祝福の子よ、泣くな 04
朝の五時くらいに起きようと思ってたのに目が覚めたらもうお昼の一時くらいだった気持ちなの。
それってちょっとあり得ないよね、と心底落ち込みながら久しぶりの朝食を口にした魔法使いは、食堂の片隅を陣取って四か月分の報告書に目を通していた。
二ヶ月寝坊していた間に執務机が片付けられてしまっていたので、そこくらいしか空いている場所がなかったのだ。部屋は、明日にでも整えてくれるという。
いいわよ好きなだけ私の部屋を物置きにでもしちゃえばいいじゃない、と拗ねながら、魔法使いは文字列を真剣に目で追って行く。
一カ月の出来事を一枚にまとめた用紙は、当然のことながら四枚ある。どれも寝起きの頭にすっきりと入ってくるように文章が練り込まれていて、魔法使いはそれを苦に思うことなく読み進めることが出来た。
時間にして三十分。魔法使いは報告書を手に椅子を立ち、足早に食堂を出て行った。その後を、鳥が追う。羽根を動かすたびにうつくしく火の粉を散らす鳥を振り返ることなく、魔法使いは廊下をつき進んで行った。
すれ違う顔見知りに挨拶をしていると、不意に手首を掴まれ、引っ張られる。
「レディ」
「……ストル。おはよう」
「おはよう。どこへ?」
それ以上歩くな、とばかり魔法使いを引きとめたのは、同僚の王宮魔術師だった。しばらく見ない間に、なにやら不機嫌な顔つきになっている。
なにか嫌なことでもあったの、と問うと目を細めて息を吐かれたので、魔法使いは数年の付き合いでその原因を正確に理解した。
「リトリアちゃん?」
「……レディ。どこへ行くつもりだったんだ?」
聞くな、とばかり質問を無視されて、魔法使いは掴まれたままの手首を見つめ、腕をふらふらと動かしてみた。
「どこへって、陛下の執務室に決まっているでしょう。報告書を読み終わったから」
できれば離して欲しかったのだが、そうか、と頷くストルにその気はないらしい。それならばこっちだ、と魔法使いが来た道を手首を掴んだまま戻り始めるので、案内してくれるつもりらしかった。
引っ張られて歩く魔法使いに、つかず離れず、鳥がくっついてくる。まだ空気は酷暑の名残を残す中である。ややうんざりと鳥を見やるストルに、魔法使いはごめんね、と首を傾げてみせた。
「はやく涼しくなればいいんだけれど……ところで、陛下の執務室はいつの間に引っ越ししたの?」
「してない」
いい加減にレディは方向感覚がないということを自覚し理解してくれ、と言われて、魔法使いは唇を尖らせた。そんなことを言われても。
自分では完璧に道順を覚えている、と思っているし、間違った方角へ進んでいた気も、辿ってきた道を逆に歩む今ですらしていないのだから難しい問題だった。
それでも私はいつかは辿りつくでしょう、と告げる魔法使いを振り返り、ストルはふるふる、静かに首を左右に振った。
「いいから。帰りは誰か別の相手を捕まえて、部屋まで連れて行ってもらえ」
「ストルは?」
「授業だ。学園に行く」
用事が済んだとばかり魔法使いの手首をぱっと解放し、ストルが身を翻したのは執務室の扉の前だった。すでに数歩立ち去っているその背に、魔法使いはねえ、と呼びかける。
「連れてきてくれてありがとう。手を繋いでくれないのは、なにかのおまじない?」
「そうするのは一人と決めている」
ひらりと片手を挨拶代わりに空で振り、ストルは早足に立ち去ってしまった。その方角に学園へ向かう『扉』がある気がしないのだが、ストルが向かったので、たぶん、そこにあるのだろう。
魔法使いは不思議そうにその背が見えなくなるまで見送って、口元に手をあてて忍び笑いをする。ストルは、案外簡単にひっかかる。全く、そんなに好きならばはやく捕まえに行ってしまえばいいものを。
なにを難しく考えているのだか、ストルはわざとリトリアに会わないようにしているようだった。魔法使いが眠っていた四ヶ月で、なにか進展がなければ、の話ではあるのだが。
業務報告書には当然書かれていなかったので、こればかりは本人に確かめるか、あるいは魔法使いを愛する陛下に聞くしかあるまい。
執務室の扉を叩き入室の許可を得て、魔法使いは、実に四カ月ぶりに己の主へ対面した。星降の国王は椅子を倒す勢いで立ち上がり、うわああぁっ、とはしゃいだ声をあげて魔法使いへ抱きついた。
その背後で、触んな、とばかり威嚇をする不死鳥にも目を細めてこっちも久しぶりだー、と暢気に笑い、星降の国王は魔法使いの顔を覗き込む。
「あんまり寝てるから、もう起きないんじゃないかと思った。……気分はどう? レィティシア」
「すみません。寝すぎてしまったくらいで、元気です」
レィティシア、というのが魔法使いの名だった。今となっては星降の国王くらいしか、その名を呼ぶことはない。大体の相手は魔法使いを『レディ』と呼び、その中のごく親しい数人だけが、時折『ティア』と愛称で呼ぶ。
正式な名を呼びかけてくれるのは、今となっては星降の国王くらいのものだった。世界に残された者たちの中、一人だけに、魔法使いはそれを許した。
「報告書は読みました。今年は新入生が四人もいるんですね……ウィッシュが先生なんて、びっくりしましたが。大丈夫なんですか? 彼、体調を崩しやすいのはとうとう治らなかった筈ですけれど」
「ウィッシュの守護についてくれてる彼が、加護をめいっぱい強めてくれてる。今のところはなんとかなってるよ」
実技授業自体もかなり不定期だからな、と言いながらようやく魔法使いから体を離し、星降の国王は嬉しげに目を細めた。読んだ報告書を執務机の隅に置き、振り返った魔法使いが問いかける。
「なにか?」
「うん。起きてくれて嬉しいなって。……本当に、もう起きないかと思ってたよ」
それならばもう仕方がないかとも思っていた。静かな声で告げる星降の国王の前まで、魔法使いは静かに歩み寄る。ためらうことなく跪く魔法使いの肩に、舞いおりてきた不死鳥が止まった。
鳥の火は、魔法使いを焼くことがない。その身に纏う衣すら。熱はただじわりと優しく広がるばかりで、魔法使いの肩に触れていた。陛下、と魔法使いは目を伏せたまま己の主を呼ぶ。
「ごめんなさい……ただ、寝すぎてしまっただけなんです」
「疲れてた?」
「そう、かも、知れません……」
四か月前。眠りにつく前、魔法使いはとある仕事で砂漠の国へ赴いていた。魔法使いの故国。そこへ足を踏み入れることが、どういう感情を呼び起こすのかは、魔法使い自身にすら分からない。
それはもう失われてしまったものだからだ。なにも感じないのではない。なにを感じているのか、それを正確に理解できないでいる。星降の国王は慰めるように魔法使いの肩に、鳥の乗らぬ方に指先を押し当てた。
「立って。……怒ってる訳じゃない。レィティシアに、頼みごとがいくつか来ていたから、どうしようかなって悩んでただけだからさ。起きてすぐで悪いんだけど、仕事をひとつ受けてもらう。それと……頼みごと、かな。こっちは考える余地はあるよ」
それは、厳密に言うとどちらにも拒否権がない、という意味である。王宮魔術師は誰もがそうであるのだが。ふ、と遠い目になりつつ立ち上がり、魔法使いは分かりました、と王の要求を受諾した。元より、他の返事など許されていない。
それでも、嫌々な返事ではなかったからだろう。ほっと表情を和ませる王に、魔法使いは心を和ませた。仕える主君の、そういう冷たくなりきらない所が、とても可愛いと思う。
もっと押し付けてくれた方が楽なことも多いが、それを望むのは酷であることも、もう分かっていた。星降の国王は、魔術師という存在を心から愛している。たとえ、どんな過ちを犯したものであろうと。
「仕事は、学園に行くこと。新入生の、ソキ。昨日から、彼女が魔力漏れを起こしてしまっているらしい。その対処と調査を」
「かしこまりました、我がきみ」
「それと、頼みごと……なんだけど」
星降の国王は心から気まずげに視線を反らし、その内容を魔法使いに告げた。心から全力で拒否したい気持ちになりながら、魔法使いは分かりましたと声を絞り出し、ふらりと足元をもつれさせながら執務室の扉へ向かう。
すぐにでも学園に向かってやった方がいいだろうと思いつつ、魔法使いは胃の痛い表情で振り返った。
「ちなみに、私がそれになるとして、もう片方はどうするんですか……?」
「……候補者として出てるのは何人かいるけど、このままだとフィオーレかな」
「うわぁい魔法使い祭りじゃないですかなにそれちっともたのしくない……」
ちなみにフィオーレにも話は行ってるんですか、と問う魔法使いに、星降の国王は無言で頷いた。それはつまり、遠からず、現実になってくる可能性が高い『お願い』であるということだ。
できれば全力でお断りしたい、できないけど、と思いつつ、魔法使いはもう一度分かりましたと頷き、王の執務室を後にした。ストルに、誰かに部屋に連れ帰ってもらえ、と言われていたことをすっかり忘れて。
魔法使いが四カ月ぶりに己の私室に辿りついたのは、その日の昼過ぎのことだった。
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