいたくないっていわれたのにあいたいって、わがままばっかりいうから、だから。だから、ふたりとも、わたしを。
ぶつ、と意識が途切れ、それ以上の思考もなく、交わされたであろう会話もリトリアは知らないままだった。
けふ、と乾いた咳で一度、喉を震わせ、リトリアは保健室へ戻る最後の廊下を曲がる。そして、足を止めた。視線の先にいたのは、顔見知りの女性教員だった。
リトリアが在学していた時はまだ生徒であった筈だが、一足先に卒業し、確か今は学園で事務仕事をしている筈の。リトリアがあまり緊張せず話しかけられる数人のうちひとりだ。
なめらかな夜色の肌が、どこかツフィアを思い出させるからかも知れなかった。パルウェさん、と口の中でちいさく呟き、リトリアは首を傾げながらそちらへ足を進めた。
たたた、と小走りに歩み寄り、無言でローブを軽く引っ張ってから、驚きに向けられるトパーズの、柔らかな黄玉色の瞳に問いかける。
「パルウェさん、こんにちは。……どうかされましたか?」
「あら、リトリアちゃんじゃない。おどろいたわぁ」
リトリアはローブを掴んだ手をぱっとばかり離し、顔を赤らめてごめんなさい、とちいさな声で謝った。あのふたりのことを考えていたので、彼らにするように話しかけてしまったのだ。
ストルも、ツフィアも、ある一定の距離まで近づくとリトリアにすぐ気がついてくれる。顔を向けたり声をかけてくれたりするかはその時によって様々だが、服を引っ張っても驚かれることはまずないのだった。
もうしません、としゅんとして反省するリトリアに微笑みを深め、パルウェはこんなところでどうしたのかしら、と問いかけてくる。
「ひとりできたのぉ? チェチェは? レディは一緒かしら?」
「……えっと」
たぶん、きた時はチェチェリアと一緒、であったと思うのだが。あいにくと、道中の記憶がすっぽりと抜けてしまっている。
そういえばひとりで帰っていいのか、チェチェリアが授業を終えて戻ってくるのを待っていた方がいいのかも分からず、リトリアは困惑に眉を寄せた。
そろりと視線を彷徨わせながらどうしよう、と考え、リトリアはパルウェが手に持つとあるものに気がつき、目を瞬かせる。それを廊下から拾い上げ、困惑していた所をリトリアが見かけて声をかけたのだった。
それはカフスボタンだった。正方形にカットされた銀の台座に、うす藤色のスワロフスキーが埋め込まれている。なにかの拍子に、留め具が緩んで落ちてしまったのだろう。
ひとつきり廊下に転がっていたそれを手で転がしながら、落としものなのよ、とパルウェがいいかけた、その時だった。きょとん、と目を瞬かせ、リトリアが首を傾げる。
「ストルさんの」
が、どうしてこんな所に落ちているのか。そう、言わんばかりの口調だった。パルウェは反射的に笑いに吹き出しそうになりながら、カフスボタンに視線を落とし、注視した。本人の魔力でも残存しているのかと思いきや、その気配もない。
だいたい、それならば触れた瞬間にパルウェにも分かるだろう。逆に、魔力が残っていようといなかろうと、リトリアにはものすごく頑張らなければ分からない筈である。
えっとぉ、と笑いながら、パルウェは不思議そうなリトリアに問いかけた。
「リトリアちゃんは、どうしてこれがストルの、って思うのぉ?」
こてり、ひどく幼い仕草でリトリアが首を傾げ、無言で何度か瞬きをした。おもう、とたどたどしく言葉が繰り返される様を見る分に、思うとするのは本人の中で適切ではないらしい。
んと、ときゅぅと眉を寄せながら、リトリアがこわごわ言葉を紡いで行く。
「だって、それ、ストルさんのですよね……?」
「うん、だからぁ。リトリアちゃんは、どうしてそう思うのかしら? ストルがこれをつけていた?」
見たところ、まだカフスボタンは真新しい。買ったばかり、というところだろう。予想にたがわず、リトリアはふるふるふると首を横にふった。うまく説明できないのだろう。
瞳にじわじわと涙を浮かばせながら、リトリアは上目づかいにパルウェを見る。
「ストルさんのは……」
「ストルのは?」
「わかる、の……。ツフィアのも、みれば、わかると思います。どうしてかしら……?」
本人が分からないものを、パルウェが理解できる筈もない。うふふっ、と楽しげに笑いながら、パルウェは目を細めてカフスボタンを見つめた。あのふたりが保護者と呼ばれたのは、もちろん、ふたりの過保護と溺愛あってのことであるのだが。
そう呼ばせるだけの理由を、確かにリトリアも持っていたのだった。パルウェはリトリアの手にぽん、とカフスボタンを受け渡し、じゃあお願いしちゃうわ、と囁いた。
「ストルの……そうねぇ、講師室にでも届けておいてくれる?」
「わ……私が、ですか……?」
「お願い。大丈夫よ、万一、ストルのじゃなくてもリトリアちゃんがそうしたなら、怒られはしないわ」
間違われたことで大人げなく多少拗ねたりはするかも知れないが。そういう問題じゃないんです、とばかり涙ぐむリトリアに、それじゃあよろしくねぇ、と言い渡し、パルウェは何処へと歩き去ってしまった。
なにやら事務仕事が立て込んでいて忙しいらしい。リトリアはオロオロと意味もなく周囲を見回し、てのひらに残されたカフスボタンを指先で握り締めた。やがてリトリアは、きゅぅとくちびるに力を込めて身をひるがえす。
向かったのはもうほんのすこしの距離にある保健室の扉、ではなく。逆方向。学園で教鞭をとる魔術師たちに与えられる部屋のある、教員棟、と呼ばれる建物へ向かう方角だった。
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